生物にとって、記憶とは何物なのであろう。
生物学に於ける記憶とは、
”将来起こる可能性の有る事象に対し取るべく行動指標と成る用、脳が判断材料として残しておいた物”
と、定義される。
詰まる所、端的に言ってしまえば、
”いつか役に立つかもしれない時の為、捨てずに保持しておいた物”
である。
だがその一方で、生物は自らの記憶を半ば無意識の裡に消去する。
覚え留まっている事柄よりも、
忘却の彼方へ追い遣られる事柄の方が圧倒的に多いのが大方なのである。
それでは、消去された記憶は何処へ行ってしまうのだろう。
大切な記憶だ。まさか燃える塵の日に生塵として出されてしまっただのと云うことはあるまい。
余談だが、私の知人はガレージ一杯に道楽の瓦落多を捨てられずに取って置いている。
彼は其処に入り切らなくなった瓦落多を、細君には秘密でこっそり別の場所に隠し匿ったらしい。
幾ら他人に邪魔だ不要だと喚かれようとも彼にとっては大切な愛玩だ。
彼はそれらを幾つかの場所に巧妙に分散し、物の見事完全なる秘し隠しにしたのだそうだ。
記憶も、まあ要は同じことである。
自分では忘れてしまったと思っていても、
それどころか忘れてしまったという事実そのもの自体すら憶えていなかったとしても、
其れは必ず何処かに残存しているのである。
存在を悟られる事一切無しに巧妙且つ密やかに、
其れは頭内の何処かに身を潜めているのである。
そうやって息を殺し、気配を消し去り、
何時までも好機を覗い続けているのだ。
”いつか役に立つかもしれない” その時を。
そして其れはほんの些細なきっかけが引き金となり、突如としてその姿を露わにする。
そう。
其れは本当に本当に、
合図を受け取るが如く、
ほんの些々たるきっかけで。