書くしかできない

発達障害の息子、夫、私。過ぎていく日々を書き留めています

子供へのDVを見てしまった時。

 いつも拝読しているブロガーさんが、こういう記事を書いておられました。私にも経験あるなあ、ショックだよなあ、と共感して読ませてもらいました。勝手ながら、リブログさせて頂きます(が、もし駄目だったらご面倒ですがご一報頂けたら即削除します。すみません)。

公共の場所でDVを目撃したとき、私たちはどうすればよいのだろうか - けっこう毛だらけ猫愛だらけ

 この方は、婦人科の待合室で、付添で来ていた母親に理不尽なまでに罵倒されている中学生の女の子を見たそうです。婦人科に中学生が来る、という事自体、精神的にきついと思うのに(50歳の私でもあまり行きたくないぐらいなのに)、そこで他人の目のある前で、不必要に親から罵倒されるって、どれだけしんどい事だろう、、と思います。子供にだってプライドがあるわけですから。こういう親というのは、当然、他人の目のない家の中では、もっとめちゃくちゃなのだろうと思われます。逃げ場のない家の中で、一人で生きていく術のない子供が、それに耐えているということを考えると、心が折れそうになるほど悲しく気の毒です。

 こういう親というのは、でも、実際に存在する。こういう人間というのが、実際に、私達のすぐそばに存在する。その怖さ。

 私も、以前、道で、4才ぐらいの男の子が、その父親らしき人に、投げ飛ばされたのを見ました。男の子が父親に何か言いながら近寄って行ったら、いきなり父親が子供をガッと持ち上げ、コンクリートの道にドンと投げつけたのです。一瞬の出来事でした。本当に、ドン、という鈍い音がしました。生身の人間が、生身の人間を持ち上げて投げ飛ばすのを、私は初めて見ました。背筋が凍りました。その後すぐ、父親は子供を抱え上げて、足早にどこかへ行ってしまいました。男の子の無事をひたすら祈りました。

 また、ファーストフードのお店で、何かを落とした女の子が、母親からこっぴどく罵倒されているのも見たことがあります。あれも辛かった。女の子は、お店の飾りを、知らずに触ってしまい床に落としてしまったようで、それを母親に見とがめられ、「早く拾え!」「グズグズするな!」「お店の人に迷惑だろーが!」「何やってるんだ!」「もういい!あっち行ってろ!」と矢継ぎ早に罵倒されていました。母親は、殴りつけんばかりの勢いで、女の子に乱暴な言葉を浴びせ続けていました。女の子は幼稚園の年長さんぐらいでした。ぶるぶる震えながら細かい飾りを拾っているので、なかなか拾えません。でも、まだ幼い子で、故意にやったわけでもないのです。すぐに店員さんが出て来て、「いいんですよ。こっちでやっておきます。大丈夫です」と言ってくれたのですが、それがまた母親の怒りに火をつけたようで、母親は忌々しげに女の子を睨み付けると、一人でさっさと店を出て行ってしまいました。女の子は泣きもせず、ぶるぶるしながら母親の後を追って走って出ていきました。

 私には何もできませんでした。つらいです。どうしてああいう親が存在するのだろう。あの子はどうなってしまうのだろう。

 親もきっと、つらい人生を歩んでいるのかもしれません。だからといって、自分より弱い人間を痛めつけて気を晴らして良い筈はないのに、それでよいと思っている、それで自分を肯定できる不思議。でも、こういう人は沢山いる。確かにいる。誰がこういう人の心を、こんな風にしてしまったのだろう。その人の親?社会?誰?それとも生まれつき?考えても答えは出ません。ただ、つらい事実だけがある。

 私も子育てで苦しい思いをし、子供なんていなければいいのに、と衝動的に思う事があります。でも、やっぱり、子供の存在が、私を支えてくれています。我が家は、息子がいる事であたたかいのです(子供がいないお家はあたたかくない、と言いたいわけではありません)。息子の存在が、家の中を、私の心を、ほっこりあたためてくれていると、いつも思います。どんなに育てるのが大変でも、そこは変わらないのです。

 我が子へDVする人は、子供の存在に温もりを感じる事は、ないのでしょうか。あたたかい、生きている、そう感じるなら、痛めつけることなどできないと思うのです。心が歪んでいるというより、感覚が鈍っている、感受性が鈍になっている、温かみを感じられなくなっている、だから「命」と「ただの物」が同じ扱いになってしまうのかもしれません。