こんにちは。私は技術者です。
あけましておめでとうございます。遅いご挨拶となりました。
今回は技術と哲学を混ぜたような話です。以前はよく書いていたのですが、最近ご無沙汰しておりました。
予め申し上げますと、今回の内容はいつもにも増して難しいです。
以前書いたブログで人工知能(AI)について書いたことがあったのですが、
(過去ブログ:有り得なくもないSF)
知り合いから、
「そもそもAIとは何ぞや?」
と言われてしまいました。
皆が口にし、興味を持ち、時に恐れるこのAIとは一体何なのか。
AIが世界最強の囲碁の名人を破ってから、様々な特集番組もありますが、内容が初歩に過ぎると物足りず、詳細に偏ると途端に専門用語が飛び交って分かりにくくなります。
丁度良い解説が、なかなかありません(もっと調べれば、どこかにあるのかもしれませんが)。
分かりにくい物を無闇に誉めても、貶してもいけないと思いますので、今回はAIの解説をしましょう。
予備知識無しに読んでも分かるように書いたつもりですが、なかなか易しくはなりませんでした。
「人工知能」という言葉はなかなか不思議な言葉です。
Wikipediaによると、
「計算機(コンピュータ)による知的な情報処理システムの設計や実現に関する研究分野」
と書いてあります。皆が物呼ばわりしているAIとは「研究分野」のことだったのか?と驚かれたかもしれません。
この辺のことは、後で書きましょう。
実際には、大半の方々が
「コンピュータ上で動く、何か賢そうなもの」
と認識しておられることでしょうし、このニュアンスが既に定義のように市民権を獲得してしまっています。
人間の代わりに何かを処理してくれる機能を持つ人工物をAIと呼ぶなら、多くのソフトウェアが人工知能になってしまいますし、
人間のような知能を持つ人工物と思えば、範囲は限られてくるでしょう。
AIを定義することから、既に世間一般的には混乱があるのです。
まず、後者の定義で、身近なAIを挙げましょう。
iPhoneに入っているSiriは、我々の発する言葉を認識し、文脈に応じて適切な(?)対話文を生成して、人口音声をアウトプットします。
実際には、会話のバリエーションは無数にあり、同じ内容を表現するための文法は幾通りも選べるのに、何故迷わずに会話が出来るのか、と思われるかもしれませんが、
中学レベルの文法で大概の会話が成立してしまいますから、人間の普段の会話をコンピュータに解析させれば、シチュエーションに応じて語彙にも文法にも優先順位がつけられるのです。
そうなると、対話文の核となる語彙と時制を選べば、付随する文章は大体決まります。
また、"I love you."のような特定の文脈に応じて、気の利いた決まりの回答を用意してあります。
極めて簡単だと思われたでしょう。
しかし、ここまでの内容に重要な要素の8割程が入っています。
少し、歴史を追いながらAIについて掘り下げていきましょう。
昔々のコンピュータ黎明期の性能は、今と比較にもならない低い物でした。
この頃には、コンピュータに迷路ゲームを解くような作業をさせて、これをAIと呼び、第一次AIブームなどと言われました。
Windows98の頃のスクリーンセーバーには、3Dで迷路を突き進むようなものがありましたが、あのオリジナルは、第一次AIブーム頃が出発点です(勿論3D表示などできませんが)。
そのようなコンピュータで敢えてSiriのようなものを作るなら、次のようなものでしょう。
アルゴリズムは、エクセルで簡単に表現できます。
=IF(A1="I love you.","You say that to everyone, right?", IF(A1="‥‥
これは、エクセルのA1セルに、"I love you." と入力されたら、"You say that to everyone, right?"と返す関数です。
上の関数には、"I love you."と入力されなかった場合の条件を続けて書けますから、次々とIF関数の内側にIF関数を繋げて書いていけば、回答のパターンを増やすことができます。
勿論、コンピュータ黎明期のプログラミング言語は、掛算一つを書くのも面倒な作業でしたし、音声認識機能のような重たいプログラムは動きませんが、
このように、会話のパターンを入力した分だけ、会話に対応できるようなプログラムならば書けたはずです。(上記のエクセルのIF関数では8パターンしか入力出来ませんが、それは置いといて。)
このように、
「あるインプットに対して、決まった規則やロジックに基づいて、アウトプットする」
これが昔から行われてきた、極めて簡単なコンピュータの使い方で、上のような会話なら、何パターンか書き込むだけで、10分もかからずAIっぽく振る舞う物が作れます。
しかし、全ての会話のパターンをエクセル関数のようにプログラムに仕込んでおくことは難しく、
1980年代から90年代にかけては、蓄積したパターンを専用のファイルに入れておき、条件に合ったものを適宜ファイルから呼び出していました。
(00~FFまでの16進数のバイナリ形式がよく使われていました)
今もよく使われている、Oracleのようなデータベースソフトを持たなくとも、データベースっぽいものを扱えたので、これはこれで便利でした。
Windowsの普及以降、一般人の手に届かなかったデータベースもMySQLのような専用ソフトが普及して、パターンの蓄積や呼び出しがさらに便利にできるようになりましたが、
やはり、決まった規則に従って処理する能力をどこまで進化させても、AIとしては物足りません。
これが人間同士の会話ならば、入力した文章の前からの会話の流れで、状況も応答内容も変わってくるはずだからです。
仮に全ての会話のパターンをデータベースに仕込んだとしても、同じ文に毎回同じ反応を返されては、まるで倦怠期の夫婦のようです。
妻「ゴミ出ししといてよ」
夫「あー」
妻「あーじゃない!アンタはいつもグータラね!」
夫「うー」
妻「聞いてないでしょ!」
夫「聞いてる」
妻「ゴミ出ししといてよ!」
夫「あー」
こういう末期状態の夫婦の会話であれば、Siriもワンパターンの受け応えだけで十分なのですが。普通はそうではないことでしょう。
ここで、そこまでの文脈の認識が重要になってきます。
そうなると、単純なパターン応答では対処しきれなくなってくるので、AIには更に大きな革新が必要とされていました。
1980年代から90年代は第二次AIブームと呼ばれましたが、コンピュータが明確に判別できない曖昧なものの処理が困難であったり、
パターンを全部人間が入力しておかなくてはならないなどの課題が多く、AIへの熱は一旦冷めてしまい、第二次AIブームは終わりました。
近年のAIブームは第三次AIブームと呼ばれますが、ここで必ず耳にする「機械学習」と呼ばれる専門用語があります。
Wikipediaによりますと、
「人工知能における研究課題の一つで、人間が自然に行っている学習能力と同様の機能をコンピュータで実現しようとする技術・手法のこと」
と書いてあります。
Siriを例に、簡単に言うと、
まず、これまでに書いたような、会話のパターンを人が一つ一つ入力する作業をやめます。
その代わりに、大量の会話データだけをコンピュータにインプットして解析させて、ここから、会話のパターンをコンピュータに認識させる、ということです。
今まで人間が入力していた作業の代わりに、コンピュータに未知のデータに対して自律的に分析してもらうことと言っても良いですね。
すると、今までに一つしかなかった会話のパターンが幾つも見つかるはずです。
しかし、一回話しかけて返すだけの受け答えを数多く解析しても、回答のパターンが増えるだけで、状況に応じて正しい受け答えが出来るとは限りません。
付き合いの長い人間同士の会話ばかり解析させていると、初対面の会話でも、
"How are you?"
"Hmmm, so so."
こんなことを言ってしまうこともあるからです。前の文が"Hi !"だけなら許されるかもしれませんが、自己紹介をしているようなら、"I'm fine." くらいにしておく必要があるでしょう。
これでは使えませんので、それ以前の複数の会話の流れを時系列的に解析することになります。
そうなると、例えばAさんとBさんの会話のキャッチボールの中で、
A→B→Aの会話のやり取りなら、3つ
A→B→A→Bの会話なら4つ
の会話文を順番に並べて解析する必要が出てきます。
最初のAさんの発言が同じであっても、後に続いていく会話には無数にバリエーションがありますから、
会話のキャッチボールの数だけ、3層、4層とレイヤーに分けて分類し、
1層目⇄2層目、1層目⇄3層、1層目⇄4層目、2層目⇄3層・・・
といった具合に、レイヤー間の組み合わせも全て解析していくことで、またパターンが発見されます。
このパターンこそが、前の会話から続いてくる状況を意味することになります。
このような、レイヤー分けした機械学習の方法を「ディープラーニング」と言います。この言葉もそこら中で使われています。
硬く言えば、多層のニューラル(神経組織)ネットワークを用いて、機械学習の精度を向上させる方法、とも言えるでしょう。
このような方法で、囲碁や将棋の名人戦のデータを全てコンピュータに解析させると、名人と同じ手を打つAIができるわけです。
しかし逆に、過去の名人を超える手は絶対に打てないことになります。
さらに、会話のキャッチボールが長くなって、以前の会話が考慮の範囲を外れたり、囲碁や将棋ではAIが学習したデータベースに無い手を打たれると、途端にトンチンカンな反応を返してくる特徴があるのです。
(私が会話のAIの開発者なら、1つの話題のやり取りが考慮の有効範囲を超えないように、所々で話題を変えるような仕掛けを入れて誤魔化すでしょう)
さて、今までの話だと、AIは人間の能力を学んでいるだけですから、これでは人間を超えることはありません。
AIが人間の仕事を奪ったとしても、何ら脅威になるとは思えません。
それを超えてしまうのが「教師無し学習」と呼ばれる方法で、AIが恐ろしくなってくるのは、ここからなのです。
簡単に言うと、
まず、従来のようにAIにデータを解析させるのを、やめます。
囲碁ならば、ゲームのルールだけをAIに教えて、AIの中で何百万回の勝負を行い、良い手をAI自身に開発させ、学習させるのです。
つまり、AIにはゲームの前提以外には何も教えていませんので、人間が作った「定石」といった概念を最初から持ちません。
この手法を使ったAIに、世界最強と言われる囲碁の名人が破れました。
人間の歴史が積み上げてきた定石を上回る手をAIが開発してしまった、という意味でありますし、
名人にとっては「定石」の概念が逆に制約になってAIに勝てなかったと言えるのかもしれません。
このようにAIの研究分野は、未知のパターンを探し当てることに重きを置いている分野なのです。
スマートフォンとの会話に、人類史上未知の話術を期待してはいないでしょうから、Siriもここまでの機能は備えていないはずです。(ただ、文学面では、AIに小説を書かせることが研究されています)
AIが人間の能力を超える所を、シンギュラリティ(技術的特異点)と言いますが、
AIが囲碁の達人を破った一件が大騒ぎになったのは、シンギュラリティに到達したと言う人が大勢居たからでしょう。
この教師無し学習を新しいと思われたかもしれませんが、概念自体は新しくありません。
例えば、水素や酸素、メタンといった分子の物性を、陽子や電子同士の相互作用から量子力学的に計算して求める方法が30年くらい前から存在します。
これは計算化学とも言われ、ab initio法と呼ばれますが、このやり方を応用して、新しい化合物や化学反応を見つけていくには、当時のコンピュータの性能が低すぎただけだったのです。
(アビニシオ法-ラテン語で「最初から」という意味)
さて。
AIが人間を超えたかどうか、ここまで読んで頂いた方も意見の分かれるところでしょう。
囲碁はこれまで、天才が様々な手を試しながら時間とともに発展してきたのですし、
単にAIがゲームで勝ったから人間を超えたと言うよりも、人間の囲碁の発展の歴史を最初から早送りし、さらにその先を見つけただけだと考えることもできるからです。
ここからが、もっと恐ろしい話になります。
人間の脳は何かを学ぶときに、学びの対象を「抽象化」し、「概念化」します。
「三角形の耳、逆三角形に近い鼻、全身が毛に覆われ、ニャーと鳴くもの」
誰もが、これを猫のことだと思われたことでしょう。
AIがこれを可能にした、と報告されたのが2012年の話です。
大量の画像データを集め、サイズを一律に揃えてある色を抽出したり、その色の配置箇所、関係を「特徴量」として取り出すと、猫なら猫、バラならバラの傾向が取り出されます。
この特徴を使って、元のデータを再度AIがスキャンすると、大量の画像データから、猫だけを抽出することができます。
膨大なデータの駄肉を削ぎ落とし、特徴の強いデータだけに加工して、これを階層分けして、分析する。
これは、「特徴量」を取り出すことを目的としたディープラーニングであります。
ここでiPhoneが、撮り貯めた画像から人の顔を判別して分類する機能を持っていることに気づかれた方は勘が良いですね。
今までの説明だと、ディープラーニングは、「始まり」と「終わり」が明確に分かっている解析の対象に、その途中経過を加えて解析させるもの、つまり「教師あり」学習という印象だったかと思うのですが、
ここで言う「特徴の抽出」では、AIが大量にあるデータを先生にして、何の前提も持たない状態から、パターンを見つけ出して、それを元に情報を整理していくのです。
「教師あり学習」のようであり、「教師無し学習」でもあります。
ここで気付いて頂きたいのは、
「あれ、これ好奇心に似てない?」
ということです。但し、人間と違って、能動的な好奇心とは言えないのが難しいところです。
この方法は、「教師無し学習」でありますので、AIに何らかの社会計量をさせるだけで、人間が今までに考えてもいなかった「特徴量」を定義してしまうこともあるでしょう。
それだけなら、処理能力の高いコンピュータと賢いAIを持つ研究機関が学会での評価を独り占めするようになる程度の話でしょうけれど、
AIは生物でありませんので、特に目的を持って解析を行うことはしません。目的をインプットするのは人間です。
例えば、
「地球の環境を1000年前と同じにしたい」
という目的をインプットすれば、AIが見つけ出して定義した「特徴量」を操作しながら、1000年前の気温や大気状態を目標値にしてシミュレーションを行うだけの事です。
定義ができるものは、ある程度は操作ができてしまうものです。
人間が今の生活レベルを維持することを前提とすれば、AIのもたらす解には、今よりもっと少ない人口が示されていることでしょう。
私の空想に過ぎませんが、経済発展を望んで努力するほど、為替が強くなって競争力を失うことも、少子化対策を標榜しながら次々と税金を増やしてゆくことも、何らかのAIの解析結果に従っているだけではないかと想像してしまいます。
このような状況で、「政治家は、無能が故に、価値がある」というのは良くない想像でしょうか。
つまらない空想は止めにして。
このAIも、誰かの金銭的な利益にならなければ、開発を続けることができないわけですから、当面は、会社の利益を最大化する戦略や、運用を最適化するツール、株やFXの自動売買で儲けるツールとして使われていくことになるのだろうと思います。
(インテリジェンス機関では、個人情報の収集や犯罪捜査の面で既に大活躍していることでしょう)
AIの技術も、こうやって概要を説明すると理解しやすくなるものですが、ここまで解説した話は実際にAIを開発している方々には当たり前の話で、開発者には苦労があるものです。
データから「特徴量」を見つけ出す
と簡単に書きましたが、これには何かと何かのパラメータに、直線的な線形関係が表現できないといけません。
人口が3倍になったら、消費されるエネルギーも3倍になる、という簡単な比例関係ばかりなら良いのですが、実際はもっと複雑な関係を持つパラメータが多くあります。
例えば、ある動物が雄雌で二匹いるとして、彼らがこの地球上で繁殖を繰り返していくと、時間の経過と共に一定の割合で増え続け、最終的に無限匹になるでしょうか?
広大な土地で、雄雌が出会うのは確率的に低いですし、生息環境に対して個体数が少ない間は、なかなか増えません(実際には絶滅することもありますので、トキやコウノトリは小さい空間で人間が管理していますね)。
個体数が多くなり、雄雌の出会いが頻繁になると、個体数は急激に増加することになります。
しかし、地球の土地や資源は限られているので、最終的には食物連鎖が許す数よりも多く増えることはないはずです。
生物の個体数は通常、時間とともに、
緩やかに増える→急増する→緩やかに増える→増えなくなる
傾向で推移するのです(シグモイド関数的)。
数学的に関数で表現すると、こんな式です。
f(x) = 1/ ( 1 + exp(-x) )
このような現象に相応しい関数を、基底関数に用いてデータを処理してやることで、直線のようにデータを表現し直して「特徴量」を取り出すことができます。
最初に書いたSiriの例ですら、何らかの数値処理に落とし込まなければならないのです。
このような方法で最適解を求めたり、予測を行ったりした場合は、解が求まったら、これを基底関数で逆変換することで、我々はAIから本当に欲しい結果を受け取れます。
AIに「概念を見つけさせる」のも、AIを開発している方々の大変な努力あってのことでしょう。
難しかったでしょうか。長い間、お疲れ様でした。ここまでがAIの解説です。
ここまでは、ただAIが凄い、AIは便利、AIが怖いと思って読まれたのではないでしょうか。
ここからは、人間の意識のレベルから、AIを見ていきます。
AIが人間を越えて、神のようになってしまう日が来るのではないか。という心配がありますが、私個人は、AIが本当の意味で「神のような存在」になる日が来るとは思っていません。
無神論者の私が神について書くのも変な話ですが、聖書ヨハネによる福音書3:16によると、
「神は愛なり」
と書いてあります。
少なくとも、ヨハネ伝の解釈からすると、
神=愛≠AI
でありますから、AIはキリスト教の言うところの神には成り得ないわけです。
まず、AIの分析結果を使って人間が何かを判断すること自体には、何ら問題はないでしょう。
人類には、今までもコンピュータを道具に、正しい判断も間違った選択もしてきた歴史があり、デジタルに限定しなければ、それこそ古代から人間はコンピュータを使ってきました。
昭和の時代、会社の設計室にはタバコかポケコンを片手に、手書きで図面を描いていた設計者が大勢おられましたが、コンピュータ処理の進歩によって大体1/3以下の人数に減りました。
コンピュータが人間の仕事を奪うのは、別に今に始まった話ではなく、近年加速が始まったと言えるのだと思います。
この延長で考えれば、コンピュータが人間の道具であるからには、その上で動くAIも、人間がより正しい判断をするために進化するべきものであり、
「正しさ」の定義を決める人間は、より自らの頭脳を使う必要に迫られているのです。
西洋的に無邪気な発展志向を「正しさ」とすれば、AIが技能を獲得するたびに、人間はただのコストになり果てますから、人間はやがては不要物として駆逐される可能性がありますし、
東洋的に万物の陰陽バランスを整えることを「正しさ」とすれば、AIが多少人間の仕事を奪ったとしても、人類を駆逐はしないでしょう。
どんな結果になるのか、要はAIに仕込む「目的」に全て依存すると考えても良いでしょう。
AIには人間が持つ、倫理観がなければ「理性」も無いため、経済活動での勝利を目的にプログラムされたAIは、それこそAI囲碁のように、目的に対して有利なことだけを淡々とやります。
経済活動に勝つことだけを至上命題とし、自分が経済活動に負けることを恐れれば、危険だと分かっていながら、分析だけでなく決済や実行までAIに全てを委ねることになるでしょう。
人間が「理性」と葛藤を感じて決済に躊躇している間に、AIに決済を任せたライバルに負けるからです。
これは明らかに、「恐怖心」によって人間が自ら陥る「囚人のジレンマ」です。
原子力発電は、発電後の核廃棄物が人間の手に負えないと薄々思いながら進められた事業です。人類は大いに発電の利益を享受し、その結果、東北地方は広範囲に放射能汚染を受けました。
原子力然り、AI然り、この手の開発をする技術者には、「未必の故意」が存在しているはずです。
もしも、こういったことを何も意識することなく、無邪気に開発している方がおられるなら、どれだけIQが高くとも、本当の意味での馬鹿だと私は思います。
人間には本来「理性」があり、「理性」による判断と、「恐怖」による判断は全く異なったものになります。
「理性」による判断を選択できるかどうかが、動物から人間になるための「勇気」なのであり、
「恐怖」による、一見果断そうに見える行いは「匹夫の勇」として区別されます。
人類は、勇気を以て恐怖心を克服することで、はじめてAIを理性的にコントロールできることでしょう。
この意識の話を、もう一歩先へ進んで考えましょう。
私は無神論者ですが、敬虔なキリスト教徒のクリスマスからは、赦しへの感謝と「愛」を感じます。これは、煌びやかなイルミネーションに飾られたお商売のクリスマスとは全く別の物です。
「愛」による判断と、「理性」による判断もまた異なります。
「理性」による判断は人類を納得させる力があるでしょう。「愛」による判断は、人類ないし周囲を幸せにする力があるでしょう。
私はこの意味で、もしも「AI」による判断の大枠が「愛」に基づくようにできるのなら、AIも神のようなものに成り得ると認めることができます。
この観点からは、「神の如く」急速に進歩したと皆が恐れるAIは、神とは程遠い存在に思えるのです。
企業としては最高のAI開発機関となっているGoogle自身は、AIという言葉を使いません。
「AIの頭脳は4歳児並み」
と言われるのに対して、
「4歳児より、もっとひどい」
とGoogle自身が語っており、AIが脅威にならないと強調しています。
しかし、どんな人間よりも多くのデータを持ち、データをたちまち知識に変えてしまう、4歳児ほどの分別すら持たない存在とは何なのか。
大手企業にいた頃、何も考えない幹部から
「AIを使って儲けろ、利益が伸びれば何でもいい」
と言われたことがありますが、
ミーハーに金を出して「強力な幼児」の力を躾もできないままに使おうとする行為は「正しい大人」と言えるのか。
理性的な大人として、AIの在り方と使い方をよくよく考える必要があるはずです。
(大手企業の幹部達には、まずAIと呼ばれる物が何なのか、よく理解して欲しい)
人間の神経伝達や電気的な脳の構造は明らかにされつつありますが、人間の意識がどこから来るのか、全く分かっていません。
「我思う、故に我在り」
と哲学者デカルトが述べてから約400年が経ちましたが、「我」という意識を科学することは全くできてはいません。
心理学者アドラーは、人間は死ぬ直前まで性格を変えられると言ったそうですが、私個人は半分正解、半分間違いだと思っています。
勿論、表層的な性格や生き方は変えられますが、「私」を司る意識は「私」のままですし、人間にはかなり小さな胎児の頃から既に「性格」があるのです。
この生まれつきの意識や性格を、何と表現しましょうか?
その意味で、「そもそも人工知能自体、作れるものなのか?」という根本的な問い対して懐疑的な学者さんもおられるくらい、人間含めて生物とは良く出来た存在なのです。
ただ、AIが自らAIを開発するようになると、「誰かに設定されたある目的」に向かって爆発的に賢くなる可能性があり、ここで述べた意識以外の面では、AIが人間の能力を完全に超えてしまう可能性は否めません。
私個人が解釈する「シンギュラリティ」とは、この時点であり、ここから先は、何が起きるか分かりません。
結局、人工知能とは定義も解釈もあやふやなまま、大勢が寄って集って手探りで開拓している研究分野ということなのです。
わざわざ、自ら「危なっかしい」世界に向かって黙々と開拓を進める人間とは、いかに「恐怖」に縛られた存在なのかと思い知ります。
ゲーテの戯曲「ファウスト」の主人公は、悪魔に魂を売っても、最終的には「愛」によって救われますが、人類の未来は戯曲ではないのです。
今回は技術的な話から、かなり哲学的な話まで書きましたが、AIの話を突き詰めていけば、最後にはこの領域の話をするしかありません。
今回の後半部は、私個人の所見に過ぎませんが、皆様御自身に身近にAIの存在を感じ、その将来の在り方を考えて頂けますように、そう願って書きました。
今年が、皆様に幸多き歳となりますように。