◆青葉のキセキ−次代を歩む人たちへ−(7)第1部 立ち直り 琢哉 恩師と共に(上)

17歳のころの原琢哉。国道58号で暴走行為に明け暮れていた(日本こどもみらい支援機構提供)

 「少年院を出ても社会で活躍できるんだ」。沖縄少年院で18歳までの11カ月間を過ごした原琢哉(24)は、当時の担当教官だった武藤杜夫(40)と全国で講演活動を続けている。少年院の法務教官と教え子がタッグを組んで話す。こんな取り組みは全国的にもまれだ。

 バイクで暴走に明け暮れた日々。原は「自分は死んでいたかもしれない。少年院があったからこその今がある」と力を込める。

 2017年3月末、沖縄少年院を辞めた武藤が立ち上げた「日本こどもみらい支援機構」。その一員として、同年6月にスタートした講演活動で命の大切さを伝えている。

 原は宜野湾市出身。小学3年生の時、最愛の母をがんで亡くした。残された原と二つ上の姉を、父が男手一つで育てた。社交ダンスの講師をしながら夜のレッスンが始まるまで建築現場で働き、帰宅後はへとへとになって家事をこなした。父の必死な姿に「かまってほしい」とは言えない。中学を卒業してすぐバイクにまたがる。寂しさを紛らわすように、危険な暴走にのめり込んだ。

 「俺は捕まらない」と宜野湾署にバイクで乗り込み、パトカーをあおった。暴走を期待し、国道沿いに集まったギャラリーを前に、追跡してきた警察を自慢のテクニックで翻弄(ほんろう)。対向車線を逆走し、目前に迫る大型トラック2台の間を猛スピードですり抜ける。パトカーを巻き、白バイも振り切った。「あいつはすごいな」。いつしか「暴走の神」と呼ばれ、その視線が快感になっていた。

 少しでも接触やバランスを崩していたら命はない。「よく死なずに済んだ」と今でも思う。

 風呂と食事のためだけに帰宅すると、姉はそのたびに懇願してきた。「暴走をやめて」「だまれ、うるさい」。うっとうしく、暴言を吐いて突き放した。

 交通違反の点数は2年間で250点。公安委員会の担当者もあきれていた。免許を5年間取り消され、逮捕され、17歳の秋に沖縄少年院へ送られた。入院しても集団生活の規律を守らず、ふざけ、反省用の単独室を行き来した。

 11年4月1日、3畳の殺風景な単独室の畳間。原と膝をつき合わせたのは、34歳で長期処遇の担当教官になったばかりの武藤だ。ふてくされ、吐き捨てるように「更生するつもりはない。一日でも早くここを出たいだけ」と話す初対面の少年の目をじっと見つめた。

 「命を落とさなかったことだけは褒めてやる」。そう言いながら原と向き合う決意を固めていた。=敬称略(社会部・山城響)

 <琢哉 恩師と共に(中)に続く>