人骨事件の幕引きを許さない 2014 年 8 月 12 日 46 号
「象徴空間」が閉じ込めようとしているもの 井上 森(立川自衛隊監視テント村)
本紙読者です。身近な出来事から「象徴空間」について考えてみたいと思います。
●アイヌ刺繍の講座に出かけた連れあい
4年ほど前、娘が生まれたばかりの時のことです。市報に「アイヌ刺繍」講座の案内がのっていました。育児休暇中で暇だった連れ合いは「これはやってみたい!」と言い、赤ちゃんと私を置いて、原付に乗ってとっとと講座に出かけて行きました。
私は勝手に心配をしました。講師はアイヌの人なのだろうか?どういう立場の人なのだろう?もしや文化的搾取に手を貸しているんじゃないか?帰ってきたら遺骨問題について話さなければ、とか…あれこれと。
しかし彼女は3時間ばかりして、ハンカチほどの大きさの布に「自分で選んだ」というアイヌ紋様の刺繍を施して、意気揚々と帰ってきました。「どうだった?」と問う私に彼女は、「先生がアイヌかどうかはよく分からなかった」けど「ずいぶん面白かった」といいます。もう2回ほど彼女は講座に出かけ、「刺繍は肩がこる」といってやめました。
この話は、私に大きな教訓を残しました。少なくとも何冊かのアイヌ民族について書かれた本を読み、理論武装していたはずの私でしたが、考えてみれば刺繍一つできない(というよりもやろうともしなかった)ことに気付いたのです。「象徴空間」的な「日本国家が管理するアイヌ文化」とは全く異なる地平で、異文化への驚き・興味・尊敬を持つ感性を彼女はもっていたのです。
●リベラルな憲法学者にも潜む統合主義
そのさらに3年ほど前のことです。岩手の山間部の仲間のもとに旅行にいったことがあります。宴席のなか、町の観光課に勤めているという若い女性が「町内に『私はアイヌだ』というお婆さんが数年前まで存命で会いにいったことがある」という話をしました。
その後、話がもつれて、同行していたリベラルな憲法学者の先生が「自分は民族教育というものは認められない。公教育は一つであるべきだ。アイヌ語や朝鮮語も、日本語(「国語」)の授業のように日本の公教育の中で教えればいい」ということを言いだしました。
彼の議論は、民族の上位に国家をおく考え方です。「唯一の正統な教育」たる公教育は、日本国家の名のもとに、日本国家の責任で、多民族国家・日本に生きる人間(=日本人)を育成するものであるべきだ、という議論でした。
確かに悲惨な現状から考えれば、公教育のなかでアイヌ民族の歴史や言語が教えられれば大きな前進かもしれません。しかし、民族教育を否定して、理想の公教育へ一本化していくべきだという議論は大きな落とし穴をもっています。
民族教育とは、大和民族以外の民族の言語や文化が尊重され、授業で教えられることだけではありません。それは教育の主体をめぐる問題なのです。たとえ日本国家がアイヌ語の授業を施したとしても、それは「民族についての教育」であって、「民族による教育」ではありません。
つまり憲法学者の先生は、公教育における「民族についての教育」が充実すれば「民族による教育」は放棄されるべきだと主張したのです。
私は、学生時代に関わっていた朝鮮学校出身者の国立大学受験資格を求める運動なども引き合いに出しながら、「公教育イデオロギーがそもそも問題なのだ」と反論しました。怒鳴りあいの議論に終止符を打ったのは、北海道出身の仲間の発言でした。彼女は、「私はアイヌと同じ立場を持つことは決してできない。私は侵略者の末裔だ」と話したのです。「複数の出自をもつが、同じ日本人」という話ではなく、私とアイヌは違う歴史をもつ違う存在であることを自覚することなしには、未来はない、と。
憲法学者の先生は自分の非を認め、のちにさらに考えたことを丁寧なメールで送ってくれました。
●“途上”を生きること
憲法学者の先生のような、日本国家の侵略・抑圧にも自覚的な、多文化主義的な統合主義というのは、「象徴空間」的なものの最左翼に位置するのでしょう。
一方で、「多文化主義的な統合主義」を植民地主義の構成要素として私は理解していましたが、その政治的な思考力を研鑽するだけでは、おそらく非常に図式的な対抗力しか持ちえないでしょう。それだけではきっと何かが足りないのです。
連れ合いが作った不慣れなアイヌ刺繍に、私の心は躍動します。その完成度の低さが、「国立アイヌ文化博物館(仮称)」に展示されるであろう「完璧なアイヌ刺繍」との対比をなしています。征服した地域の「完璧な文化作品」を展示することは、イギリスにもフランスにも共通している帝国主義の欲望です。それは征服事業の偉大さの証明であると同時に、被征服民族の文化を「塩漬け」にし、死んだものとして終わらせる作業なのです。
連れ合いの刺繍は、言うなれば“途上感”に満ちています。「完璧なアイヌ刺繍」の背後にも、“途上”の苦闘や挫折や努力があるはずです。それこそ文化の生命力の証明であり、“途上”への想像力をもつことこそ植民地主義を克服・批判するために不可欠なものであるのではないかという直感があります。
しかし現実の「象徴空間」では、バックヤードに大量のアイヌ民族の遺骨が「保管」されているのです。欺瞞と暴力が支配しているのです。