私が大好きなアニメを見れなくなった理由(削除予定)

登録日 :2018/01/18 Thu 02:33:25
更新日 : 2018/01/18 Thu 16:00:02 NEW!
所要時間 :約 6 分で読めます




「私が大好きなアニメを見れなくなった理由」とはmicorun氏がpixiv上で2016年ごろに公開し、その後ツイッター上で流行った漫画である。
作者の実体験が元になっている……?
「批判は何も産まれない」というラストの台詞が有名。最近某クソ漫画及びクソアニメにパロられた
「批判は何も産まない」or「批判からは何も産まれない」の誤字じゃね?というツッコミは禁句。

ストーリー

わずか6ページのごく短い漫画である。

主人公の女性にはある好きなアニメがあっ「た」。
…そう、過去形である。今は好きではないのだ。

ある時そのアニメが映画化されることが決定した。
当時大ファンだった彼女はもちろんその映画を公開初日に見に行くことにした。
友達のX子を誘って。

彼女にとってその映画はとても満足いく出来栄えだった。心の中で「もう10回は見に行こう!」と決心するほどに。
映画終了後、彼女はX子に映画の感想を尋ねる。
するとX子は答えた。

「最悪だねありゃ」

X子に言わせると、出だしは良かったものの作画は酷いし、伏線は中途半端、典型的な「映画化することでまとまらなくなった作品」なのだと言う。

家に帰った後、主人公は考えた。

「映画……本当に楽しかったんだよね?」

後日、一人でもう一度スクリーンに足を運ぶ。やはりその映画は主人公にとっては感動できる物だった…が、
X子が非難したシーンに差し掛かると…
「あ、このシーンだ…」
急に感動が冷めてしまった。

そしてその後主人公はもう二度と映画館に向かうことはなく、熱心に集めていたそのアニメのグッズも全て売り払ってしまった。

最後は以下の台詞で締められる。

「一人でも多くの人に知ってほしい。批判は何も産まれない。それどころか、ファンにとって大切な思い出をぶち壊すということを」

流行、そして炎上…

この漫画は瞬く間に6万リツイートされるなど、大きな話題となり、作者の考えに共感できるという意見、共感できないという意見双方が集まる賛否両論の状態になった。
その様はヤフーニュースにも取り上げられたほど。

……が、作者が次に発表した作品がすさまじい火種となり、大炎上の有様となる。

なんと 「私のマンガが一瞬で100万人に読んでもらえた理由」 という怪しげな啓発本のようなタイトルの漫画を 有料で 配信するというとんでもない商法をやらかしてきたのである。
言うまでもなくファン、アンチ問わず大炎上。 そもそもその100万人という数字どこから出てきた
「批判は何も産まれない」と言っておきながら 「自分が一番批判される」 という皮肉極まりない結果に。

しかし、作者はなんと 炎上しているその様を新しい漫画にして配信する という斜め上にも程がある対応を披露。ある意味ではすさまじいタフさである。

結局「批判は何も産まれない」って正しいの?

とりあえず作者のやらかしについてはひとまず置いておいて、この台詞について考える。
一つの結論としては「正しいとも言えるし、正しくないとも言える」だろう。

肯定的意見

自分が楽しんでいるものに水を差されたら誰だって冷める。
本編の主人公のように指摘された部分が気になって素直に楽しめなくなってファンをやめてしまうこともあるだろう。
ファンが離れて行けば作品が維持できなくなるし、それはクリエイター側にとっても歓迎できない事態である。
一方批判する側もそれで何かを得たわけではない。結果的に「誰も得しない」というのは一面の事実である。

否定的意見

いや、ちょっと待て。「批判するのだって作品の楽しみ方の一つ」だろう。肯定的意見しか許さない、というのは押し付けに過ぎないのではないだろうか。
結局他人の意見に流されて楽しめなくなってしまうのなら、その程度のファンだったというだけの話で、本当のファンならアンチの意見なんて軽く流してしまうというのも一つの真理である。
また、そもそもクリエイター側としては「批判されないと何が悪かったのかわからない」のだ。もちろん道理に合わない批判なら無視すればいいが、真摯な指摘ならば次に生かすための材料にもなる。

結局のところ?

空気読め 。結論はこれではないだろうか。
例えばファンが純粋に作品の良いところを語っているところにアンチが乱入しても両方とも嫌な気分になるだけだし、
一方でアンチの集いにわざわざ割って入って「批判は何もry(」と言ったら白い眼で見られるだろう。

「批判は目にしたくない」と言うなら、そもそもそういう意見が出そうな掲示板には行かないのが無難だろう。
幸い今なら「ファンの集い」のような掲示板を探すのも容易になっている。そこだけで意見を語り合えば、否定的意見を目にして冷めることも避けられるだろう。

X子は悪かったのか?

しかし、今回のケースではリアル友人に話題を振ったら否定的意見が返って来た、という厄介なパターンである。
一応客観的な視点で見るなら、X子は主人公がそのアニメの大ファンだと知っていたのだから、水を差すことを言うな、というのは一つの意見である。
だが、作中の表現を見る限りX子は別に悪意があったわけではない。 たぶん彼女はそういう形で作品を楽しむタイプの人なのである 。ファンならこの程度の批判軽くスルー出来るだろう、と勝手に考えていたのではないだろうか。
主人公とX子は互いに作品の見方・楽しみ方が違っていただけで、 互いにそのことへの理解が足りていなかった というのが今回の問題の遠因ではないだろうか。

一つの見方としては主人公は「作品そのものを楽しみたい」のではなく「作品を見ることを共有することを楽しみたい」タイプなのではないだろうか?
だから映画鑑賞にX子を誘ったし、X子と「あの映画楽しかったねー」と「楽しかった思い出」を共有したかったのだろう、と推測できる。

一方でX子は「作品自体を楽しみたい」タイプなのだろう。彼女にとって作品は「世に出た以上批判されて当然」であり、純粋に楽しんだ人がいたとしてもそれよりは自分の感情が優先されるのである。

主人公はX子がそういうタイプのファンである理解が足りなかったし、X子は主人公がそういうタイプのファンである理解が足りなかった 。故に起きたすれ違いだったのである。

主人公はSNSなどが流行り始めたことで徐々に増えてきた「新しいタイプの鑑賞者」でX子は「古いタイプの鑑賞者」と言えるかもしれない。

最後に…

この言葉が 絶対に間違っている シチュエーションが存在する。
それはクリエイターが消費者からの批判に対し 批判は何も産まれない と言ってしまうパターンである。
消費者同士の語り合いであれば、ファンとアンチの住み分け問題と言えるが、製作者の側が否定的意見に対し耳を閉ざしてしまったのではそれ以上その作品の発展は望めない。
一度世に出した以上は批判されるのは当たり前 。ファンならそれから目を背けて純粋に楽しむのもいいかもしれない。だが、クリエイターならば送り出した作品には必ず責任を持たなければならない。 例え大炎上しようとも

このクリエイター対消費者の構図をまとめる良い言葉がエスパー魔美の「くたばれ批評家」に書かれているパパのセリフである。
「公表された作品についてはみる人全部が自由に批評する権利をもつ。どんなにこき下ろされても妨げることはできないんだ」
「それが嫌なら誰にも見せないことだ」
「批評家に批評の権利があれば、僕にも怒る権利がある。あいつはけなした、僕は怒った。それでこの一件はおしまい!」


追記・修正は自分が好きな作品は自分の言葉で語れる方にお願いします。


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