著者 永井文治朗


 NHK大河ドラマの不思議というものがあって、昨年の流行語というべき「忖度」(そんたく)が働いている人物や家、団体が存在するのではないだろうか。例えば「井伊家」である。徳川家康の家臣の末裔(まつえい)にもかかわらず、『花の生涯』(井伊直弼)、『おんな城主直虎』(井伊直虎)など、なぜか中興の祖である井伊直政本人を差し置いて末裔や養母が主人公となるという不思議な現象が続いている。

 また、『篤姫』では井伊直弼の扱いが非常にていねいだった。もともと徳川幕府の既定路線に則って「開国」するに際し、大奥という権力をバックにつけて大老に就任、国内で反対派の始末をしたというより、発言力を増した外様大名や親藩譜代大名でも「反主流派」の人々を将軍の家督相続問題にかこつけて大弾圧した。

 彼が声を大にして言いたかったことは「徳川300年の栄華は我々老中職を担ってきた神君家康の家臣団の末裔である。決して御三家をはじめとした神君家康の縁者でもなければ、戦国大名どもの末裔でもない」ということに尽きる。語るに堕ちるというのはこのことで、「天下人よりも偉い天下人の家臣たち」が凡庸(ぼんよう)な将軍たちを支えたからこそ今までやって来られたということで、外野や庶民は黙っていろという話だ。バカも休み休み言ってほしい。
群馬県館林市の善導寺に伝わる徳川家康の肖像(模本、東大史料編纂所蔵)
群馬県館林市の善導寺に伝わる徳川家康の肖像(模本、東大史料編纂所蔵)

 では保科正之や田沼意次、新井白石はどこから出てきた人物か。文化人なら葛飾北斎や伊能忠敬もそうだが、そもそも士農工商は職分制度であって身分制度ではない。裏道も抜け道もいくらでもあり(学者も医師も職分制度の例外)、元々は才谷屋という豪商の分家だった商家の坂本家は郷士株を取得して土佐郷士となった。そこの次男坊が坂本龍馬だ。兄の権平が商家の坂本家を相続し、龍馬は無心すればいくらでも兄から援助が得られたので食い詰めたことなどない。

 つまり、身分出自を問わず広く人材を募ってきたからこそ江戸幕府の政治はあらゆる困難に立ち向かってこられたのであって、老中職をたらい回しにしたごく一部の家臣たちだけが有能だったからではない。また江戸三代改革という「虚妄」も信じがたい。吉宗の「享保の改革」こそ一定の成果があったが、後の二つは享保のまねをしたむしろ失策といえる。それよりはるかに小さく扱われる「正徳の治」(間部詮房と新井白石の時代)の方がむしろ政治的に安定した善政時代である。

 また、吉宗の後継ぎたる将軍家重は「小便公方」と江戸庶民から揶揄(やゆ)されたが側近の大岡忠光(御側御用人)は公明正大で「小便公方」を支えて善政を継続した。それこそ江戸庶民、外国人からも絶賛されたひとかどの人物である。

 その後、忠光からのバトンを受けた田沼意次が台頭して一時代を築いた。現在は「田沼時代」として賄賂横行の悪政時代というより、経済を活性化させて幕政を建て直した改革時代よりも政治安定期だと好評価されている。作家、池波正太郎の代表作『剣客商売』はこの時代を舞台にしている。

 実際、井伊直弼の時代にさえ、江川太郎左衛門英龍(韮山代官。彼の代表的な遺構が「お台場」と世界遺産「韮山反射炉」)、勝海舟(軍艦奉行)、小栗上野介忠順(三河小栗家12代目)を排出している。そもそも徳川幕府は人物に払底し、腐って倒されたのでなく、幕府と朝廷の深刻な対立や諸外国が介入する内戦回避のため、あえて政権放棄(大政奉還)を選択したのだ。本当に腐りきってどうしようもない政権にこんなまねができるはずがない。

 要は、井伊直弼は現代で言うところの豪腕政治家に過ぎず、それ以上でもそれ以下でもない。だが、彼の所業が外国勢力と挙国一致で当たらねばならない状況下で、幕末という大混乱を招いた。そして長州藩が暴走し、薩摩藩が後に倒幕方針に転換する契機になったことは紛れもない事実であり、関ヶ原で抜け駆けして先鋒大将となった井伊家は、幕末期も抜け駆けして真っ先に新政府に寝返った。これもまた事実である。「井伊家への忖度」というのがどうもこの辺りに漂っていて胡散(うさん)臭いことこの上ない。

 そして『おんな城主直虎』の次が『西郷どん』だという。記録的震災に見舞われた熊本や、豪雨災害で大打撃を受けた北九州ではなく、彼らがイラっとする薩摩(鹿児島)の英雄が主人公である。