このあいだのことだ。

あるおばあちゃんと話していたとき――(Aさんとする)
Aさん「この前、『ご協力、ありがとうございました。おかげさまで最優秀賞とれました』って、山口放送が時計を送ってきたよ」
私「へえ」
Aさん「佐々木さんからは一回、お礼の手紙がきたかな」
私「……」
気を取りなおして、ほかの話題へ。

Aさんは戦前、黒川開拓団の一員として、旧満州(中国東北部)に渡った女性である。(高齢のAさんは色々と体の具合が悪いので、元気にしているか心配なので、ときおり連絡している。取材はさておき、互いの考え方も合うので、会話が進む。)

彼女が「性接待」の被害者であったことは、誰かに教えてもらったのではなく、取材の勘(インスピレーション)などから。自慢などではなくて、取材の発端ってものすごく地味だし、孤独な部分だ。得られた情報に基づいた最初のコンタクト(接触)は、賭けでもある。

そもそも、私が黒川開拓団における悲劇を知ったのは、拙書『中国残留孤児 70年の孤独』(集英社インターナショナル、2015年)を読んだある人との交流がきっかけである。さらにさかのぼれば、私が中国残留孤児について書くきっかけになったのは……と、個々の出会いや執筆のきっかけは遡及的に長い線としてつながる。成果は<見えない価値>の蓄積によるものであるし、また、「私が私であるゆえん」、なぜそのことにこだわるのか、なぜそこに立ち止まったのかともつながる。

秘められた歴史的事実にどのようにたどり着き、どのように紐解き、どのような媒体でどう表現するかは、もっとも個々の書き手(表現者)の個性やオリジナリティが発揮されるところでもある。

黒川開拓団のルポについては2016年9月に女性自身に書いたが、そのあとの後追い取材云々については以前ブログで愚痴らせてもらった。(ー> どうよ山口放送

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山口放送の「佐々木さん」は、今年3月くらいから、短期的に、開拓団の「性接待」被害者たちを撮影取材してまわった人だ。Aさんだけでなく、今年3月に「山口放送から連絡があったんだけど」と元開拓団の人たちからも聞いている。撮影や連絡等の順序は、私のルポ→山口放送→NHK。実際に撮影された人たちから聞いているし、別の当事者(Bさん)のハガキからも時系列は明らか。

「Aさんのハガキには、戸惑いが書かれていた。あれから(女性自身)を見て山口放送が来る 岐阜放送局が取材に来て、慣れない私は閉口しました、とある。」(注・このエントリーでのAさんは、今回はBさんとしている。)

Aさんにしろ、Bさんにしろ、もともと先行取材者による下準備とルートがあって、同じ当事者らからテレビ側は上塗りのように取材をして、自分たちのオリジナル作品にしていった(それぞれ一回の撮影日)。

その山口放送の成果が「記憶の澱」。
その作品が最優秀賞を取ったそうだ。
(平成29 年5 月27 日(土) 13:00~14:30 放送済(←賞のコンペの締切期間(~5月末)にぎりぎり間に合わせている。)

NNNドキュメントにて12/3に放送予定。登場するおばあちゃん、私の取材時(2016年)と同じ服着ているのがわかる(現代のフロントページから

山口放送「記憶の澱」などに最優秀賞 民放連賞 - 産経ニュース

授賞式での「佐々木さん」

私は山口放送の「佐々木さん」という人と、会ったこともないし、やりとりしたこともない。すでに世に出た記事だから、その文章を書いたライターに連絡しなければいけない義務もない。法的には問題ないだろうし、私から何か求める気もない。

ただ、道義的なところでは「どうなのかな」とは思う。

NHKは視聴率がよかったのか、何度も再放送していた。また山口放送の佐々木ディレクターにしても、Aさんが性接待の被害者であることやすでに私の取材を受けて交流していたことなどは、佐々木ドキュメンタリー作品の完成におおいに役立ったんじゃないかな。

ちなみにおばあちゃんいわく、撮影した人たちとはとくに継続的なつきあいはないという。これで再放送の繰り返し、最優秀賞――お気軽な「お仕事」の発掘と撮影ではないか。

ドキュメンタリーを謳うならば、スタート地点も併せて、つまり「なぜその女性ライターがその問題にぶち当たったのか」という視点も作品に盛り込めばいいのに、と個人的には思う。なぜなら、黒川のことは、女性の権利や性暴力に対する感度が問われる問題だからだ。

女性個人としての「道のり」を、競争の論理のなかで、組織に属する人たちや男性が吸い上げていく――と、私が感じたとして、知りうる事実に基づいて表現したとしても、これもまた「あり」だ。