ゴータマ・ブッダの生涯については、初期経典に言及する文章が散在してます。また、後代には伝記的経典も作成されました。
その中から古来、特に重要な出来事を四つ選んで「四大事」と言います。その四つとは、誕生、成道(悟りを開く)、初転法輪(最初の説法)、涅槃(入滅、逝去)です。この四つを誰が「大事」と決めたのか知りませんが、私には個人的な不満があります。
たとえば、どうして出家が入ってないのか不思議です。我々にしてみれば、出家したゴータマ・シッダールタに意味があるのであって、ただのシッダールタの誕生などは、どうでもよいことです。
それに初転法輪を言うなら、それを可能にした梵天勧請(梵天による説法の要請)も重要でしょう。
そこで、これらの仏伝のエピソードについて、日ごろ私がつらつら考えていることを書いてみようと思います。
〇誕生
これについては、要するに、彼は大変結構な生まれと育ちで、十分な教育を受けていたということが重要です。極端な貧困や差別などの社会苦や、様々な病気や複雑な人間関係に苦しむような青少年期を過ごしたわけではない。ということはつまり、世間で宗教に「はまる」三大原因と言われる貧(貧困あるいは金銭問題)・病(自分や家族の病苦や介護)・婚(結婚・恋愛をはじめとする人間関係)とは関係がないということでしょう。
〇出家
彼の出家は、人間が生きていることの根本条件である、老い・病い・死がテーマであったということ。しかも、それらが嫌で、不老不死を目的にしていたわけではなく、三つを嫌がる人間の考え方や態度を問題視していたことが、実にユニークな点です。
〇成道
何を、どんな方法で悟ったのか、まさにその時の状況について、本人の言及がまるでありません。「悟り体験」みたいなものがあったとしても、それほど大したことではなかったのではないでしょうか。
〇梵天勧請
ここで大事なのは、誰が説法を要請したかではありません。梵天はバラモン教・ヒンズー教の主神ブラフマンのことですから、仏伝作者がこれを持ち出すのは、仏教の優越性の主張として当然です。
問題はそこではなく、要請でもされない限り、シッダールタ本人に自分の「悟り」を他人に教える気がまったく無かったということです。ということは、彼は自分が「悟った」ことを普遍的で絶対的な「真理」、すなわち誰もが知るべき・知らなければならない「教義」などと考えていなかったわけです。それはすなわち、彼はこの時点で、出家の動機となった自分の切実な問題にそれなりの見解を得たので、もうそれで十分だったということです。
しかしながら、梵天勧請の最も重要な意味は別にあります。シッダールタが何を悟ろうと、それを誰かに話してみて、相手が納得しない限り、ただの個人的妄想と区別できません。これが単なる「自己満足」的錯覚ではないことの立証は、話を十分に理解し納得する他者がいるかどうかの一点にかかります。梵天の説得は、この事情を象徴的に物語っているのです。
〇初転法輪
シッダールタがゴータマ・ブッダとなり、彼の考えが「仏教」になったのは悟りを開いたときではなく、まさに最初の説法のとき、その話を昔の修行仲間の一人が理解したときです。他の誰にも理解も共有もされないアイデアは、アイデアでさえありません。
さらに私が面白いと思うのは、ブッダの修行仲間は、話を聞いただけで「悟った」と経典にあることです。修行仲間が当時どんな修行をしていたかは定かにわかりませんが、まさか後代の仏典で説く通りの修行をしていたわけではありますまい。とすると、ブッダはそれでも悟れるような、聞いてすぐわかる話を最初の説法でしていたということになります。
〇涅槃
涅槃は仏教の最終的な到達点ですが、それは当事者でない第三者からみれば、死ぬことです。ということは、仏教の最終目標は、敢えて言えば、特定の死に方で死ぬことでしょう。あるいは、死の受容の仕方を稽古することなのです。
ところで、ブッダは涅槃に入る直前、第四禅という禅定段階にいて、そこから涅槃に入ったと経典にあります。すると、後に教義として体系化された禅定段階において、さらに上位にある禅定はみな、仏教究極の目的と直接関係ないわけです。
第四禅とは、簡単に言うと、あらゆる感受を停止し、意識を安定的に保ち、苦も楽もない心身状態に入ることです。なるほど、これなら精進によっては自分たちにも到達可能だと、修行者に思わせるところもあるでしょう。
その中から古来、特に重要な出来事を四つ選んで「四大事」と言います。その四つとは、誕生、成道(悟りを開く)、初転法輪(最初の説法)、涅槃(入滅、逝去)です。この四つを誰が「大事」と決めたのか知りませんが、私には個人的な不満があります。
たとえば、どうして出家が入ってないのか不思議です。我々にしてみれば、出家したゴータマ・シッダールタに意味があるのであって、ただのシッダールタの誕生などは、どうでもよいことです。
それに初転法輪を言うなら、それを可能にした梵天勧請(梵天による説法の要請)も重要でしょう。
そこで、これらの仏伝のエピソードについて、日ごろ私がつらつら考えていることを書いてみようと思います。
〇誕生
これについては、要するに、彼は大変結構な生まれと育ちで、十分な教育を受けていたということが重要です。極端な貧困や差別などの社会苦や、様々な病気や複雑な人間関係に苦しむような青少年期を過ごしたわけではない。ということはつまり、世間で宗教に「はまる」三大原因と言われる貧(貧困あるいは金銭問題)・病(自分や家族の病苦や介護)・婚(結婚・恋愛をはじめとする人間関係)とは関係がないということでしょう。
〇出家
彼の出家は、人間が生きていることの根本条件である、老い・病い・死がテーマであったということ。しかも、それらが嫌で、不老不死を目的にしていたわけではなく、三つを嫌がる人間の考え方や態度を問題視していたことが、実にユニークな点です。
〇成道
何を、どんな方法で悟ったのか、まさにその時の状況について、本人の言及がまるでありません。「悟り体験」みたいなものがあったとしても、それほど大したことではなかったのではないでしょうか。
〇梵天勧請
ここで大事なのは、誰が説法を要請したかではありません。梵天はバラモン教・ヒンズー教の主神ブラフマンのことですから、仏伝作者がこれを持ち出すのは、仏教の優越性の主張として当然です。
問題はそこではなく、要請でもされない限り、シッダールタ本人に自分の「悟り」を他人に教える気がまったく無かったということです。ということは、彼は自分が「悟った」ことを普遍的で絶対的な「真理」、すなわち誰もが知るべき・知らなければならない「教義」などと考えていなかったわけです。それはすなわち、彼はこの時点で、出家の動機となった自分の切実な問題にそれなりの見解を得たので、もうそれで十分だったということです。
しかしながら、梵天勧請の最も重要な意味は別にあります。シッダールタが何を悟ろうと、それを誰かに話してみて、相手が納得しない限り、ただの個人的妄想と区別できません。これが単なる「自己満足」的錯覚ではないことの立証は、話を十分に理解し納得する他者がいるかどうかの一点にかかります。梵天の説得は、この事情を象徴的に物語っているのです。
〇初転法輪
シッダールタがゴータマ・ブッダとなり、彼の考えが「仏教」になったのは悟りを開いたときではなく、まさに最初の説法のとき、その話を昔の修行仲間の一人が理解したときです。他の誰にも理解も共有もされないアイデアは、アイデアでさえありません。
さらに私が面白いと思うのは、ブッダの修行仲間は、話を聞いただけで「悟った」と経典にあることです。修行仲間が当時どんな修行をしていたかは定かにわかりませんが、まさか後代の仏典で説く通りの修行をしていたわけではありますまい。とすると、ブッダはそれでも悟れるような、聞いてすぐわかる話を最初の説法でしていたということになります。
〇涅槃
涅槃は仏教の最終的な到達点ですが、それは当事者でない第三者からみれば、死ぬことです。ということは、仏教の最終目標は、敢えて言えば、特定の死に方で死ぬことでしょう。あるいは、死の受容の仕方を稽古することなのです。
ところで、ブッダは涅槃に入る直前、第四禅という禅定段階にいて、そこから涅槃に入ったと経典にあります。すると、後に教義として体系化された禅定段階において、さらに上位にある禅定はみな、仏教究極の目的と直接関係ないわけです。
第四禅とは、簡単に言うと、あらゆる感受を停止し、意識を安定的に保ち、苦も楽もない心身状態に入ることです。なるほど、これなら精進によっては自分たちにも到達可能だと、修行者に思わせるところもあるでしょう。
しかし、悟りを開いた直後の釈迦は、
自分の体験(悟り)は、誰も理解出来ないだろうから、そのまま坐禅を続けて、餓死しようかと考えてたとありますから、
何故釈迦はそ考えを翻したのか??
死にきれなかった??
原始仏教に詳しい高橋さんの見解をききたいですね、すぐにでも・・・
釈迦の悟りは実は特別の神秘的な事ではない(第四禅)という事であれば、
なぜ釈迦は他の人には理解されないのだから、そのまま自分一人で坐禅を続けて餓死しようなんて思っちゃったのか??
も疑問符として残りますね。
ならば、初転法輪での旧友が、サッと理解出来ちゃったのはなぜか??・・・等々、
釈迦のプロファイリングには興味が尽きないですね(作られた歴史の裏読み)。
編集布教し始めたことに発する。
ダ・ヴィンチの壁画「最後の晩餐」の十二使徒(キリストの初期仲間か弟子)ではなく「パウロ」が宗派理念をつくった。
キリスト教も傍目からみると死後何百年とかの時差で旧約、新約と体系化された物語はブッダのそれと似たように思える。
誕生の地インドではもはや宗派は遺跡にしかなく儒教的解釈を加え中国、韓国を経て日本に至り。
自称救世主は歴史上、何百何千人かいただろう。
しかしユダヤ教から分かれたキリスト教、イスラム教等の一神教と仏教が残った。
今、世界で仏教教義経典の編纂や研究の中心は日本にあるとも言える。
こうした日本的仏教の理念を社会に問うために先ず自ら問い言葉にと傍目思うのです。
ゴータマが悟ってから、餓死しようとしたのは、生きる目的が消滅してしまったのではないでしょうか。
あぁ、苦しみって、自分の「思い」だったんだ、、。と認識して、生きる意欲が消えた。
つまり、生きることは、苦しみがあってこその人間であり、人生。その苦しみを排除することは最早できず、しなくてよくなった。
そこで、梵天が要請して、新たに生きる意欲、目的ができた。
でも、個人的には法然のような人がすきだなあ。饒舌に喋る人間、もっともらしいことをまくしたてる人間は信用ならないですよ。言葉も大事だけど、もっとも弱いものたちのために自身の限りを尽くそうという慈悲が法然にはある。法然は外向的です。単に性格の違いだと思いますが。