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テリーマンの偉大さについて

 テリーマンの偉大さについて語らなければなりません。
 テリーマンの何が偉大かと言うと、そう、まずは、名前が偉大です。
 基本的にはこのような名称もアメコミ起源なのだとは思いますが、キャラクターの名前が「○○マン」というようなものになっている場合、「○○」の部分には、ごく一般的な普通名詞や形容詞が入るのがふつうでしょう。一般的な言葉だからこそ、個人の属性を表すことによって、固有名詞へと変化させることができるわけです。
 例えば、「バットマン」や「スパイダーマン」は、生物を表す一般名詞を元に、固有名詞へと変化させていることになります。あるいは、「スーパーマン」や「ワンダーウーマン」なんかは、指示される個人のことを指す形容詞をそのまま固有名詞にしている例ということになるでしょう。
 ……しかし、「テリーマン」とは、いったいなんなのでしょうか。もちろん、「テリー」とは、固有名詞です。もともとが固有名詞であるはずの「テリー」を、さらに「○○マン」の中に入れ込んで、改めて固有名詞化する……冷静に考えてみれば、全くわけのわからない操作だと言うほかありません。 
 テリーマンの登場以降の『キン肉マン』においては、固有名詞なり個人のニックネームなりを「○○マン」の中に当てはめるケースはちらほらと見受けられることになりますが、それでもなお、先駆者としてのテリーマンの重要性が減じることはないでしょう。
 本来なら固有名詞であるはずの言葉を、「○○マン」と合成できる……ということは、ここで起きているのは、固有名詞をいったん一般名詞として捉え直すことであると言えるのではないでしょうか。「テリーマン」という言葉が用いられるとき、「テリー」という言葉は、既にして一般名詞になっています。
 ……そう、「テリー」とは、すなわち「テリー・ファンク」とは、もはや一般名詞であるのです。


 「テリー・ファンク」という言葉は一般名詞である、すなわち、テリー・ファンクという特定個人に固有のはずの属性は、他の人物も共有することができる……ゆで理論的に読み解けば、そのようにして個別と普遍とを混同しつつ直結する回路を開いているのが、「テリーマン」という言葉だったのであります。
 そして、全日本プロレスを見続けてきた人間であるのならば、このような、固有性と一般性とが直結し混同されてしまうような経験は、しばしば体験してきたはずなのです。
 テキサス州……それも、例えばダラスではなく、アマリロという地名に接したときに、我々は果てしなき郷愁を覚えてしまいます。もちろん、わざわざテキサス州アマリロにまで実際に赴いたことのある全日ファンなど、それほど多くはないでしょう(私自身も、行ったことはありません)。にもかかわらず、ファンク一家が居住し、ファンク道場からは多くの一流レスラーを輩出し……全日本プロレスからはジャンボ鶴田や天龍源一郎も修行に訪れた場所、それがアマリロです。ファンク道場出身のスタン・ハンセンと対立したときには、テリーが「テキサスの化石になれ」とまで言われてしまった因縁のそもそもの始まりの場所、それがアマリロなのです(……こういう話がよくわからない人は、『キン肉マン』を読み解くための併読書として、『プロレススーパースター列伝』もまた、読み込むべきなのであります)。
 ドリー・ファンクJrとテリー・ファンクのザ・ファンクスがスピニング・トーホールドを繰り出すとき、あるいは、カウボーイの装束で現れたスタン・ハンセンがウェスタン・ラリアートを繰り出すとき、彼らは自分たちの地元の固有性・土着性をそのままに保持している、にもかかわらず、日本でそれを見ている経験が、一種の懐かしさとともに感じられてしまうのはなぜなのか。
 ……やはり、ここでも我々は、日本の固有性とアメリカの固有性とを混同した、奇妙な空間に迷い込んでいるのです。そして、まさにそのような
奇妙に歪んだ空間の内においてこそ成立しうるキャラクターが、テリーマンなのです。
 キン肉マンの額には、「肉」と書いてあります。……これはまあ、一応、まあわかるということにしておきましょう。そして、いったんこれを認めると、幼いミートくんの額に「にく」、キン肉マンの父のキン肉大王の額に「王」、王妃の額に「ママ」と書いてあることも、連鎖的に受け入れなければいけないということになってきます。……しかし、しかしです。それらのことを受け入れたその後でもなお、テリーマンの額に「米」と書いてあることは、看過するわけにはいかないのではないでしょうか。
 『キン肉マン』を読んでいると、様々な形でとんでもない出来事が起こり続けるため、些細なこととしていつの間にか受け入れてしまっていたと思うのですが、これは、いろいろな部分が麻痺してしまっていただけのことであるように思えます。もちろん、日本人は、アメリカのことを「米国」と呼びます。しかし、それはあくまでも日本語の都合なのであって、アメリカ出身のテリーマンが額に「米」とわざわざ書いてあることの意味は、全くわからないと言うほかありません。
 もちろん、わけがわからないのは、我々の常識的な時空間の内部の思考のみによってテリーマン先輩を把握しようとしてしまうという愚を犯しているからです。……テリーマンは、そもそもが、アメリカの固有性と日本の固有性とが混同された、キン肉マン・ユニヴァースとでもいうべき、特殊な時空にいる……そのように考えることによって初めて、我々の時空とキン肉マン・ユニヴァースとを結びつける手がかりが得られることになるはずなのです。
 私の考えでは、テリーマンの歴代の対戦相手の中でも、テリーマンのことを最も精確に理解していたのは、完璧超人始祖編におけるジャスティスマンです。……ジャスティスマンは、仮にテリーマンを殺したとしても、そのテキサス・ブロンコ、闘う意志を消すことはできないと述べました。ゆえに、テリーマンが倒れようとも、第二・第三のテリーマンが現れるであろう、と。
 テリーマンが、どれほど自身の超人レスラー生命を縮める刹那的ファイとを繰り広げようとも、その精神性には、永遠へと連なるものすら内包されている……このようなジャスティスマンのテリーマン理解は、私がここまで述べてきたことと重なるものであるでしょう。
 ……ならば、果たして、第二・第三のテリーマンは、果たして本当に現れることになったのでしょうか? そもそも我々の存在する時空は、オリジナルのテリー・ファンクが存在している場所です。「テリー・ファンク」が固有名詞であることを超越して一般名詞にまでなったのならば、これを共有する存在は、果たして我々のいる場所にも存在しているのでしょうか。


 テリー・ファンクは、80年代に至って、全日本プロレスのリング上で大々的に引退しました。そして、その後の90年代の日本のプロレス業界には、テリーの弟子とも言える存在が、二人います。
 私自身、このことに気づくまでには長い時間がかかりました。……というのも、その二人の人物は、単にその二人を見ているだけでは、ほぼ無関係のバラバラの存在としか思えないからです。しかし、「テリー・ファンクの継承者」という意味ではその二人が同じ根を持つという捉え方をしてみると、90年代の日本のプロレス業界の趨勢は、まさにテリーの意志によって全体の動向が決せられていたようにすら思えてきたのです。
 それぞれが、テリー・ファンクの全く異なる部分を受け継いだ継承者とはーーすなわち、大仁田厚と小橋健太です。
 大仁田厚が、テリー・ファンクと直接的な関係が深く、引き継いでいる部分も多いことはよく知られています。とはいえ、それは、大々的に引退試合をしておきながら割とあっさりと復帰してしまったりといった、インチキだったりテキトーだったり胡散臭かったりするような、言ってみれば、テリーの毒の部分がほとんどです。
 一方、全日本プロレス時代、オレンジ色のタイツを履いていた時期の小橋健太がテリー・ファンクを継承していることに私が気づいたのは、かなり最近になってからのことでした。……それは、テリーの過去の試合を映像で遡って見返していた時に、天啓のごとく訪れました。ブロディあたりにボコボコにされながら、フィジカルではかなうはずもないのに闘志を剥き出しにして立ち向かっていく姿を目にしたとき、小橋のやっていたことはこれだったのだと気づいたのです。
 テリー・ファンクのプロレスのピュアな部分、その闘志が剥き出しになったドMプロレスこそが、オレンジ時代の小橋が引き継いだものだったのです。……そう、だからこそ、あのころの小橋は、ローリング・クレイドルやテキサス・クローバーホールドを使っていたのであります!(……まあ、正確に言えば、小橋がテキサス・クローバーホールドを使い始めたのには、「マレンコ兄弟に習ったから」というはっきりとした理由があるのではありますが……)
 ……しかし、ではそのテリー・ファンク自身は、90年代には何をやっていたのでしょうか。ジャイアント馬場のために、団体の運営そのものに惜しみなく協力すらしていたテリー・ファンクは、大々的に全日本のリングで引退しておきながら復帰してしまったことに後ろめたさを感じていたらしく、結果として距離を置くことになります。……そして、FMWでまさに大仁田とデスマッチで抗争したり、IWAジャパンでキャクタス・ジャック(ミック・フォーリー)と抗争したり、老体に鞭打ってムーンサルト・プレスを敢行したりした挙げ句、ECWが初めてPPVに進出した「ベアリー・リーガル」においてはECW王座挑戦者決定戦とその後のタイトルマッチの連戦をズタボロになって闘い抜いて完全に主役になるなど、とんでもなく幅の広すぎる狂い咲きを見せていて、正直わけがわからないようなキャリアなのです。
 ……しかし、改めてそう考えてみますと、テリーマンはどう見てもテリー=大仁田的な狂乱の要素は全く受け継いでおりません。ということは、テリーマンとはすなわち小橋であるという等式が成り立つわけですが、このとき、私が「キン肉マン」という漫画に対して抱いていた他の印象ともリンクすることが現れてきたのです。
 ……と、言いますのも、今回私は完璧超人始祖編を通読してみたわけですが、最後まで読み通したときに最も強く感じられた感想は、ただ一言にまで集約できるものであるのでした。
 …………
 …………
 ……サンシャイン、田上みてぇだな……
 あの~、サンシャイン、どこからどう見ても田上明なんですが……これはいったいどういうことなのでしょうか?
 まず、強大な体格を誇るにもかかわらず、基本的には最低限の労力で最大の効果を得ることばかりを考えており、要するに楽して勝つことばかりを考えているあたりが田上っぽいです。田上の場合、天龍のパワーボムを食らってそのままエビ固めでフォールされた際、「このまま屁をこけば臭くてフォールは外されるのではないか」と考えて実際にやってみたことがあるらしいですが……田上って、実はキン肉マン・ユニヴァース出身なんでしょうか?
 ふだんからそんな感じであるため、気を抜いていると、常人のジェロニモに敗北するような大番狂わせを起こしてしまう。一方で、楽して勝つための省エネ戦法がうまくはまったときには、完璧超人始祖すら打ち破ってしまう……う~ん、完全に田上です。サンシャインが将軍様から「悪魔超人の首領格」などと見なされていることも、実は田上は本来の潜在能力という意味では四天王の中でもジャイアント馬場からの評価が最も高かったことを思い起こさせずにはいません。
 ……しかし、ここに、大きな問題があるのです。というのも、テリーマン=小橋、サンシャイン=田上という図式が成立すると、必然的に、アシュラマン=川田ということになってしまいます。……これは、さすがにおかしいでしょう! どう考えても、川田はあんなにサッパリした性格の人ではありません。
 アシュラマンとは、いったい何者なのでしょうか。ここには、深い謎があります。……改めて考えてみると、アシュラマンが参加したタッグやユニットを見ていくと、「はぐれ悪魔超人コンビ」に「超人血盟軍」……そう、ここでは、われわれの現実世界における国際プロレスとの関わりが示唆されているのです。
 ならば、これはそのものズバリ、アシュラマン=阿修羅・原だと考えるべきなのでしょうか。……いやいや、やっぱりこれも、全然違うと言うほかありません。
 深刻な苦悩の末に私が到達したのは、アシュラマンに個人としてのレスラーが投影されているわけではないのではないか、という仮説です。そう、アシュラマン=天龍同盟の全体としてのイメージ、という風に考えれば、阿修羅要素と川田要素との両者を包含することも可能なわけです。ゆでたまご先生自身、天龍同盟の飲み会にも参加していらしたらしいですし。
 実は、「キン肉マン」のごく最近の展開の中で、解説のタザハマさんがなかったことになってなかったことに驚いたばかりのことだったのですが……こうなってきますと、アシュラマン復帰が実現した折りには、もはやいつオサノさんが作中に登場してもおかしくないのではないでしょうか。


 ……などというようなことを考え、現実世界とキン肉マン・ユニヴァースの接点を探る過程で、もはや自分としてもなにがなんだかわけがわからなくなってきたのではありますが。
 テリーマンこそが、現実世界とキン肉マン・ユニヴァースとを相互に結びつける特異点だとして、では、「キン肉マン」という漫画をあくまでも一つの作品として見たときに、その内部でテリーマンが果たしている役割とはなんなのでしょうか。
 改めて考えてみれば、テリーマンは、最初期を除けばキン肉マンと直接的に対立する存在でもなければ、切磋琢磨するライバルという言い方も当てはまりません。それどころか、一人の超人レスラーとしては、かなり初期の段階で致命的な弱点を追ってしまった存在ですらあります。
 ……しかし、まさにそのようなテリーマンのあり方こそが、私の考えでは、「キン肉マン」をして「キン肉マン」たらしめている、作品の核心部分なのです。そして、その核心とは、プロレスそのものの核心でもあると思えるのです。
 更に言うと、その核心とは、全日本プロレスと新日本プロレスの根本的な相違点でもあると私は考えています。……新日本プロレスという団体が、時代ごとに全く姿を変え、それまでの主張を恥じらいもなくかなぐり捨てるようなことすらあったとしても、いつの時代にも決して手にすることのできなかったもの。逆に、全日本プロレスは現在においてもなお保持し続けているもの。
 ……そのような、プロレスの根本的な核とは、いったいなんなのでしょうか。……それは、一言で言ってしまえば、カンナム・エクスプレスなのであります。
 少なくとも、「90年代の全日本プロレス」という枠組みの中では、カンナム・エクスプレスこそが、プロレスの本質を体現する存在だったのだと、私は確信しています。……そして、90年代に熱心に全日本プロレスを見ていたファンの中では、カンナムが嫌いな人などいないはずだとも思うのです。
 カンナム・エクスプレスという存在がなぜ重要なのかと言えば、それは、彼らが「タッグ屋」だからです。タッグ屋であるということはつまり、逆に言えば、シングルプレイヤーとしては物足りないということでもあります。
 ダグ・ファーナスとダニー・クロファットのカンナム・エクスプレスは、シングルプレイヤーとしてはそれほど大きなインパクトを残すことのできていない存在です。……いや、もちろん、全盛期の渕から世界ジュニアを奪取したクロファットの技術は折り紙付きのものではあるのですが、しかし、外国人レスラーだと190センチあっても「標準」「ふつう」ということになってしまう全日本プロレスにあっては、体格的に劣ってしまうゆえにジュニアヘビー級のくくりになってしまうわけなのでした。
 一方のファーナスはと言えば、すばらしい肉体美と圧倒的な瞬発力を誇りつつ、しばしば「それだけでも金が取れる」と言われたすさまじいドロップキックとフランケンシュタイナーを繰り出すレスラーでした。……しかい、逆に言うとそれ以外にはあまり売りがなく、技の繋ぎがいまいちでぎこちなく、シングルマッチだとどうしても大味な試合になりがちでもあったのです。
 しかし……そう! 彼らがタッグを組めば! 弱点や欠点を補い合い協力した彼らによって展開されるのは、まさに夢の世界。だからこそ、90年代の全日ファンは、今でもなお、カンナムのテーマ曲「ウェルカム・トゥ・ザ・ジャングル」を耳にするだけで体の中で何かのスイッチが入り、そこからさらに「勇士の叫び」と「キックスタート・マイ・ハート」を続けて聞いたりしようものなら即座に90年代にタイムスリップしつつどこかへ向けて全力で走り出したい衝動に駆られ、とりあえず「勇士の叫び」のメロディに合わせて雄叫びを挙げ始め、すると、ゴディもウィリアムスも既に亡くなったことを思い出して涙を流し……あるいは、例えば映画館に赴いた際に予告編を見ていたら「ウェルカム・トゥ・ザ・ジャングル」の曲がかかるとともにいかにも元気そうなロック様が飛び出してきたりしようものなら、「いやそれ、あんたのテーマ曲ちゃうやろ」などと思ったりするような日々を、誰もが過ごしているはずなのです。
 ……つまり何が言いたいのかというと、プロレスの本質は、タッグマッチにこそあるということです。一対一で決着をつけるシングルマッチにおいては、誰もが、単なる一人の個人として、勝敗に関するあらゆる責任を引き受けなければなりません。
 もちろん、プロレスにおいては、シングルマッチだからといってはっきりと決着がつかないこともありはします。両者リングアウトなり反則裁定なりジョー樋口の失神なりによってウヤムヤの内に不透明決着が発生します……とはいえ、最終的な決着は、やはりいつかは訪れることになるわけです。
 ならば、シングルマッチで最終的な決着をつけていくとして、そこで勝ち上がれない人間には、もう可能性はないのでしょうか? ……しかし、最終的にプロレスなんていうジャンルに行き着いた人々は、やる側の人間にしても、見る側の人間にしても、完全無欠の個人として独立してやっていけない者の方が多いくらいなんじゃないでしょうか。
 誰もが、弱点や欠点を抱えている。癒せない傷とともに生き、故障を抱え、あるいは、既に体力的なピークを過ぎて下り坂の時期に入ってしまっている。……だから、もう、一対一の闘いで個人が押しのけあう世界では押し出されて排除されるしかない、だからと言って、何もかもを諦めてしまったわけではない。弱点や欠点や故障や欠損はもはや修復できないにしても、それでも再起したい、立ち上がりたい、また輝きたい。そう願いつつも行き場を失った人間にとっても、プロレスの世界でならば、自分の存在意義を見つけられるはずなのです……タッグマッチにおいてならば。
 一対一の闘いにおいては、自分と相手、勝つか負けるかの関係性しかありません。しかし、タッグマッチならば、単に強大な敵に立ち向かうだけではなく、弱点や欠点を補い合うパートナーとの関係性が、まず先にあるわけです。
 だからこそ……そう、何もカンナムだけではなくとも、シングルマッチではダメな部分を露呈してしまうようなレスラーが、タッグマッチにおいて存在意義を見つけてきたことでしょうか。あの愛すべき男、ジョニー・エースが……そして、我らがスーパースター・大森隆男が……シングルマッチで色々とやらかして罵声を浴びていたような時期にも、タッグマッチでならば、何度も名勝負を残してきたわけなのです。
 そして、まさにこれこそが、全日本プロレスと新日本プロレスの根本的な違いなのです。新日本プロレスという団体は、実際にはプロレスなどというものが存在しなくても成り立つことしかやっていない、ゆえに時代ごとにやることを全く変えられるのだと私が見なす理由は、この団体が、タッグマッチの本質を遂に理解することがなかったことにこそあります。新日本プロレスが興業の全体像を設計するにあたっては、最終決着戦としての舞台は、シングルマッチしかありえません。逆に言えば、タッグマッチの本質的意味を、その潜在性を……言い換えれば、タッグマッチこそが
むしろプロレスの中心であるということを、取り逃がし続けてきたのです。
 このことは、全日本プロレスを見ると、完全に逆転します。全日本においては、タッグマッチにおいて最後の決着をつけるために、むしろシングルマッチの方こそがそれに向けての前哨戦となるような興業の設計すらありうるのです。
 改めてそのことを感じたのは、昨年の暮れの最強タッグの最終戦でした。最後の公式戦として闘われた諏訪魔・石川組対宮原・ヨシタツ組の内容は白熱したもので、私としても「これぞ最強タッグ! これぞ全日本プロレス!」と快哉をあげるような試合だったのですが、これが単なる好勝負を越えて名勝負の域にまで達していたのには、ヨシタツをめぐる経緯があるのです。
 ダメレスラーとして罵倒され、馬鹿にされ続けてきたヨシタツ。そんなヨシタツが全日本プロレスに流れ着き、宮原との死闘の末にタッグを結成し、再起をかけて立ち上がった……そう、まさにこれは、全日本プロレスという団体だからこそ成立しえた、友情パワーの発現だったのであります。


 「キン肉マン」が漫画として成立するためになぜテリーマンが必要ななのかは、もはや明らかでしょう。キン肉マンを守るために、超人レスラーとしては致命的な、再起不能であるはずの欠損を負ったテリーマン……その欠損にもかかわらず、いや、その欠損ゆえにこそ、テリーマンはキン肉マンとタッグを結成することになります。
 キン肉マンとテリーマンがタッグを組むからこそ、タッグチームが存在できる場所としてのプロレスが存在し、結果として、「キン肉マン」の作品世界そのものが存在できることにもなりえているわけです。
 ……一方、現実世界の全日本プロレスにおいては、友情パワーで結ばれていたはずのジャイアント馬場とテリー・ファンクが、タッグを結成して大勝負に打って出るようなことはありませんでした。
 しかし、テリーが全日に登場することのなかった90年代、一戦を退いていながらも再び最強タッグに出場することになった馬場のパートナーは、そう、かつて強敵であったはずのスタン・ハンセンだったのです……これはつまりあれですよ、キン肉マンとテリーマンによるザ・マシンガンズの結成は、後のハンセン・馬場組の結成を予告していたと言えるのではないでしょうか!?
 キン肉マンがテリーマンにタッグパートナーになってもらうために、アマリロのテリーの牧場にまで赴いた番外編の読み切りを読んだ今となっては、私の脳裏には、ありありと、あるイメージが思い浮かんでいます……そう、ジャイアント馬場も、間違いなく、ハンセンをタッグパートナーとして口説くために、テキサスにまで飛んだのに違いないのです!(いやちょっと待てあのときはむしろハンセンの方がパートナーを必要としてたんじゃなかったけ、などというツッコミは不要です)
 ……それにしても、90年代、両者にとってのキャリアの最後にあたる日々に、ジャイアント馬場とアントニオ猪木とが、改めてはっきりとした対照性を表していたことには、感慨深いものがあります。
 一方にいるのは、国会議員としてVIPにもなり、数万人規模の会場で興業がなされるときにだけ現れては、シングルマッチで自分をどこまでも誇示していた人物。そしてもう一方にいるのは、既に富も名声も獲得していながらも、死ぬまでドサ周りの一座の座長であり続け、興業の前座で顔見せのためにタッグマッチに登場し、強く自己主張をすることもなかった人物。
 この対照的な生き方の両者のどちらを支持するのかということは、少なくとも、「どちらが上でどちらが下か」というような単純な問題ではないでしょう。……しかし、少なくとも、既に両者の決着がついていると思っていた人々、言い換えれば、自分がプロレスの本質など何もわかってすらいないかもしれないということにすら気づくことのなかった人々は、プロレスが廃れ始め総合格闘技が人気を集め始めると、さっさと鞍替えしていった……言い換えれば、そもそもの最初からプロレスをなど必要としてはいなかったということを、少なくとも私は、忘れることがないでしょう。
 一方で、最後の日々を送りつつあったジャイアント馬場が、ここぞという折々に残された力を振り絞って後進に立ち向かい、なんとかして名勝負を残したとき……それはいつも、「タッグマッチでの負け試合」であったということに、私はいまだに心を打たれるのです。





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