野中広務元衆院議員 死去

自民党の元衆議院議員で、党の幹事長や官房長官などを歴任した野中広務氏が、26日午後、京都市内の病院で亡くなりました。92歳でした。
野中氏は、京都府議会議員や京都府の副知事を務めたあと、昭和58年に行われた衆議院旧京都2区の補欠選挙で初当選し、7回連続で当選しました。
平成4年に当時の自民党竹下派が分裂した際、派閥の会長代行だった小沢一郎氏の派閥運営を批判し、「反小沢」の急先鋒として、頭角を現しました。
平成5年に、自民党が野党に転落したあと細川連立政権の打倒に向け中心的な役割を果たし、自民・社会・さきがけの3党連立による村山内閣の誕生に貢献しました。
村山内閣では、自治大臣・国家公安委員長として初入閣し、地下鉄サリン事件をはじめ、オウム真理教による一連の事件解明の陣頭指揮にあたりました。
平成10年に誕生した小渕内閣では官房長官として政権を支え、対立関係にあった小沢氏が率いる自由党との連立政権や公明党を加えた3党連立政権の発足にも力を注ぎました。
その後、自民党幹事長に就任した野中氏は、加藤紘一氏らが森総理大臣の退陣を求めて内閣不信任決議案に同調しようとした、いわゆる「加藤の乱」の対応にあたりました。
平成13年に小泉内閣が発足すると、野中氏は一貫して小泉総理大臣の政治手法を批判し、小泉総理大臣からは、「抵抗勢力」として位置づけられました。
平成15年の自民党総裁選挙で、再選を目指す小泉総理大臣への支持が広がりを見せる中、「退路を断って、最後の情熱と志を小泉政権を否定する戦いに尽くしたい」と述べ、小泉総理大臣の再選阻止を目指しました。
しかし、小泉総理大臣は再選され、野中氏はその年の衆議院選挙に立候補せず政界を引退しました。
一方で、野中氏はみずからの戦争体験から、いわゆる「ハト派」の論客として知られ、引退後も憲法改正に反対する考えを発信しました。
また、地下鉄サリン事件の解明を指揮したことから、地下鉄・霞ケ関駅で行われる犠牲者の慰霊式に、毎年、足を運ぶなど、弱者に対するまなざしを大切にする政治家としても知られました。
野中氏は、民主党政権だった平成23年、土地改良事業を推進する団体の会長を続けるうえで政治的に中立な立場を明確にしたいとして自民党を離党しましたが、おととし6月に復党していました。
野中氏は去年11月、体調の不良を訴え、26日午後、京都市内の病院で亡くなりました。
野中氏の出身地、京都府南丹市園部町でも惜しむ声が聞かれました。
60代の男性は、「喫茶店で拝見したことがあり、私が目礼をしたら野中さんからも目礼を返していただき、いい人だなと思ったことがあります。国のために頑張った人で、園部町だけでなく日本の誇りだと思います」と話していました。
また50代の男性は「地元に貢献した人で、地方議員から国会議員になってからも園部町に尽力してくれました。芯が通っていて、自分がこうと思ったらやり遂げる方だった。亡くなられてとても残念です」と話していました。
野中氏が30年以上理事長を務めた南丹市の社会福祉法人、「京都太陽の園」の理事長で、野中氏と60年来の付き合いがある垣村和男さんは、NHKの取材に対し、「野中さんはどんな人に接する時も差を付けず、人間関係を特に大事にした人だった。理事長を務めていた時は地元の行事の帰りなどに顔を出してくれて施設を利用する障害者のことを気に掛けてくれた。とても寂しく、国としても大きな存在を失ったことが残念でならない」と話していました。
京都府の山田知事は、「京都府にとってかけがえのない人を失いました。今の京都府の発展の基盤を築いた方で、京都府が誇る偉人でありました。これまでの功績に敬意を表しますとともに心よりご冥福をお祈り申し上げます」とコメントしています。
京都市の門川市長は、「寂しいかぎりで胸に大きな穴が空いたようだ。政治家として、人間として心から尊敬し、多くを学ばせていただいた。平和と人権を尊重し、社会的弱者に寄り添って優しさあふれる政治家として生涯を貫かれた。
高いお志に深く敬意と感謝を申し上げ皆で引き継いでまいります」というコメントを出しました。
古賀誠元自民党幹事長はNHKの取材に対し、「92年の野中氏の人生すべてが政治であり、国と国民のことを常に考えていた。エピソードは数え上げればきりがなく、つきあいすべてが、エピソードだ。
またひとつ、昭和が遠くなった。
お疲れさまでしたと申し上げたい」と述べました。
自民党の政務調査会長などを務めた亀井静香氏はNHKの取材に対し、「『巨星おつ』ということばに私の気持ちを込めたい。極めて寂しい。野中氏は、国家、国民のことを真剣に考えて活動してきた政治家で、尊敬していた。政治の裏方に徹していたが、裏方がいてこそ表の政治が動くものであり、今は彼のような骨太の政治家がいなくなり、残念だ」と述べました。
自民党の参議院議員会長などを務めた青木幹雄氏は、「非常に残念で、惜しい方を亡くした。奥様が島根の方で、長い間、おつき合いをさせていただいた。心から哀悼の意を表したい」というコメントを発表しました。
自由党の小沢代表は、「私が政治改革を志して、その道を進み始めた時から、考え方や政治的な立場は異なったが、その政治的手腕と力量には他の追随を許さないものがあり、同じ政治家として、いつも感服していた。ご自身の体験と経験に裏打ちされた深い哲学と思想を持たれ、常にそれに基づいて果断に行動されてきた信念の政治家であり、存在そのものに大きく重い説得力があったように思う」というコメントを発表しました。
立憲民主党の辻元国会対策委員長は、国会内で記者団に対し「戦争体験者として、野中さんは、日本の1つの良心であり、この時代にもう少し頑張ってほしかった。『戦争だけは絶対あかん』、『憲法9条は絶対守る』という意思が非常に強い方だったので平和のともし火が消えてしまったのかなという気持ちで残念だ」と述べました。