仮説に問題があっても、それを仕上げる形までもっていくことが一つの研究プロセスの練習だと思う。
教授ともなれば、研究のプロセス(仮説、実験、検証、まとめ上げ、報告)までを
それこそ何百回も繰り返してきている一応その道のプロなけで。
確かに、仮説の中には疑問のある仮説もあるだろう。
世の中の仮説のほとんどは正直外れだからだ。そんなに当たりばかりは引けない。
たまに当たりがあると、それがうれしくて研究を続けようと思うほどで、
外れを外れながら仕上げる実力も研究力の一部だと思う。
研究費を貰って、いつも当たりがだせればよいが
そうでなくても何か形にしないと研究費の無駄になってしまうし、
そんな外れが次のだれかの当たりのちょっとしたヒントになる可能性は0ではないわけで。
その意味で、国際会議に出せたのは、外れながらも形にするという練習ができたと考えたらいいのではないかな。
外れっぽいです、とあらさがしの議論だけして研究内容が全く決まらない学生も見るが、
とにかく会議に出すという形にして、練習をしていくことができたのだから
研究者を続けるなら、その疑問を解決する課題を自分で設定して研究費を取ればよいが、
スモールステップの練習をできたことは、修士の課程としては十分だと思えるが。
修論締切直前の深夜にこんな駄文を書いているのは現実逃避以外の何物でもない. 私が3年間の研究室生活の中で自分自身や周囲の人間を観察していて気づいたことは,「指導教員の言...
研究者だが、修士位の人が行う研究では 仮説に問題があっても、それを仕上げる形までもっていくことが一つの研究プロセスの練習だと思う。 教授ともなれば、研究のプロセス(仮説...
ひがみっぽいことダラダラ書いてないで納得いく論文を仕上げて指導教員を「ぐぬぬ」って言わせればいいんじゃね?