②お父様の後継者(1) :女性の子女様を排除したという指摘
まず最初に、下記の指摘について正させてください。
・後継の問題から女性の子女様を排除している、それは差別的発言だ
・文善進様を韓鶴子の母系血統であると定義している
・子女は父親だけでなく、母親の愛と生命と血統ゆえに生まれる
・実の長子である孝進様を無視している
上記の批判を私に向けるのは、全くの見当違いです。「いや、『統一教会の分裂』に対しての批判なのだ」と言われるのであれば、「タイトル」を変え、本文から私の名前を一切削除して頂きたいと思います。
私は善進様の心情姿勢を尊敬する者の一人です。「女性の子女様も父母様の血統を引いている」「子女は父親だけでなく母親の血統も引いている」…。当たり前のことです! 御言を引用するまでもないでしょう。
私は何も、女性の子女様が後を継いではいけない等と思っていません。ただ、お父様も「(お父様・お母様聖和後の責任を)息子がしなければなりません」と言われているように、本来、家庭を代表すべきは、主体格にある男性であり、「息子」でしょう。それを「差別」と言われるのであれば、原理講論そのものに問題提起しなければならないでしょう。
神様の代身はアダムであり、エバは神様の相対です。この観点からすれば、長子権(長男権・長女権)を代表するのは「長男」であり、男性と考えるのがごくごく原理的であり、自然なことではないでしょうか?
「息子がいなければ娘がしなければなりません」。私もそう思います。男性の子女様が神の御旨から外れ、資格を失ってしまったとしたら、女性の子女様に立って頂くしかないでしょう。しかし、私が言っているのは、「顕進様は神の御旨から外れていない!」ということなのです。それは本来、喜ばしい知らせであるはずです。
また、私自身の信仰の出発点は孝進様でした。顕進様を心から慕い、支持する立場であっても、孝進様を慕う私の思いに変わりはありません! 今、顕進様の基台となってお支えてしている方は、元は孝進様の基台であった方です。孝進様が困難な立場となり、真の家庭を代表して立つことができなくなった時、孝進様御自身がその方に、「お前はこれから顕進を支えろ」と言われたといいます。
顕進様が興進様を亡くし、孝進様が困難を抱える中、自らが真の家庭の代表として立って行かれた時、ただそれを喜んで「自分が実質上、長子の座に就けた」などと思われたでしょうか? 顕進様が今、どのような切実な思いをもって、「長子」という言葉を使われるのか―。それは、「長子」という言葉をただ「権力の座」として捉えている限り、理解できないことだと思います。
③お父様の後継者(2):子女様でなくお母様だという指摘
「先生が霊界に行くようになればお母様が責任を持つのです」―。私はその御言を否定しようとは思いません。しかし、一言、言わせてください。お父様が聖和された立場である以上、全ての問題に対する「責任」を、お母様が「背負わざるを得なくなる」からこそ、顕進様が危惧されているのです!
よく教理研究院のほうで引用される「第二教主はお母様」といった御言は90年代(92~99年:母子協助時代)のものが殆どであり、引用された上記の御言も、2000年3月の御言です。子女が成長して行けば、親の責任を「共に負う」、或いは、「親に代わって自らが背負う」のが、本当の孝子ではないでしょうか?
最近、顕進様側の方からこう伺いました。「顕進様が語られる『長子』というのは『立場』や『権限』ではなく『責任』なのだ」と。論じ合っている「土俵」が違うように思えてなりません。
顕進様は組織的な位置や立場には、元より関心がありませんでした。お父様は神様の前に「メシヤ」、即ち本然のアダムであり、「長子」でした。顕進様がお父様から受け継ごうとされたのは、その「摂理的責任」なのです!
誰が遺産を相続すべきだとか、誰が組織のトップに立つか等という偏狭な組織論を述べているのではありません。お父様の信仰と精神を受け継ぎ、次世代の神の御旨を背負う「長子」を立てて行かないといけない、という話は、「統一教の分裂」云々ではなく、私たちの基本的な信仰観であり、摂理観であるはずです!
また、妻として夫を大成させ、母として子女を育むことが女性としての、母としての最も大切な役割であり、使命だということのどこが「非原理的な言説」なのでしょうか!?
また、教理研究院では、後継問題の根拠を、お父様の御言の中に見いだそうとしているようですが、私はそこには限界があると思います。そうした具体的な御言はいくらでも変わり得るからです。もしそれでも御言を根拠にするのであれば、90年代の御言ではなく、お父様の聖和前くらいの御言を探すべきでしょう。
しかし、実際は2009年中盤から一切、お父様の御言は公開されなくなりました。何故でしょうか? さらには、2009年前半の御言選集(594巻-615巻)はいったん回収され、多くの箇所が「訂正」されて再配布されていることはご存知のはずです。何故なのでしょうか?
ここでは、それを掘り下げたいとは思いません。ただ、「お父様がこう指示された、ああ指示された」ということを根拠に判断するのは適切ではないと思うのです。むしろ本質的なことは、次の御言に現れているお父様の「心情世界」なのではないでしょうか?
「誰が、私が神を愛したほどに神を愛してくれるだろうか、私が死んだのちに誰が私の神を見てくれるだろうか。親孝行してくれるだろうか」とそれだけが心配なのです。誰か「私が神様を見ますから、先生は後ろに立って見ていてください」と言う人がいるとすれば、その人こそは歴史においても私たちの教会においても主流的人物となり、永遠に滅びることなく、その子孫はアブラハムの子孫のごとく栄えることでしょう。」(1977年5月)
「長子」とは、誰かが人為的に、政治的に、誰かに証明してもらって「なる」ものではない!と、私は思います。誰よりも神を愛し、誰よりも神の御旨に責任をもち、上からの指示・命令や人事によるものではなく、世の人々がこれを認めるようになって初めて、神が認め得る「長子」となるのではないでしょうか?
私はシンプルに言うなら、誰がどう言った、こう言った等ではなく、「神の摂理に立つ者」が、天地の前に「長子」となるのだと思います。上記の「神の摂理」という観点から見る時、今、「長子」の立場に立ち、お母様を本当の意味でお支えでき、真の家庭の未来をつなぐことができる方は顕進様だと、私はそう信じています。
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