「社会科学の優れた論文を書くためには、とにかく教養がなくてはならない。本を主観で丁寧に読んでいたら一生かかっても読みきれない。自分が求めている文章がないか探しながら、読書していくこと。そして他人の説を参照しながら自説を組み立てていくこと」
横浜国立大学で卒論を指導してくれた有江大介教授がそんなことを言ってました。私は最近、ニュースを書くとき、社会科学の論文を書くつもりで書いています。教養とは自分が主張したい内容を補完してくれるものであり、先人の知識の上に新たなる説が構築されるものでもあります。
他者の説を参照しながら記事を書く
永江一石さんにしてもちきりんさんにしても不破雷蔵さんにしても、データを多用しながら自説を組み立てていきますよね。優れたWebメディアの記事にはデータがつきものです。一方で、読む価値がないのが根拠のないオピニオン。「オピニオンを書くのはインプットを怠っている証拠」みたいなことをマーケッターのマナブさんも言っていましたが、これはまさにおっしゃる通りで、オピニオンばかり書いているブログは怠慢の証拠です。
私もこのブログで実践していますが、「○○という本で△△さんが、「□□」と主張していました」というのは記事に説得力を出すことができます。そのためには多少なりとも多読が必要で、誰がこういってた、誰の主張がこうだった、ということを常にキャッチアップしていかなければなりません。基礎教養ですね。
その投稿を読んで自分の心に刺さったものは何か、心にとどめておく必要があります。本来ならEvernoteにピックするのが良いのでしょうが、私はその手間を怠っているため本で印象に残った言葉は記憶に頼っています。
国はデータばっかりつくって意味ないと思っていたけれど
私は独立行政法人で働いていましたが、ほんとうに彼ら正職員の仕事に意味はありません。時間をかけて丁寧に、何日も何日もかけてデータを練り上げてWebに公表しています。「丁寧に仕事をすれば質が高いと考えるのは間違い」とはホリエモンの主張。たしかにその通りなのです。
その一方で官公庁のデータは説得力を出すのに効果的で、私は積極的に使っています。官公庁のデータは恣意的な側面が少なく、営利目的ではないのでクライアントも信頼してくれて、記事の根拠になります。
しかし官公庁のデータ、識者の指摘によればデータ収集方法が誤っている場合もあるらしいのですが、そこまでいくと不可抗力かなと。
教養をつける方法は周辺知識から関心をブーストしていくこと
科学と人文の間に、社会科学は存在します。社会を科学するわけですからまず教養がなくてはならず、また同時に歴史も知っていなければなりません。私の場合は卒論指導がほんとうに厳しく、アリストテレス(not プラトン)、聖書、少し飛んで啓蒙思想、マックス・ウェーバーから近代経済学、といった社会科学史の本は相当読んできました。
そんななかで、ジェレミ・ベンサムは死刑制度に反対し、デイヴィット・ヒュームは共感を徳としそれをうけてアダム・スミスは道徳感情論をエモく書き・・・といった思想史が頭のなかにそこそこ入っています。
しかしただ乱読するだけでは意味がないのですね、冒頭の有江教授の指摘通り、自説を組み立てる際に参照していくものがデータであり先人の言葉です。ただデータを紹介して人の言葉を提供しているだけでは、それはたんなる紹介記事であって社会科学的な記事とはいえないのではないでしょうか。
教養・教養っていったって、難しく考える必要はないのですよ、たとえば、プラトンの学校であるアカデメイアは学費が無料だったけれどもアリストテレスのリュケイオンは学費が有料だった、それを受けてアリストテレスは「プラトンはバカ。数字も計算できない」というメモを残しているのです。面白い。こうした周辺知識からも、アリストテレスとプラトンが師弟関係でなく、思想的に対立していることがわかるのではないでしょうか。
京大卒ニートのphaさんによる『知の整理術』にも同様のことが書かれています。興味のある周辺事情から本質に迫っていくこと。そしてビジュアルやアナログを使ってインプットしていくこと。私も本はほとんど紙の本で読んでいます。メルカリで売れるというのもありますが、Kindleではなかなか頭に入らないので・・・。
データに過激なオピニオンがつけば最強
そしてデータを用いながらさらに常識に反するようなエッジの効いた主張を行えば、一流の炎上ブロガーになれるのでしょうが、私にはそんなエネルギーはありません。そもそもつまらない人間なので、変わったことがいえないんですよ。よって粛々と記事を書くのみです。
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