2018-01-20

小室哲哉リベラリズムの敗北

以前ブコメ等で「リベラル不倫に対して寛容であるべきだ」と書いたことがあります

このタイミングにおいて、この件についてもう少し書いてみたいと思います

リベラリズムにおける基底的な考え方の1つとして、「善に対する正の優越」という考え方があります

この考え方は、リベラリズム特定の「善の構想」(何が善い人生であるか)を前提することなく、それぞれの個人が持つ「善の構想」を各人が自由に追求するための「フェアなルール」を整備することを目指すものである、という考え方です。(*この説明で腑に落ちない方は、「善に対する正の優越」で適宜ググってみてください)

例えば、リベラリズムは「結婚すること/結婚しないこと」について特定の善の構想を持ちません。つまり結婚する人生も、結婚しない人生も、どちらが「善い」ものかということについてリベラリズムは関知しません。リベラリズムが目指すのは、「結婚する人生」が善いと思う人も「結婚しない人生」が善いと思う人も、どちらも”えこひいき”することなくフェアに暮らせるためのルールを整備することになります

私は、上記の「善に対する正の優越」という意味で「リベラル不倫に対して寛容であるべきだ」と考えています

多くの人々の感覚とはズレるかもしれませんが、「不倫は悪いもの」というのも人生における「特定の善の構想」を前提とした考え方になります。人には色々な事情があり、家族には色々な事情があります。色々な事情に応じて、人々には色々な「善の構想」が — 甘いものも苦いものも酸っぱいものも含めて — あるわけです。

もちろん各人の「善の構想」の追求も無制限に許されるものではありません。例えば、他者危害を与えるような「善の構想」の追求は当然に制限されることになります。その意味で、「不倫」についても不倫行為により危害を受けうる当事者家族や親しい関係者から非難されたり断罪されるのは正当なことでしょう。どんどん非難されたり断罪されたり(あるいは赦されたり)するとよいと思います

逆に言うと、不倫行為について非難したり断罪することの正統性があるのは、その当事者家族や親しい関係者だけだと思います関係ない第三者他人の「善の構想」に口をはさむというのは、(その構想が他者人権尊重抵触しない限り)少なくともリベラリズム立場からは、やるべきではないことだと私は考えます

また、そもそも、「誰を愛するべきか/誰と一緒にいるべきか」について社会関係ない第三者から指図されない、というのは現代において我々が獲得した「自己決定権人権」の中でもかなり基底的なものなのではないでしょうか?

上記の考えから、私はこれまで報道された有名人不倫について非難したり断罪たことは一切ありません。

今回、小室哲哉さんが「不倫疑惑」によって、その潜在能力の発揮が妨げられることになったのは、リベラリズムの信奉者として残念としか言いようがありません。

リベラル他者不倫行為に対して寛容であるべきなのです。

リベラルが考えるべきなのは、その不倫行為等の帰結により何れかの潜在能力の充足が果たされないような状況 --- 子供貧困など --- を生じさせないためのルール整備だと私は考えています

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