こちらの記事と、
こちらの記事を読んだ。
読んで思った。おそらく間違ったことは書かれていない、と。人生で一番若いのは今だ。そうに違いない。しかし、同時に、ここに書かれていることは、おれには適用されないな、と思った。
おれは2つめの記事にこんなブックマークを残した。
そうだ、おれには蓄積がない。何事かを積み重ねる能力がない、資質がない、そういうことだったんだ。おれは納得した。納得するのはいいことだ。
おれが本当に双極性障害かどうかというのはわからない。わからないといっても、精神科を専門とする医師から診断され、それ用の薬を処方され、効き目もあり、自立支援医療制度の申請も通っている。とはいえ、双極性障害における日本一の権威に診断されたわけでもなければ、セカンドオピニオンを得ているわけでもない。そういう基準で「わからない」。おれは控えめな人間だ。
したがって、病気とは関係なく、おれ個人の特性によるものかもしれないのだが、ともかくおれは蓄積ができない。努力ができない、努力の積み重ねができない。エネルギーはなく、蓄積もされない。おれはそのように生まれてしまったのだし、そのように成長してしまった。もはや取り返しはつかない。少し良い習慣ができても、圧倒的な無気力感がそれを崩してしまう。おれとて少しは良い人間になりたいという思いはあるが、そんな思いは鉛のような麻痺の前では何の役にも立たない。心が沈むんじゃない、身体が動かなくなるのだ。圧倒的な絶望だ。そしておれはゼロに戻る。
そうして役に立たない人間ができあがってしまった。日々の貧困の前に計画など立てられず、良い習慣は身につかず、目の前のことをこなすだけで、あとは酒と競馬に逃げるだけの人間だ。この社会にとって負債というものだろう。いつしか責任をとって自裁しなければいけないのだろう。ただただ、目の前のことをこなして、運が良ければお給料をもらえるだけの精神疾患者。生きてる意味あんの?
そういう部分で、おれは「大人」にはなれないのだろう。永遠に子を残すことを許されない精神疾患者なのだから。双極性障害(II型)の遺伝については解明されていないところもある。しかし、もしもおれと、あるいはおれの父と同じような資質を持った人間をこの世に送り出すことは、人を一人殺すよりも残酷なことに違いない。不幸の再生産だ。
かといって、子を持たぬ家庭を持つことも許されはしないだろう。「そんなに何も覚えてなくて、なにが楽しくて生きているの?」と女に言われたことのあるおれだ。記憶も金も蓄えがない。蓄えを作れる力がない。ゆえに、社会貢献や地域コミュニティに参与する力もない。その日暮らし、糊口をしのぐ。
もし、あるとすれば単純な反応、アルコールを含ませた綿に火をつけた、そんな一瞬の光。せめて、それくらいあると言わせてくれ。
……また、単極型うつ秒や躁うつ病にはあまりみられない創造性を発揮することがある。天才とまではいかなくとも、才人にはしばしば出会う。こうした従来の疾患にはない、ある種の煌きのようなものを、双極II型障害はもっている。
そうでなくては、一発で慶應大学に合格なんかできなかっただろう(何十年前の話だ?)。目の前のことをその場しのぎでこなしてここまで生き延びてこられなかっただろう。
ただ、一瞬、一瞬。運良く持って生まれた何らかの才気の単発的な発現。わかりやすく言えば「その場しのぎ」。こればかりがおれを救い、そして苦しめる。人生の底、社会の底に着くところまで行かせない。安定飛行させるわけでもなく、超低空飛行を続ける。賽の河原で石を積んでは、すぐさま鬼に崩される。積むのはおれ、崩すのもおれ。いったいぜんたい、おれは詰んでいる。おれにはその詰将棋は解けないし、何手詰めかもわかりゃあしない。でも、詰将棋の本に載ってしまっている。それはわかる。わかっていながら、ここまで生きてきてしまった。死ぬのはたやすい。それでも死ぬのは怖い。八方塞がりだ。八方塞がって、上も下もない。タイマーが切れるまで、アルコールで精神を安寧にしておきたい。アルコールを買う金はせめてほしい。それだけだ。それだけなんだ。