明治少女に大人気! 暴れ冒険作家・押川春浪

不道徳なお母さんライターが、日本の「道徳教育」のタブーに踏み込み、軽やかに、完膚なきまでに解体! まずは、明治時代までさかのぼり、日本における「読書」と「道徳」の関係をさぐります。
ときは明治30年代、少年雑誌からだいぶ遅れて、ようやく少女雑誌の創刊ラッシュがはじまります。良妻賢母への心得満載かと思いきや、少女たちにはかなり大胆な冒険小説が人気を博したようで……。

1989(明治32)年、中等教育を受けた男子にふさわしい良妻賢母を育成するという名目で、高等女学校令が発布された。読み書きを身に着けた女子が急増したことで、少女雑誌の創刊ラッシュが始まる。『少年世界』の少女欄も、1906(明治39)年に少女雑誌『少女世界』として独立することになった。

『少年世界』の少女読者たちの歓迎ぶりは、創刊号からある投稿欄「談話室」からもうかがえる。

「少女世界は面白い有益な雑誌で私ほんに嬉しくつて仕方がありませんのですが一つお願ひ申したい事があります何卒少年世界の様に少女新聞や少し男らしい冒険談や史談を毎號のせて下さいますまいか何卒何卒お願い申上ます(陸前松子)」(1巻2号)

「記者様私今まで少年世界を愛読して居りましたが男ばかりだからほんとうにつまらなかつたわ而し少女世界が私共の為に出るのですつて私ほんとにうれしい事よすぐによんで見ましたら面白く又ためになる事がらばつかりあつてよ(弘前在府町三上のぶ子)」(1巻2号)

かくも歓迎された『少女世界』だが、創刊号の誌面の多くを占める読み物は、巖谷小波のお伽噺「三人姉妹」を筆頭に、少女の孝行物語がメインである。論説も「何によらずお母様の有仰る事をきいて、仮初にも我儘な心など出しては成りません。お母様の有仰る事は、少しも間違のない處ですから、よくよく教へを守り、一から十までおたよりなさるのが、宜しいのです」(「女子の修養」)と従順一択の内容で、相変わらず説教くさい。

その中で目を引くのが、9歳で単独富士登山した少女・吉弘政子のインタビュー記事「乙女の富士登山」だ。男性記者に将来の夢を聞かれた政子は「ハイ、弁護士になります!」と堂々とした受け答えを見せる。「だつて、是迄は女といへば、佶(きつ)と男に敗けるものと極つて居ますから、私は女で男を敗けさせたいのです!」

従来の婦徳からすれば「生意気」とコテンパンにされかねないが、男性記者は「天晴我が日本婦人を代表する程のえらい人になられんのを、私は神に佛に祈るより他はありません」と好意的にとらえている。文学青年が頭の中でこしらえたおてんば少女ではない生身のおてんば少女は、おじさんたちをつい笑顔にしてしまうような魅力にあふれていたのだろう。また女学生の増加と日露戦争後の時流の中で、日本婦人も西洋婦人に負けない強さを持ってほしいという期待が生まれつつあったのかもしれない。

読み物の説教臭さはともかく、造花の作り方やイラストの描き方、編み物、理科読物、少女英語など実用記事が充実していたこと、読者投稿に力をいれていたことから、『少女世界』は先行するお勉強系少女雑誌『少女界』(明治35年創刊)を追い抜いて、トップ少女雑誌となった。

特に面白いのは、当時の少女の価値観がダイレクトに反映された「談話室」だ。読み物人気が薄い中で、なぜか一人だけやたらと言及される作家がいるのである。

「押川春浪様の冒険談大好よ記者様毎號かゞさず出して下さい夫からお伽噺なるたけ澤山のせて下さいお願ひ申します」(刀水の畔光子)」(第1巻3号)

「ほんとうに少女世界は、よい雑誌ね。私の殊にすきなのは、少女英語と小波さんのお伽噺と押川さんの冒険譚よ。皆様は?(深川喜代子)」(第2巻1号)

「記者様、どうぞ少年世界のやうに、ローマ字のお伽噺や少女新聞を出して下さい。それから押川春浪様の少女冒険譚、本當に面白うございましたわ、これからもあんなのを、ね(大阪、米子)」(第2巻3号)

「私は押川さんの冒険談が大好きよ、だから次號が待遠しくてならないわ。そしてね記者様、少年世界のやうに、本誌にも少女新聞や新遊戯を出して頂戴な、おねがひよ(土佐、孝子)」(第2巻5号)

「押川先生の女侠姫、ほんとに面白いわ、あの畫を、市川先生か宮川先生にかいていたゞいたら、どんなによいでしょー。皆様はそー思はなくつて」(第2巻7号)

「押川先生の女侠姫、早くつゞきが見たいわ(茨城、節子)」(第2巻8号)

「美濃の熟読生さん私もあなたと同感よ。リミニー姫がたすけられたのでほんとによかつたワ子私安心しましたのよ。春浪先生どうぞこの次には面白いのをね、おたのみ申しますワ(弘前、シン子)」(第2巻13号)

「美濃の熟読生様、私もあなたと御同感よ、ほんとに、浪子姫の様な方に、あひたいわね。そして末期の地の険を冒して探るのまあどんなに愉快でせう!!それにしても押川先生は、よくもあの様に面白い冒険談が、おかゝれなさいますのねえ。一度は、どうぞして御目にかゝりたいわ(札幌、たま子)」(第2巻15号)

「蕨市の野菊様のおつしやる通り、私も勇壮なる探検談大好きよ 押川先生の「露子の旅行」あんなの私大すきです、どうぞ次を早く出して下さいな(茨城の節子)」(第3巻12号)

巖谷小波のお伽噺ブームにも陰りが見え始めた明治40年代、少女人気を独り占めしていたのは押川春浪だった。さぞ少女の心がわかるなよやかな文学青年なのだろうと思いきや、その生きざまはとんでもなく破天荒である。

勉強よりも野球に熱中する体育会系少年だった押川春浪は、明治学院を落第して東北学院に転校する。しかし校風が合わず、教室のストーブで教師の飼い犬を煮込んだり、授業中に同級生のロン毛に石油をかけて放火したりのヤンチャ行為で放校されてしまう。その後も大乱闘を繰り広げるなどして2つの学校を中途退学し、19歳で東京専門学校(現・早稲田大学)へ進学する。いったんは文科に入るが「文学なんかは屁の如し」と政治法律科に転学し、ここでも暴れ馬で乗りつけて交番を壊したり、押入れでウンコしたりのバンカラ活動に明け暮れる。

だが、大学でユゴーやデュマの長編小説に出会ったことが人生の転機となった。自分もこのような勇壮な物語を書きたいと、処女作を巌谷小波のもとに持ち込む。明治ヤンチャムーブメントの祖である巖谷小波はもちろん気に入り、すぐに出版の便宜をはかった。

こうして生まれた科学軍事冒険小説『海島冒険奇譚 海底軍艦』(明治33年)は、日本最初のSF小説といわれている。

謎の失踪をとげた海軍大佐、絶海の孤島に浮かぶ秘密海軍基地、特殊化学薬品12種を組み合わせて動くドリル付き潜水艦“電光艇”、謎の海賊軍……『海島冒険奇譚 海底軍艦』は、明治時代の小説でありながら戦後のロボットアニメにも通じるハチャメチャな要素がてんこもりだ。それが押川春浪という破天荒作家の持ち味だった。

遺稿「吾輩が初めて金を儲けた時(『海底軍艦』を書いて四十円頂戴)」で、「痴情小説、淫猥詩歌、泣文学などは、国民を堕落せしめ、青年子弟を誤り、国家に大害を流すものであると酷く悪(に)くんで居った」と語っていた春浪は、文学青年とは真逆のマッチョ青年である。道徳など鼻にもひっかけないアナーキーな暴れん坊だったからこそ、メカ・バトル・謎という少年の欲望をストレートに喚起する現代的なエンタメ小説が書けたのかもしれない。日露戦争開戦を控えた社会状況もあって、ナショナリズムを煽る春浪の小説は売れに売れ、科学軍事冒険小説という一大ジャンルを築いた。

どう見ても少女雑誌には似つかわしくない押川春浪だが、『少女世界』創刊当時の主筆が巌谷小波だったので、おそらくそのつながりで依頼されたのだろう。1巻2号「少女冒険譚」で初登場したときの書き出しも、無理やり書かされた感まるだしである。

何か少女に関する冒険譚をやれと云はれる、之れには頗る閉口しました、元来女は温和しいのが天性で、好んで冒険などをすべきものでは無い、餘り飛んだり跳ねたりなどすると、お転婆などゝ云ふ可笑な綽名を頂戴する、然し女でも、この波風荒き世の中に生活して居る以上は、何時如何なる危難が起つて来るかも知れぬ、(…)何も好んで冒険する必要はないが、いざと云ふ場合には、戦争でも冒険でもする丈けの勇気を持つて居つて貰ひたい。
「少女冒険譚 (一)船長の娘」押川春浪(『少女世界』明治39年1巻2号)

こんな口上で始まった少女冒険小説第一弾は、船長の父親と一緒に船に乗り込んだ12歳の少女・雪子が、暴風雨で見知らぬ島に流れ着き、野蛮人にとらえられた父と水夫長を村ごと焼き払って救出するという筋書きだ(3回連載)。従順な「家の娘」を理想像とする教訓小説ばかりの少女雑誌に、いきなり「村ごと焼き払う系女子」の爆誕である。明治の少女読者は、さぞや痛快だったことだろう。押川春浪からすれば、「女にドリル付き潜水艦はいかん、おしとやかに放火ですませよう」ぐらいの感覚だったかもしれないが。

押川春浪はその後も、馬に乗った男装の美女・浪子姫が世界を股にかけて活躍する「女侠姫」、父王に媚びないお姫様がお城を追い出されて旅に出る「三人姫君」、美少女2人の冒険小説「人形の奇遇」などを連載し、いずれも好評を博した。少女とバンカラの相性の良さが意外だが、実はデビュー作『海島冒険奇譚 海底軍艦』に、少年の可憐な容姿を若松賤子『小公子』の主人公の美少年に喩える描写がある。もともと少女と親和性の高い美意識の持ち主だったのだろう。イエ制度に抑圧されていた少女読者と儒教道徳に息苦しさを感じていたバンカラ青年は、既存の権威や道徳をものともしない強く美しい孤高の存在へのあこがれという一点で通じ合っていたのかもしれない。

押川春浪人気の影響で、『少女世界』は他の作家による少女冒険小説もみられるようになる。しかし世間的には、少女雑誌に冒険小説が掲載される事自体が批判の対象となった。

「皆様、或る雑誌を見ましたら、少女に冒険談は不必要ですと書いてありましたが、私驚きましたワ。まるで天保時代の老人のやうなお考へねえ。かう申しちや失礼ですが、少女世界に面白い冒険談があるからツて、そんなに目の敵のやうに悪口を言はなくツても好いと思ふわ、皆様はどうお考へ遊ばして?(札幌・不思議女)」 (『少女世界』明治四十一年十一月一日)

このような風潮もあってか、明治の少女小説界で冒険小説が一大ジャンルとなって盛り上がることはなかった。少女小説は、別の方向へと進化していくことになったのである。(次回に続く)

参考文献 「構成される「少女」―明治期「少女小説」のジャンル形成―」久米依子(『日本近代文学』68) 『日本SFの祖 快男児押川春浪』横田順彌・會津信吾 海島冒険奇譚 海底軍艦 http://www.aozora.gr.jp/cards/000077/card1323.htm...

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コメント

Ito_SIPD 「こんな口上で始まった少女冒険小説第一弾は(略)野蛮人にとらえられた父と水夫長を村ごと焼き払って救出するという筋書きだ」良い…… 28分前 replyretweetfavorite

yomoyomo "イエ制度に抑圧されていた少女読者と儒教道徳に息苦しさを感じていたバンカラ青年は、既存の権威や道徳をものともしない強く美しい孤高の存在へのあこがれという一点で通じ合っていたのかもしれない。" https://t.co/0OP26oSCek 約1時間前 replyretweetfavorite

hamanako “「美濃の熟読生さん私もあなたと同感よ。リミニー姫がたすけられたのでほんとによかつたワ子私安心しましたのよ。春浪先生どうぞこの次には面白いのをね、おたのみ申しますワ(弘前、シン子)」(第2巻13号)” https://t.co/Hx192o4si8 約5時間前 replyretweetfavorite

hamanako “押川先生の女侠姫、ほんとに面白いわ、あの畫を、市川先生か宮川先生にかいていたゞいたら、どんなによいでしょー。皆様はそー思はなくつて” 明治お嬢さま文体、不思議な強さが感じられますね… https://t.co/Hx192o4si8 約5時間前 replyretweetfavorite