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SEP:社会的構成への自然主義的アプローチ

イントロダクション

社会的構成(social construction)、構成主義(constructionism)、構築主義(constructivism)は、人文社会科学の分野で幅広く使われている用語であり、感情、性別、人種、性別、ホモ・セクシュアル・ヘテロセクシュアル精神疾患、技術、クォーク、事実、現実、真実といった幅広い対象に関して用いられる。社会構成主義は、おおまかに言えば、こうしたいっけん自然な事実であるようにみえる概念たちが社会的要因によって構成されていることを主張する立場である。このような用語はさまざまな言説においてそれぞれの役割を担っており、そのいくつかは哲学的に興味深いものの、「自然主義的(naturalistic)」なアプローチを採用しているものは少ない。ここで、「自然主義的アプローチ(naturalistic approach)」とは、科学を中心的な、そして(ときおり誤りうるにしても)成功しているような、世界についての知識の源として扱うようなアプローチのことである。対して、社会構成主義の核となるアイデアがあるとするなら、それは、自然要因よりもむしろ社会的または文化的要因によって、ある対象が引き起こされたり制御されたりするというアイデアである。また、社会構成主義的研究のモチベーションがあるとするなら、それは、ある対象は私たちの制御の下にあるか、あるいは制御されていたということ、それらは制御できうるだろうし、できえていただろうということを示すことにあるだろう。
けれども、こうした社会構成主義において採用されているような考えは、もしそれが正しいならさまざまな対象の由来を明らかにできる点で有用であるように思われるが、決して利点ばかりと言うわけでもない。もし社会構成主義が正しく、それが主張するように、世界についてのわたしたちの表象(representation)(=観念、概念、信念、そして世界についての諸理論)が世界以外の要因やわたしたちの感覚的経験によって決定されるのだとしたら、表象されあるいは突き止められたはずの独立した現象に対する信頼は失われ、どのような表象が正しいのかという事実が存在するという考えも損なわれる。そして、われわれの側の理論によって世界の非表象的な事実が決定されるのだとすれば、認識的活動の成功という考えによって前提されていたはずの表象と現実との間の「適合の方向性」が逆転してしまう。
これらの理由から、さまざまな対象の偶然性や恣意性を強調する構成主義の支持者と必然性や真理を重視する反対者とは、現代哲学の戦場で、自然主義という主題をめぐる戦いを繰り広げてきたと言える。
しかし、同時に、社会構成主義者の主題は、自然主義者によって、その社会構成主義的なラディカルな反科学的および反実在論的な論題を避けながらも、構成主義者の手によって記された興味深く重要な文化的現象を、科学的な知見に適合することが試みられてきた。
本論では、社会構成主義自然主義とを紹介しながら、ある点で対立するふたつの異なるアプローチについて議論し、その後、ふたつのアプローチの統合について若干の議論を行う*1

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第1章 社会的構成とは何か

社会的構成(social construction)とはなんだろうか。もっともシンプルに言えばそれは次の二項関係に表せる。

  • XはYを社会的に構成する

それでは、構成するXとは何か? 構成されるYとは何か? そして構成するとは何か? これらを第1章では順に問うていくことにしよう。

第1節 何が構成するのか

これまで哲学者たちは「何が構成されるのか(観念? 知識? 事実? 人間本性?)」という問いについて注意深く考察してきた。しかし、「何が構成するのか」という問いについて同じだけの注意が払われることはなかった。だが、もし自然主義的な立場に立つならば、何が構成するのかも同じだけ重要であるはずだ。ここではまず「構成するX」について考えよう。ここで、Xは作用因(agent)と呼ばれる。作用因はおおきくふたつに分類することができる。

  1. 非人称的(impersonal)な作用因:非人称的な作用因とは、文化、慣習、直観といった対象である。もっとも影響力のあるものはトマス・クーンによって主張されたような考えである。クーンによれば、ひとがなにを見るのかは、そのひとが「いま見ているものとそれ以前の視覚-概念的経験が見させるもの」の両方に依拠する。また、トマス・ラカーによれば、性によって区分されたふるまいは、生物学的な要素よりも、性の概念の要素に起因するとされる。
  2. 人称的(personal)な作用因:人称的な作用因とは、人間そのものである。これは人間の選択によってなにかが構成される重要性を強調する立場であると言える。たとえば、(a)アンドリュー・ピカリングやイアン・ハッキング。科学理論の選択や実験測定、研究価値の評定における科学者の判断の役割の強調にみられるような立場がこれにあたる。また、(b)批判的構成主義者は、公的に認められた表象の内容を決定する際の人称的な作用因の受益や権力関係を強調した。チャールズ・ミルは、ジム・クロウ法に見られる黒人とそうでない人間との区別を批判し、人間の分類における恣意性を指摘した。そしてその恣意性が権力やひとびとの利益と関係している可能性を示し、人称的な作用因を重視した。

第2節 何が構成されるのか

次に「構成されるY」のについて考えよう。大きく3つのものが挙げることができる。

  1. 表象(representation):観念、理論、概念、説明。
  2. 一般の非表象的事実(non-representational facts quite generally):法人、公的なライセンス、パーティ、時計。
  3. 特定の非表象的事実(special sort of non-representational facts):人間の形質(traits)、人間の本性(nature)。

とくに最後の非表象的事実すなわち、人間の性質(性、情動的ふるまい、精神疾患など)が文化的に構成されるのか、自然的な過程に起因するのかがしばしば問われる。

ここで、こうした構成されるものに関して、構成主義者がとる立場として大きく2つの選択肢がある。

  • 全体的構成主義(global constructionist):すべての事実が社会的構成物であるとする立場。
  • 部分的構成主義(local constructionist):ある特定の事実が社会構成的であるとする立場。

前者は社会的構成主義自体の構成すら問題になってしまうため、多くの問題があるとされる。多くの社会的構成主義者はむしろ後者の立場をとっている。本稿でも議論されるのは、後者の部分的構成主義者がほとんどであると言ってよい。さて、ここで、述べられている事実について、さらに、構成されるものについてふたつの区別が指摘されている。

  • 覆いのない構成物(overt constructions):米国議員やドッグトレーナーのライセンス、法人など。
  • 覆われた構成物(covert constructions):精神、情動、人種、ジェンダーなど*2

前者はそれとして、哲学的な興味を惹くものであり、たとえば法人概念の形成やその哲学的含意についてはさまざまな研究がなされうる*3。しかし本稿では議論になっているのは、後者の覆われた構成物についてである。

社会的構成主義者はとくに後者の覆われた構成物が社会的に構成されるものとして示そうとする。こうしたものは、あたかも自然的対象のように思えるものの、はっきりと意識されていないような社会的実践によってこっそりと(covertly)構成されると構成主義者は主張する。けれどもその主張に関しては、後述するように自然主義者からの批判が加えられている。

第3節 構成するとはなにか

つぎに、構成するとは何かについて考えよう。ふたつの重要な関係があげられる。

  1. 因果的構成(causal construction):Xは次のときかつ次のときにかぎりYを因果的に構成する。XがYを存在させるかあるいは持続させるとき、もしくはXがYの種-典型的(kind-typical)な要素を支配するとき。
  2. 構築的構成(constitutive construction):XはつぎのときかつつぎのときにかぎりYを構築的に構成する。個体yに関して、Xの概念的なあるいは社会的な活動が、yがYであるために形而上的に必然であるとき*4

前者について言えば、これは特別社会構成主義的ではない。ある家を因果的に構成するのは、さまざまな物理的な材料であり、それを組み立てる行為者たちであり、さまざまな道具や設計図である。こちらに不可解なところはない。しかし、構築的構成とはいかなる構成であろうか?  以下例を参考にしながら考えてゆこう。

まず、構築的構成の候補としてあげられるのは、社会的事実(social fact)である。

  • 社会的事実:その現象に向かってとる態度が、その現象を部分的に構築しているような事実。

サールは『社会的現実の構築』(1995)のなかで、次のように述べている。

社会的事実については、わたしたちがこの現象に向かってとる態度が、その現象を部分的に構築している……カクテル・パーティーの一員であることはカクテル・パーティーであることである考えられる。戦争の一員であることは戦争であることであると考えられる。これは社会的事実の顕著な特徴である。というのも、それは物理的事実(physical facts)のなかには類をみないからである。 (Searle 1995、33-34)

サールの観点に基づけば、ある特定の人々の集まりは、集まっている人々がある概念的なそして社会的な認知を伴ってはじめて、カクテル・パーティになりうる。また、例えば、マイケル・ルート(Michael Root)(2000)も次のように述べている。

Rがそこで人々を区別するために用いられる場合にのみ、ある場所においてある人がRである。このようなところで、Rが人種なのである。

サールと似て、ルートは、人種という概念が人々を区別するのでなければ、なにも人種としてみなされえないと主張した。こうした理解から構築的構成の謎を明らかにすることができるだろうか。

ここで、「どのようにして概念的実践(conceptual practice)が事実を構築するのか」のモデルが求められる。その明白なものは以下のようなモデルである。

  • 概念的実践による事実構築モデル:関連する必然性が分析的(analytic)であり、関連する語や概念の意味によって、概念的実践が事実を構築するとするモデル*5

これはサールの例においては当てはまるように思えるが、社会構成主義が注目している対象の説明に用いることができるのだろうか。このような分析的な構築性のモデルが、社会的構成の対象に関して説明に用いることができるようなもっともらしいモデルかどうかを問う必要がある。

さて、もう一度サールの例に戻ろう。一方で一般的な社会的事実に関するサールの説明は正しいように思われる。というのも「カクテル・パーティ」のように参加者が自分たちの行為について特定の意図の状態を共有している場合にのみ生み出されるような事例には枚挙に暇がない。他方で、構成主義者が対象とする覆われた構成物は、「カクテル・パーティ」のような覆われていない構成物が伴っているような参加者の意図が存在しない。こうした構成主義者が対象とする概念の特徴は、ある種類の概念のメンバーであるために社会的概念的な認可(imprimatur)を必要とするようなインスタンス(instance)(すなわち「カクテル・パーティ」といった覆われていない構成物でかつ参加者の意図を必要とするもの)は、こっそりと(covertly)構成された一般的な概念の一部には属し得ないということを示している。

ここから、覆われた構成物についての批判が加えられる。こうした点からの批判のひとつに、Boghossianによる批判がある。

電子、あるいは山というものの真の意義concept)の一部は、これらのものがわたしたちによってはつくられていないということにあるのではないか? 電子を例にあげよう。このような概念をもつ真の目的の一部は、わたしたちとは独立したものを示すためではないのだろうか?(2006、39)

彼は、電子という概念について、そのような概念をもつ目的は、わたしたちと独立しているものを識別するためではないかと考えた。これの主張が正しいとすれば、構成を構築的関係とみなす構成主義者は、異なる説明を必要とする。というのも、覆われた構成物の場合、上にあげたような「概念的実践による事実構築モデル」を採用して、概念や言葉の意味から必然性が生じると主張するのは不合理であり、一貫していないだろうから。

このように、社会構成主義者が取り沙汰するような構築的構成なる概念はこのままでは必ずしも現実をうまく説明できるような概念ではない。もし、構築的構成が正しいものであると主張するならば、構築性についての必然性以外の別の説明が必要になる。

ここで、構築的構成の説明のヒントとなるようなモデルが紹介される。それは、問題になっている必然性が当該の現象についてのわたしたちの調査によって事後的(ア・ポステリオリ)に明らかにされると考えるモデルである。それはクリプキ(1980)、パトナム(1975)らが擁護するような次の理論である。

  • 指示の因果説(causal theory of reference):いくつかの用語(特に自然種の用語)がその用語の中心的な語法の根底にある何らかの物や本質を指示(reference)している。

この説において重要なことは、指示関係が外在的であるために、語の熟達した使用者は、その用語が何を指示しているかについて根本的に誤っている可能性があったとしても、依然として首尾よく正しいものを指示することができるということである。たとえば、水の場合、パトナムは、「水」が、わたしたち自身の因果的歴史において、規範的なインスタンスと適切な因果-歴史的関係を持つようなものをピックアップすると述べた。それがどんな種類のものであったかを知らなかったときでも(すなわち、化学構造を知る以前でも)。クリプキ、パトナムらは、「水= H2O」などの命題は必然的であるもののア・ポステリオリな真理であることを強調した。

こうした指示の因果説は議論の余地があるが、社会構成主義の解釈に寄与すると言える。というのも、たとえば「人種」などの特定の用語が、アポステリオリにのみ社会言語的行動によって生み出される種であると明らかになるのだとしても、そのような種を指示していたのだと主張することができる。

こうした理論を採用する構築的構成主義者は、たとえば「人種」といったわたしたちの一般的な概念の一部であるとされるような概念が、電子と同じような世界についての独立した自然の事実を指示するような概念だとされていても、さらなる世界についての研究によって、わたしたちの実践の慣習的特徴によってそれが生み出されているのだと主張することができる。

  • 指示の因果説的な構築的構成:そうした事実がア・ポステリオリによってのみ明らかになるとしても、特定の語は社会-言語的なふるまいによって生み出された種のものをじじつ指示しているかもしれない

こうした擁護がうまくいっているかはそれとして研究されなければならない。

第2章 自然主義と社会構成主義

第1章では社会構成主義の概要を紹介し、その理論的な難点について軽くふれた。以降第3章でそうした社会構成主義への自然主義的なアプローチを紹介する前に、本章では、自然主義とはどのような立場かについて紹介することにしよう。

現在でも自然主義がどのような立場かについての統一した見解はみられない。しかし、科学に対する批判的な反実在論的態度としばしばセットになっている社会構成主義と科学的方法論を受け入れる自然主義とは、ある種のはっきりとした対立をかたちづくっているように思われる。
そこで、自然主義を、それと社会構成主義とで争われている点を明確化することを狙って、科学に対する特定の立場として定式化しよう。こうした観点に基づくと、社会構成主義に対置される自然主義に大きく3つの特徴を見いだすことができる。

1 認識論的基礎主義

  1. 科学との適合(Accomodating Science):あらゆる知識の科学的事実との適合性を必要とする
  2. 経験主義(Empiricism):ア・プリオリではなく、世界の研究によって知識は獲得される
  3. 因果モデル(Causal Modelling):世界は互いに関係する自然法則の集合である。世界を理解しようとするために、さまざまなレヴェルででこれらの関係を理想化する因果モデルをつくる。

2 形而上的基礎主義

  1. 付随性(Supervenience):存在者には、より基礎的な、あるいはより基礎的でない存在者が存在する。そして、より基礎的でない存在者はより基礎的な存在者に付随している。多くの自然主義者は、基礎的な存在者とは物理的な存在者のことであると考えている。
  2. 還元主義(Reductionism):より基礎的でない存在者が関係している規則性は、そうした規則性が付随しているようなより基礎的な存在者が関係している自然法則によって説明される。

3 人間的自然主義

  1. 非逸脱主義(Nonanomalism):人間やその生成物は、科学によって説明できるような世界のうちにある自然的対象であり、形而上的な、逸脱したものではない。
  2. 方法論的自然主義(Methodological Naturalism):人間の本性や人間の文化、社会生活を研究するにあたり、自然科学の方法論が採用される。

第3章 社会的構成を自然化する

第1章の第3節でみたように、社会的作用因による事実の生成は、その生成が因果的な構成として理解されているかぎり、自然主義者にとっても特別問題はない。けれども、対照的に、構築的構成による事実の生成の説明は、第2章で定式化したような自然主義的な立場からみると不十分な説明であるように思われる。
こういうわけで、構成された現象に取り組む多くの自然主義者は、既存の科学知識に沿うような仕方で、構成主義者が関心を寄せる問題に因果モデルを与えてしまおうとする。本章では、このような自然主義的アプローチを例示するために、表象と人間本性(human nature)の社会的構築をより詳細に議論する。

第1節 表象の社会的構成

まず、「表象」とはなんだろうか。ひとびとが社会的構成の文脈で「表象の構成」について考えているとき、この場合考えられている表象とは、「精神状態、集団の信念、科学理論、そのほか概念や命題を表現するような表象」であるように思われる。事実、多くの論者のみるところ、構成主義者は、まず第一に、何らかの表象が構成されていると主張している点で共通している(例えばAndreasen 1998, Hacking 1999, Haslanger 2012, Mallon 2004)。

それでは、こうした「表象の構成」について考えるとき、ひとびとは、「構成」についてはどう考えているのだろうか?

まずは、ある特定の表象の構成について、すなわち社会全体で共有されているわけではない段階での、科学理論の構成について考えてみよう。

例えば、ピカリング(1984)によってクォークの構成が叙述されるとき、あるいは、ラカー(1990)によって、性が構成されたものであると示唆されるとき、彼らはほとんど直接的に、クォーク理論や性の理論が生み出されるプロセス(構成のプロセス)について語っているように思える。(例えばLatour and Woolgar 1979 Collins and Pinch2012)。

こうした社会構成主義者による「表象の構成の説明」は、ほんとうに社会的事実の「構成」のメカニズムやプロセスの説明になっているだろうか?

哲学者の幾人かは、なっていないと答える。彼らにしてみれば、「構成主義者は、構成される対象(つまり構成される事実)そのものついて語る際、その対象に言及すべきときに、その対象を構成する表象のひとつを使って対象ついて語ってしまうという不注意な(あるいは意図的に挑発的な)誤りを犯している」のである。どういうことか。

例えば、プトレマイオスが2世紀に天動説を提示したことを考えよう。たしかに彼はそのことで何らかの社会構成、すなわち「天動説」に貢献したと言える。こうした表象の構成について、その理論がどのように発生したのか、またその理論がどのように変化したのかについて触れることで説明できる。

しかし、そうすることで、わたしたちは単にあるひとつの表象(または関連する表象)の発生や変遷についてのみ語っているに過ぎない。もしこれらの主張から飛躍して、「この理論を構成することによって、プトレマイオスが天動説的な宇宙観を「構成」したのだ」とすれば、それは端的に誤りである。なぜなら、プトレマイオスの理論は、ひとつの構成であるとはいえども、そうしたある表象そのものの解釈のみでは、社会的構成の産物として「天動説的宇宙観」が誕生したメカニズムやプロセスを明らかにはできないからである。

ここで、第1章の第3節の議論が再び問題になる。そもそも社会的に構成するとは、いったいなんなのか? 因果的に構成されるわけでもない構築的な構成とは何か? 物理的事実の表象ではないとしたらいったいどのような対象の表象なのか?

こうした表象の構成の問題に関して、それでは自然主義者はどのような態度をとっているのだろうか?

自然主義者は、科学的表象、経験的観察が理論負荷的であり、科学理論はそれじたい数多くの社会的影響を被る対象であるのだとする社会構成主義者側からの批判に対し、「科学は、誤りうるとしても、世界についての知識を獲得するための中心的な方法でありうる」ことを説明しようとする。

これはある意味で、社会構成主義者の言うような「存在しない物理的事実に関する表象が社会的に構成される」という説明に抗して「存在しないかもしれないとされている物理的事実に関する表象はそれでも自然的に説明されうるような仕方で構成される」ということを示そうとする試みである。

そこで、社会構成主義的な表象の構成説に対する自然主義的な回答として、文化的につくりだされた認知の3つの標準的な自然主義的説明を紹介する。

  1. 文化的進化(culutural evolution):文化は集団遺伝学(population genetics)との類比によって理解しうる。そして、ある文化種(cultural items)は、人口の拡大の成功という点に基づいて成功の多少が理解されうる。これらの論者のほんの一部だけがじしんの研究を構成主義的研究に結びつけているが、いずれの場合も、そのプロジェクトは形式的に文化プロセスをモデル化し、複雑なプロセスをより単純なものにしたがって理解することである。
  2. 進化認知心理学(evolutionary cognitive psychology):文化を選択圧がはたらく表象のシステムとして考え、そしてこの考えを進化認知心理学に一般的な考えと結びつけようとする。その考えとは、精神は膨大な領域特異的(domain-specific)な心理的メカニズムによって構成されるものであるとする考えである。そして、これらを第一義的な選択のメカニズムとしてはたらく選択的メカニズムとして扱う立場である。
  3. 批判的構成主義の自然化(critical constructionism):批判的構成主義(critical constructionism)の中心的な主張である、判断と理論的活動に対する暗黙の評価の影響を示唆するアプローチを自然主義的に解釈する立場である。例えば、「動機づけられた認知」(Kunda 1999)に関する経験的証拠の増大しつつある研究は、こうしたアプローチが有益な発見をもたらしうることを示唆している。

 第2節 人間の種類と人間の形質の構成

いかなる種類の人間の形質も社会的構成の対象になりうるが、そのなかでもっとも興味深いもので、かつ争点にもなっているのは、人間の種類(human kinds)を構成する一群の形質である。こうした一群の形質は、思考やふるまいの特定の傾向性としての精神状態と共起し相関するとされる。
思考と行動の傾向性のセットとしての人間の種類に関する議論は自由意志と社会的規制に関する他の疑問を引き起こすために、人間の種類に関する構成主義をめぐる議論は、セックスやジェンダー、人種、感情、異性愛と同性愛、および精神疾患に関する問いを巻き込みながら、人間の分類に関する社会的、政治的議論の中心となっている。構成主義者は戦略として、文化を含むひじょうに偶発的な要因に訴えることによってこうした形質の構成を説明しようとする、これらの議論における各々の論者は、ある形質または一群の形質が文化的に特異的であるかそれとも文化を越えて見出されるかを問うことが多い。

第1項 概念的プロジェクト

これらの問題は、実りよりも論争を多くもたらした。しかし、同時に、哲学者は一般的に、そして自然主義者は部分的に構成主義者のさまざまな立場注意深く分析するという役割を果たした。例えば、文化的な特異性や普遍性に関する議論を反省するなかで、多くの識者は、文化的特異性に関する構成主義者による反論や批判のポイントは、歴史や文化を通して発見された/されなかったようなをめぐる単に経験的な事実に関するさまざまな論者の見解の相違に関するものではなく、現象の個別化に関して、その個別化が、文化的に異なる文脈的特徴に基づいた仕方で行われるのかどうかについての論者の見解の相違に関するものだと指摘した(Mallon and Stich 2000; Boghossian 2006,28; Pinker 2003,38)。たとえば、社会構成主義者は、わたしたちが科学的と呼ぶその活動が文化的に異なる特異な現象の個別化のひとつではないかといった疑問をもつ。この概念的プロジェクトは卓越した哲学的プロジェクトの一つであり、構成主義者の研究に関わっている概念についての問題や経験的な問題の明確化に多大な貢献をしたと言える。

第2項 社会的役割プロジェクト

別のプロジェクトとして、自然主義者は、人間の社会言語的行動が社会的役割を生み出すという構成主義的な示唆に基づいて、人間の形質に関する実質的な因果モデルを提案することを試みている(例えばHacking 1995b、1998; Appiah 1996; Griffiths 1997; Mallon 2003; Murphy 2006)

ここで大きな注目を集めているのがイアン・ハッキングの「人々をつくりだす」(1986、1991、1992、1995a、1995b、1998)ことに関する研究である。一連の論文や書籍では「児童虐待」「多重人格」「逃避」などの「ある人物である新しいやり方」を官僚的、技術的、医療的分類の作成と公布が創造する主張されている(1995b 、p.239)。これは、特定の種類の人間についての概念が広範な社会的反応を形作ると同時に、当該の概念は個人の行動の「パフォーマンス」を、行動の非常に具体的な手段を提案することによって、形づくるとする考えである。

第4章 社会的構成の新たな方向

以上、社会構成主義の概要と問題点を第1章で、自然主義の立場を第2章で、そして、社会構成主義を自然化する試みを第3章で議論した。本章では、社会構成主義自然主義とを統合する諸アプローチについて紹介する。

第1節 構成主義者による説明と統合モデル

人間の心理に対する進化論的・自然主義的アプローチに共感するもののあいだで、統合的アプローチ(integrative approach)が一般的になっている。

  • 統合的アプローチ:人間の本性の形成に進化論的力が果たす役割に関する知見と、人間の形質と人間の生産物の生産に社会構成的メカニズムが果たす役割への重視を結びつけたアプローチ。

このような統合的説明を構成しようとする方法は多くみられる。人間の形質(human traits)や種類(human kinds)の社会的構成と表象の説明をともに組み合わせるとき、それは多かれ少なかれ、構成主義者的な立場であると言える。おそらく、人間の特性や種類に関する社会的役割の説明は、社会的役割を構造化する表象の構成主義的説明と対になるだろうし、実際、これは多くの構成主義的研究の読みとして自然だろう。構成主義的研究は、人間の種類と形質に関する理論と、これらを社会的役割に訴えて説明しようとする理論との両方を説明しようとする。例えば、ジェンダーに関するわたしたちがもつ理論と、その理論が構造化する差異化のふるまいとは、ともに社会的構成の産物であるとする。

ここで、社会的構成主義者の目には、⑴ある人間の形質や種類に関するおそらくは客観的な記述(あるいは理論)と、⑵その記述が構造化(structure)する社会的役割(あるいは社会的なふるまい)とがともに社会的構成の産物であるように見えている。そして⑴はひろく「表象」と言い換えることができる。それは事実を記述するものとして書かれたもの、言われたもの、描かれたもの、としての人間の形質や種類だ。例えば、発達障碍に対する研究論文、治療者からの報告といったものは、おしなべて「ある人間の形質や種類に関する記述」すなわち表象である。さて、こうした表象は、⑵当の表象された人物の社会的役割を構造化してゆく。もう一度例を用いれば、発達障碍に関する表象がその当事者とされる人物じしんの社会的役割を構造化する。こうした⑴表象、⑵構造化、というふたつの現象がともに社会的構成であるとみなしているのが広い意味での社会的構成主義者であると言える。

こうした社会構成主義的主張のある種の魅力と弱点とはコインの裏表になっている。
⑴の表象が「ほんとうに社会的構成物なのか? 表象というものは、むしろ物理的事実をあらためて記述したものではないのか?」と問うことができるし、⑵の「構造化はいったいどのようにしてなされるというのか?」すなわち、「どのような因果的モデルが提案されうるのか?」という疑問にも答えなければならない。そこで、こうした問題に対する自然主義的なアプローチが存在する。

表象の説明に関心をもつ自然主義者は表象に関する構成主義的な説明と認知的説明とを結びつける統合的説明を提案している。人間の形質に関する社会的役割の説明と結びつけられたとき、この統合的説明は、人間の形質と種類の表象の(部分的に)自然主義的な説明と、表象が社会的役割の生産を通じてつくりあげている人間の特性や人間の種類の完全に構成主義的な説明とを結びつける可能性を提案する

ここで、先ほどの⑴の表象に関しては自然主義的な立場に立ちつつ、⑵の構造化のアイデアは社会構成主義の眼目とする統合的アプローチについて説明している。このようなアプローチは、先ほどの例でゆくと、発達障碍の理論や研究は客観的で物理的事実の表象であるのだが、それが社会的役割を構造化する点については、社会的構成であると考える立場である*6

第2節 最遠位的な説明としての社会的構成

典型的な社会構成主義は、⑴人間の形質は世界の経験から立ち現れる。⑵そのように経験される世界を構造化する文化の役割を強調する。しかし、これは前節でもふれたように、自然主義者の態度とは異なる。そこで、いささか社会構成主義的な色合いが薄まるものの、有用であるかもしれないようなこうした説明に対する自然主義的なアプローチを紹介しよう。

ここで、社会的に構成されているような現象に関する説明を形成する際、その現象の構成に社会的/文化的影響力が果たす異なる役割に注目して、大きくふたつの説明の仕方があると考えることができる。

  • 近位的説明(proximal)
  • 最遠位的説明(ultimate)

この場合の遠近は、説明するもの(explanans)と説明されるもの(explanandum)との違いを示している。
たとえば、「小佐内さんはいちごタルトを食べる」という事象の理由を説明しよう。

  • 近位的説明:おいしい食べ物を食べたいという小佐内さんの欲求であるという説明。
  • 最遠位的説明:その小佐内さんの欲求を生じせしめた選択圧の生産物とする説明

たとえば、哲学者のフィリップ・キッチャー(1999)は、人種グループに人々を分割するという文化的実践は、そうした文化的実践が重要な生殖的隔離の結果であるような集団において、それじしんで生物学的に重要な分割の結果でありうる。とした。どういうことか。
キッチャーの主張は、原則として、そのような隔離は、集団間の生物学的な差異を保存し、蓄積することを可能にしているということである。 キッチャーはこれが現実の人種(例えば現代アメリカ人集団における黒人、白人、アジア人など)の中で実際に起こっているかどうかについて懐疑的だが、形質の進化を形作る文化の役割の最遠位的説明としての役割を提案している。

また、生物が自らとその子孫に利益をもたらす方法で環境を改変するプロセスである「ニッチ構成(niche construction)」に関する近年の研究(Odling-Smee, Laland, Feldman 2003)もあり、この研究においては、自然選択を変化させる文化の役割が示唆されている。
ニッチ選択の重要な例に基づいて、乳製品生産の文化的な受容など、選択圧を形成する人為的な文化や技術の役割を強調されている(Feldman and Cavalli-Sforza 1989, Holden and Mace 1997)。また、こうしたニッチは、さまざまな種類の人間の概念を含むわたしたちの文化的概念によっても多かれ少なかれ構造化されているとされる*7

このような仮説は、社会的に構成された人種区分が生産する異文化間の生殖隔離の生物学的重要性に関するキッチャーの示唆と、ニッチ選択主義者による、文化が生物学的適応をもたらす選択圧を生み出すという考えとを結びつけている。キッチャーやニッチ選択主義者、コクランやハーディ、ハーペンディングらが行ったような研究は、ある意味では社会構成主義者的であるという理由から注目に値するが、社会的作用因(social agent)を近位的な要因ではなく最遠位的な要因として重視しているため、社会的構成主義的感覚をもつ多くの人には、違和感を抱かせるものである。

第5章 結論

「社会的構成」という隠喩は、ラベリングという点および社会科学と人文科学のさまざまな研究の推進という点で、 非常に柔軟であることが判明した。また、この研究で取り上げられた個人的および文化的因果関係のテーマ自体が[社会的構成における]中心的な関心であった。
ほとんどの哲学的努力は、とくに、科学の歴史と社会学の研究から生じた社会的構成の挑発的な説明の解釈と反論へと向かいつつあるも、社会構成主義的なテーマは数多くの文脈に出現し、哲学的自然主義者がさまざまな別の方法で構築主義者のテーマに取り組む[機会を]提供している。哲学的自然主義者および科学者は、社会構成主義の仮説を記述するとともに評価するために、哲学と科学の方法を用いることで、この機会を利用し始めている。文化が人間の社会環境、行動、アイデンティティ、そして発達を形成するうえで、強力で中心的な役割を果たすため、社会構成主義のテーマを自然主義的枠組みの中で追求しさらには拡大し続けるための十分な余地がある。

コメント

とくに構築的構成の理論的分析に興味をもった。覆われた構成物が社会的に構成されていると言えるためにはどんな証拠を持ってきたらよいのだろうか。この点がこの議論でいちばんよくわからないので気になる。社会的構成という曖昧模糊とした言葉の意味がすこし明らかになるとともに、それだけいっそう影に隠れていたより多くの興味深い問題が見えてきた。

*1:本記事はスタンフォード哲学百科事典「社会的構成への自然主義的アプローチ」のまとめノートである。Mallon, Ron, "Naturalistic Approaches to Social Construction", The Stanford Encyclopedia of Philosophy (Winter 2014 Edition), Edward N. Zalta (ed.), URL = <https://plato.stanford.edu/archives/win2014/entries/social-construction-naturalistic/>.

*2:この区分はGriffiths, P. E., 1997. What Emotions Really Are, Chicago: The University of Chicago Press.による。原注5。

*3:たとえば、倉田剛「社会存在論——分析哲学における新たな社会理論」『現代思想』12月増刊号、89-107。

*4:こうした区別はHaslanger, S., 1995. “Ontology and Social Construction,” Philosophical Topics, 23(2): 95–125.やKukla, A., 2000. Social constructivism and the philosophy of science, London: Routledge.においてなされている。原注7。

*5:ここの必然性が分析的の意味がよく分からない。関連するのは「分析/総合の違い」あるいは「参照理論」と言った話題のようなので。調べることにする。Rey, Georges, "The Analytic/Synthetic Distinction", The Stanford Encyclopedia of Philosophy (Spring 2018 Edition), Edward N. Zalta (ed.), forthcoming URL = <https://plato.stanford.edu/archives/spr2018/entries/analytic-synthetic/>. Reimer, Marga and Michaelson, Eliot, "Reference", The Stanford Encyclopedia of Philosophy (Spring 2017 Edition), Edward N. Zalta (ed.), URL = <https://plato.stanford.edu/archives/spr2017/entries/reference/>.

*6:ここで、まとめると、⑴の表象がすでに社会的構成であるとする「強い構成主義(strong constructionism)」の立場と、⑴は客観的な記述だけど、⑵は社会的構成だねという「穏健な構成主義(moderate constructionism)」の立場がというふたつの立場が提案されていると言えるかもしれない。

  • 強い構成主義:表象は事実の記述以上のものであり、その記述は社会的役割を構造化する。
  • 穏健な構成主義:表象は自然主義的説明が可能な事実の記述だが、その記述は社会的役割を構造化する。

もちろん、強い構成主義の立場であるからといって、すべての表象に関して強い立場を取る必要はないだろう。しかし、もし自然主義的な立場を取るなら、すべての表象に関して広義の穏健な構成主義(ある記述が社会的役割を構造化するか否かはべつとして)を取るひとは多そうである。

*7:論争の的となっている論文として、グレゴリー・コクラン、ジェイソン・ハーディ、ヘンリー・ハーペンディング(Cochran et al. 2006)による研究が紹介されている。この論文ではさまざまな証拠に基づいて、9世紀から17世紀の東ヨーロッパにおいて、ユダヤ人に対する人種区分と差別の文化的実践が作り出した選択圧が、高IQに対してはたらいていたとたこと、そして、それとは異なる事象として、同時期に、特定の遺伝的疾患が高IQの人物、とくにアシュケナージユダヤ人に関係していた (ここからアシュケナージユダヤ人はその時期にこうした文化的実践によって生殖隔離がなされていたのかもしれない)ことが論じられている。Cochran, G., J. Hardy, et al., 2006. “Natural History of Ashkenazi Intelligence,” Journal of Biosocial Science, 38: 659–693.