ゲイカップルの「日常」を描く、よしながふみ『きのう何食べた?』

男と男の恋愛を描く一大ジャンル「BL」。本連載は、妻であり腐女子でもある文筆家の岡田育さんがおくる、夫に読ませたいBLマンガガイドです。今回とりあげる作品は、よしながふみ著『きのう何食べた?』。性描写が苦手でBLに手を出しづらいという人でも、本作を読むことでBLを疑似体験できるのでは、という岡田さんが、本作の描く「日常」の魅力について語ります。

 私の夫は漫画を読まない。……ほとんど。じつは私の夫も、ごく稀に漫画を読むことはある。先日「『きのう何食べた?』って漫画、持ってる?」と訊かれたときには大層驚いた。新聞に書評が出ていたらしい。妻がどんな名作漫画をプレゼンしても梃子でも動かなかったのに、こうも簡単に「なんか、ゲイのカップルが? ごはんを作って食べるお話?」を「読んでみたーい」と言うなんて。すっかり地に落ちたと思っていた新聞の権威も、まだまだ捨てたものではないようだ。


きのう何食べた?(1) (モーニングコミックス)

 夫のKindle端末に全巻ダウンロードしてやりながら私は、2007年、よしながふみが青年誌『モーニング』で新連載を始める、と知ったときの感動を思い出していた。『クッキングパパ』や『島耕作』を愛好するおじさん読者がページをめくると、俺たちのよしながふみ先生の漫画がシームレスに目に飛び込んでくる。それは当時、じつに画期的な出来事と思えた。

 しこうして10年近い歳月が経ち、この「ゲイのカップルがごはんを作って食べるお話」は今や、どんな読者層にも当たり前に読まれる作品となった。単行本が13巻まで刊行される間に、我が夫のような「漫画を読まない」人間さえ、その大評判を聞いて手に取るまでの存在感を放つようになったのだ。

 さて、1巻を読み終えた夫の感想は、「このシロさんって、俺みたいだよねー」であった。おまっ、どんだけ自己評価が高いの!?

『きのう何食べた?』に夫婦の関係を当てはめる

 シロさんこと筧史朗(1巻カバー左の人物)は弁護士である。堅実で忙しすぎず、定時で上がれる今の職場を気に入っている。老後の不安を払拭すべく少しでも蓄えを残すという信条の下、健康と節約のために自炊をして月々の食費を三万円(連載当時は二万五千円)に抑えている。おもてなし料理のような派手なものは作らないが、主菜副菜取り揃えて栄養バランスのとれた毎日の食事を短時間でささっと作る手際がよい。

 彼と同居するパートナーのケンジこと矢吹賢二(1巻カバー右の人物)は美容師で、普段はもっぱら食べる専門。シロさん不在のときは台所に立つこともあるが、自分用に作るのは具沢山のラーメンなど、享楽的かつ罪深い、一点豪華主義の献立が多い。「自炊に対する姿勢によって人間を二種類に分けるなら、俺はどちらかというとシロさんの側で、君は間違いなくケンジの側であろう」というのが、夫の主張だった。そう言われるとたしかにグウの音も出ない。

 平素、我が家の台所は夫によって完璧に支配されている。冷蔵庫に満たされる生鮮食料品、冷凍庫にストックされる作り置き、ライフラインとしての自炊環境の管理は、夫の手に委ねられている。私だって料理をしないわけではないのだが、我が家のシロさんに言わせれば、「気まぐれに趣味として台所に立ち、あらかじめ整えられたインフラの上で好き放題やるだけの君やケンジのようなのは、料理をしているうちに入らない」というわけだ。

 或る日突然、天啓を得て数十冊の料理入門書を一括購入し、だしの取り方から研究を始めた我が夫。「シロさん、市販のめんつゆを多用しすぎだよね」というのが、二つ目の感想だった。どんな料理もレシピ通りに作れたためしのない私にとっては、『きのう何食べた?』のちょっとした時短術や適当な味付けこそが福音だったのだが……。とはいえ、夫も最近ようやくだしパックの便利さを発見し、「もう、以前の俺には戻れないかもしれない」と言っているので、めんつゆと白だしの有難味に気づくのも時間の問題だろう。

BL一丁、「セックス抜き」で

 『きのう何食べた?』は、普段BLを読まない殿方と話をする際、しょっちゅう挙がるタイトルの一つでもある。曰く「岡田さんたち腐女子が好きで読んでいるBLって、『きのう何食べた?』みたいなやつのこと?」……答えは、YESでありNOだ。

 本作は厳密に言うと「ボーイズラブ」ではない。作者はBLの名手、かつ主人公はゲイカップルではあるが、発表媒体はいわゆる「一般向け」の漫画雑誌であり、主題は食生活。主人公たちの寝室事情が表立って描かれることはない。女性読者層をターゲットに、男性同士の性愛を主軸に描かれるBLとは、その点で明確に区別される。

 だが直接的な描写こそないものの、この男二人の共同生活は「この前後にめちゃくちゃセックスしてますよ」という含みを持って供されている。天ぷら蕎麦から蕎麦を抜いた「天ぬき」というメニューのように、BL漫画からセックスを抜いた作品、と言えなくもない。「BLを読んでみたいけど、セックス描写には抵抗があるなぁ」と恐れおののいている一般男性読者に対して、「BLとはどんなものかを性描写抜きに疑似体験できる」漫画だよ、という薦め方もできるだろう。

 私は小学生の頃、近所の書店で『聖闘士星矢』の二次創作やおい同人誌アンソロジーを立ち読みして以来、現在で言う腐女子カルチャーにすっかり夢中になった。原作では敵同士だったはずの男性キャラクター二人がなんだかんだと理屈をつけて人目に触れない物陰でキスやセックスをしている、そんな光景にも驚いたけれども、幼い私が最も心動かされたのはじつは、キグナス氷河(下記コミックスのカバーの人物)が公衆電話ボックスで電話をかけているというコマだ。


聖闘士星矢 NEXT DIMENSION 冥王神話 4 (少年チャンピオン・コミックス)

 原作の少年漫画にそんなシーンは全然ない。浮世離れした異次元でひたすらバトルを続ける登場人物たちは、電話連絡も電車移動もなしにいつの間にか意思疎通を交わして戦場に集結している。しかし本当は彼らだって、現代日本のどこかに寝起きして汚れた洗濯物を洗い、街中をうろついてスーパーで買い物してごはんを食べ、そして片想いの相手が受話器を取るかに一喜一憂したりもしているはずなのだ。

 大好きな男たちの、本編で描かれない「日常」をもっと読みたい。料理、掃除、洗濯、散歩、昼寝、行楽、家族との諍い、友人との交流、そして恋愛やセックス。原作者が描かない全部を知りたかった。エッチな描写は、あくまでその一要素に過ぎなかったのだ。リアルな節約自炊ものであり、ゲイの恋愛ものであり、BLとも非BLとも読める『きのう何食べた?』は、私にあの頃の興奮を思い起こさせる。私はずっと、こんな「日常」が読みたかった。

 ちなみに本作、商業誌連載で描かれない部分については作者自身が同人誌シリーズを発表しており、ケンジとシロさんの寝室事情を覗き見ることも不可能ではない。もし「天ぬき」に「蕎麦」を足したければ、各自お好みで、というわけだ。男二人の毎日の献立、交友関係の移ろいや、明かされる過去の恋愛、嫉妬と喧嘩と仲直り、その「続き」が気になる……と夢中でページをめくるあなたは、小学生の私が踏み込んだのと同じ世界の玄関口に、既に立っている。

ゲイカップルの暮らしに思いを馳せる名作

 淡々とした筆致とは裏腹に、ケンジとシロさんの穏やかな生活は、日々刻々と変化し続けている。家族が病気で倒れたり、友人に孫が生まれたり、行きつけのスーパーがなくなったり。同棲期間が長くなるにつれ、街中でデートやピクニックをして旅行に出かけ、実家への挨拶を済ませて指輪を買うまでに至る。Kindle端末でページをめくりながら、夫がまたぽつりと感想を漏らした。

 「こうして読んでみると、ゲイカップルの暮らしも、俺たちと同じなんだよねー」

 そう、同じなんだよ。仕事を終えたらスーパーで買い物をして、家に帰って好きな人とごはんを食べる。一緒に眠って、一緒に起きて、それぞれの仕事をする。二人で共に生きることの繰り返しが、喜びを二倍に増やし、悲しみを半減させる。小さな秘密を抱えたり、ヤキモチを妬いたりしながらも、滅多なことでは別れない。

 「男同士がセックスしてる漫画なんか、まるで読む気がしない」「ゲイの性事情に、君ほど熱烈な関心を寄せるのは無理」と言っていた異性愛者の夫が、こうして同性愛者の暮らしぶりに想いを馳せ、「自分とは違う」シロさんの姿に「まるで同じだ」と共感を寄せるまでになる。これを名作と呼ばずして何としよう。そう、シロさんは君のようであり、君はシロさんのようである。堅実な稼ぎ手で家計簿を管理する料理の得意なドネコ。違いはただ、一緒に暮らす相手の性別が、男か女かだけのことなのだ。

 しかしまぁ、「うちの夫、シロさんみたいなのー!」とノロケるのは、だいぶ気が引けますよね、主にヴィジュアル的な意味で……。次回、妻に比べてやたらと自己評価の高い夫のオットー氏(仮名)が、いよいよエッチな漫画を読まされます!

<次回は2月2日(金)更新予定>

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この連載について

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#夫に読ませたいBL 〜やおいの教科書を考える〜

岡田育

「ボーイズラブ」略して「BL」。それは、男と男の恋愛を描く一大ジャンル。cakesで「ハジの多い腐女子会」の司会を務める文筆家の岡田育さんは、BLを愛する腐女子であり、また夫を愛する一人の妻でもあります。しかし、岡田さんの夫はBL作...もっと読む

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コメント

squid333 無理して読ませなくても……と思いつつ、この連絡はおもしろい。 4分前 replyretweetfavorite

hiro_MtF #スマートニュース 約1時間前 replyretweetfavorite

marumi3 なんというか、正月にワシ蔵書のこれを夫が読んでたなーと→ 約1時間前 replyretweetfavorite

scantycandy わたしのバイブルですよ…何回読んでるかわからないわ。レシピとしても秀逸だし献立で見せてくれるところが最高。そして親の介護とか会社の人間関係とか淡々とすぎる日々のドラマもある。最高。 https://t.co/HQKHlz0FTK 約1時間前 replyretweetfavorite