まず先に前提として書いておくと、私は基本、有名人の不倫や浮気というものに一切興味が湧きません。
浮気だ不倫だというのは極めて個人的な問題であって、個人レベルではごく単純に「不倫はいかんやろ」とは思うものの、その内情がマスコミによって暴き立てられることに必然性は全くないものと考えています。
これが、人格や人間性が選挙の際判断材料とされる政治家であればまだしも、タレントやら芸能人やらの不倫報道については、単にゲスだなーとしか感じません。そういう人、案外多いんじゃないでしょうか。
正直結婚や恋愛、出産のようなめでたい話であっても、それが個人的なものである限りは興味が湧きませんし、そういう報道がなくなっても全く何の問題もないと思ってはいます。誰が恋愛して、誰が結婚して、誰が浮気して、誰が不倫したとしても、それはその当事者の問題であって外野が騒ぐことじゃないんじゃないの、と思います。
ただ、これについては飽くまで個人的な所感なので、そういうものを知りたがる人もいることを理解はしておりますし、それが悪いという訳ではありません。好奇心の方向性は人それぞれです。
上記のような事情がまずある為、今回何やら有名な人の不倫が問題になったらしいことも、文春が騒ぎになっているらしいということも、個別の話としてはよく分かりません。ゲスだなーと思うだけです。
ただ、これに伴って、「こういうゲスな報道が行われるのは、結局それを知りたがる視聴者がいるから」という論法をメディア側の人が使うのは、それはおかしいだろうと思います。
何故かというと、そういう「ゲスな内情を知りたがる視聴者」を育てているのはまさにメディアであって、その論法はいわば「育成責任」を完全に放擲していると考えるからです。
久田氏はTABLOの編集長ですね。いや、この件に関して同じような発言をされているのは久田氏だけではないので、久田氏個人がどうこうという話ではないのですが。
ただ、ここでいう、「不倫報道がなくならないのは読む側の需要があるから」という形で読者側に責任転嫁されることについては、私は強い違和感を感じます。
いやだって、そういう需要を、そういう記事を読みたがる読者を育てているのはあなた方じゃないですか、と。
例えば、マスコミの議題設定効果については、過去色んな議論がありました。個人的には竹下俊郎氏の「メディアの議題設定機能」をお勧めしますが、例えばこの辺の記事には議題設定効果についての話がサマリーされています。
マスコミの持つ『議題設定(agenda-setting)』の効果とは、マスメディアがある特定の話題・争点・関心事を“議題(アジェンダ)”として取り上げて繰り返し伝えたり強調したりすることによって、大衆(人々)がその特定の話題・争点に興味を持つようになったり、重要性(優先度の高さ)を認識したりするようになる効果のことである。画一的な情報を一方的に大量伝達して、大衆(人々)に『公共的意味合いのある共通の情報・知識・話題』を提供することがマスメディアの役割の一つとされる。だが、この議題設定効果によって、マスメディアが積極的に繰り返し伝えるニュースには人々は興味を持って議論しやすくなるが、マスメディアがほとんど取り上げないニュースは、人々から『初めから存在しないニュース』であるかのような無関心な扱いを受けるリスクが高くなってしまうのである。
経済学的な需給関係と違って、「興味」は育ちます。メディアが繰り返し繰り返し、高いニュースバリューを伴って報道を行うことによって、その話題に興味を持つ人は増える。その話題のニュースバリューが上がり、その話題がより受けるようになる。
単に「事実を伝える」だけであれば、「〇〇と××が不倫していた」だけでも、「△△で□□氏が殺人被害にあった」だけで十分なわけじゃないですか?それに対して、色々ゴテゴテと、あの手この手で周辺事情を書きたてることによって、より視聴者の見方をセンセーショナルな方向に誘導する。不倫報道があると、反射的に「あれはどうなってるのか」「これはどうなってるのか」と興味を発展させるような視聴者が必ずいるし、そのフックはまさにメディア自身が作っているわけです。
それ、まさにあなた方が「読者を育てて」いるじゃないですか、と私は思うんです。
不倫報道がゲスだという認識が本当にあるのであれば、その扱いを小さくしていけばいい。ただ「知る権利」を満たすだけであれば、事実を単純に報道するだけでもそれは十分果たされます。その単純な事実を知った読者が勝手に盛り上がるなら、それは確かに読者の勝手でしょう。
それをガンガンメディア側が、センセーショナルな方向に盛り上げるのは、要はそういう需要を保持したい、更に煽りたいからじゃありませんか。
なのに、一体どの口で「需要がなければ報道はされない」なんて言えるんでしょうか。
興味の方向性という話からは若干ずれますが、マスコミが「読者を育てる」「読者のリテラシーに影響を与える」機能を持っているという話は、マスコミ側の論者も自分でそう言っています。
例えば朝日は、明治大学の斎藤氏にこういうことを書かせています。
そして、朝日新聞の「ひと欄」のように、人物を取り上げたようなコラムは社会的に意味のある生き方を教えることができますし、子どもたちは自分の将来について具体的かつ主体的に考えるようになります。また、「声」のような読者投稿欄では、ひとつのテーマについて複数の意見が寄せられます。そうした記事を読むことで、複数の意見を受け入れる許容力や、複眼的な思考力が身につきます。情報は常に変化していて、正しいと思っていたことがそうでなくなることもある、ということも、新聞を読み続けていれば理解できるはずです。情報はうのみにせず、ある種の「揺らぎ」を持ちながら是正していくことを、自然と学ぶことができると思います。
また、例えば日本新聞協会が運営している日本のNIEなんかでは、「教育に新聞を」って高らかに謳ってるんですよ。
NIE(Newspaper in Education=「エヌ・アイ・イー」と読みます)は、学校などで新聞を教材として活用することです。1930年代にアメリカで始まり、日本では85年、静岡で開かれた新聞大会で提唱されました。その後、教育界と新聞界が協力し、社会性豊かな青少年の育成や活字文化と民主主義社会の発展などを目的に掲げて、全国で展開しています。
報道が読者を育てる、教育する、ということは、報道の中の人ですら主張している。
報道教育、結構なことです。リテラシー教育、大事です。
ただ、教育するならするで、教育の中身にはきちんと責任をもって欲しい。
百歩譲っても、「ゲスな記事を読みたがる読者」と「ゲスな記事を作り続けるマスコミ」は連帯責任、ないし並列責任であって、一方が「こちらに責任はない」「読者が知りたがってるから報道をしているだけだ」というのは絶対におかしい。
マスコミ側の人間が、「ゲスな報道は読者の需要のせい」と言っているのであれば、それは欺瞞以外の何者でもない、と考える次第なのです。
今日書きたいことはそれくらいです。