科学理論、例えば一般相対性理論や不確定性原理などの理論を勉強してみると、とても面白いし、体ごとのめり込むだけの力をヒシヒシと感じます。個人的にはこの手の話が大好物で、若い時は「サイエンス」日本語版などを買ってきては時間が経つ事も忘れて読み耽っていました。 現在も好物のままではありますけど、先日ふと思う事がありまして、若干その気持ちに小さな疑問符が出現する事になりました。
「こんな読み方で果たしていいのだろうか?」と。
宇宙の成り立ちや銀河の成長の物語は飽きが来ません。それは科学全般の読み物に共通する自分の中での思いです。
でも言い方は変かもしれませんが、そういう理論・理屈の話は「自分とは関係の無い無責任な物語」、だからそう思えるようなのです。自分の生活に全く関わりの無い世界の話なので、だから純粋に楽しめるみたいなのです。小説もその類いかもしれません。SF小説などは典型的な「逃避小説」なので、それははっきり言えるようです。
若し自分の人生に直接、間接に関わりのある話なら、多分こんな純粋性のある楽しみ方はできない気がします。まあ、それがそのままストレス解消やホッとした時間の楽しみとなる訳ですので、人間にとっては大事な事ではあります。
しかし、それとは別次元の話として、直接自分の人生に関連する話として考えると、若干の注意が必要となってくるのではと考えるのです。
以前あるアンチ学会系のブログに(瞬間的にですけど)関わった事があります。そこは日蓮大聖人の仏法理論、言葉が飛び交っている場所でした。ブログ管理人がもちろん中心になって盛んに教学理論らしいものを展開しています。
「この前、東大生に対して法論して勝った(とかどうとか)」
「さすが管理人さんはすごい等」
「以前来た学会員はどうのこうのだったけど、結局梨の礫だな」等々の話の数々。
一見清新な仏法の討議場所の様に感じますが、詳細に全体を読んでみると、この場所は大聖人の教学の表層を軽く触っているだけの単なる井戸端会議場だったと言う事が分かりました。
大聖人は鎌倉期当時、邪教の網に束縛されて不幸の海に漂流する民衆達を解放する為に、死をも恐れずに邪宗教共と闘われました。三大秘法の法華経を元にして安穏な社会を作る作業を全身全霊を込めてされていたのです。
邪宗との法論や議論をし続けたのは「その目的」(邪宗の排除、民衆の救済)の為、只その一点でした。当たり前の話ですが、「遊戯の論議」など考えもしていなかったはずです。法論の内部には常に「人間の存在」がありました。大聖人にとっての宗教論議に人間の存在を外した話は一つもありません。
さて、自分の読書の仕方を反省すると、「純粋科学の勉強」だけをやっていた気がしています。宇宙論に人間が出てくると面倒い話になる、と言う事も言えますでしょうけど、逆に言うと人間の為の宇宙論であるはずなら、人間が出て来ない話とは果たして誰の為の科学なのでしょう?
そんな思いが心の中に芽生え始めたのです。これは自分にとっては可成り画期的な読書方法の転換です。
そんな読書の発想転換の目で上記のブログの在り方を見てみると、恐ろしい事が発見出来ました。ブログの中に「人影が見えない」のです。人間が全く居ない場所で文字だけが飛び回っているのです。
この「事実」、とても怖い事です。やっている本人達は全く感じていない事でしょう。無人のバーチャル空間で自分が誰と話しているのか、また誰の事を話しているのか、を。
確かにその空間での出来事は彼らにとっては面白い事だと想像します。自分には関係の一切無い話ばかりやっていればいいですから。好き勝手に大聖人を弄(もてあそ)べもします。池田先生より遥かに偉くなった気分にも、大いに浸れます。
でも、気持ちの悪い世界です。幽霊がキーボードを打ち続けているような、そんな錯覚に陥ります。
彼等はあの現実感の無い仮想空間で、一体何をやっているつもりなのでしょうか…。
誰か知っている人が居たら、是非教えて欲しい事です。
こんにちは
バーチャル空間で対話?
嘘でも良いですよ
目的は管理人様の文章力、説得力、会話力みたいなものに興味有ります。
閲覧1位
何か見たいものが有るのだと思います。
信仰するだけなら本人のやる気が有れば出来ますが、活動は人間相手です。
色んな文章読みます。
内容に共感できなくても我慢します。
自分の考えを代弁して欲しいと思ってませんから
駄目だしの管理人様と私とは家庭事情が違います
miuさんへ
“ 管理人の文章力、説得力、会話力“に惹かれると言う話、”(訪問者達は)何かみたい物がある”、と言うお話し、成る程と感心しました。あそこにはもう行くつもりは有りませんので記憶だけを頼りにしますけど、確かに仰る通りのブログかもしれません。第一位と言うのは第三者的に考えると、様々な要素が絡んで、それらが重なった結果の事なんですね。
でも惜しむらくは、そう言う長所を創価学会の発展の為に使って欲しいですね。
管理人の彼は本当はどういう原因であんな感じになったんでしょうか…。若干興味のある事柄ではあります。
兎も角、有難うございます。
他人の事をあれこれ言うのは趣味が悪いですが、一般論として聞いて下さい。
駄目だしさんは、池田先生の話しかしない会合、発言、方針に納得しかていたようです。
宗門を破門されたと言う事は本尊は創価には有りません。
大聖人の精神を受け継いでいます。
コピー本尊で信仰する気持ちになれない。
大聖人の御精神より大御本尊で信仰したいと言う事です。
御精神が有れば良いなら仏壇不要、東の空を向いて勤行でも良いと言うことになります。それが嫌と言う事です。
言ってることは納得できます。
池田先生の話しかしないなら池田大作創価学会ですよね
私も友達も信仰だけをしたくて法華講に行きました。
御書と題目と御寺に行き、月1大石寺に行くようです。
創価は日蓮仏法池田先生の哲学になってます。
私は争いません。
池田先生の哲学が不要な方は法華講に行かれたら良いと思ってます。
パソコン無いので書いた文字が確認できず誤字脱字すみません。
私は学会員です。
miuさんへ
あの管理人は本尊論を盛んに叫んでいました。「血脈相承」の法主が中心で、要するに法主に嫌われると、その組織はその時点で「邪教」と化す、と言う理論です。御本尊もその時点で「コピペ本尊」になってしまう。故に功徳は一切発生しない…。
そんな不合理な話って、あるんでしょうか?
現在のアフリカや日本での昭和30年~50年の学会草創期、御本尊そのものを持たない所謂「会友」の人々が功徳を一杯頂いています(頂いていました)。御本尊を持たない人々の功徳です。宗門の決めつけている邪教の学会共にそれぞれ功徳を実際に頂いています。両方同じ様な状況です。
理屈が合わない気がしますけど、どう思われますか?邪教には功徳はでないし、御本尊の無い人にも功徳は現れないはずなんですけどね…。
創価学会は三代会長が構築したと言う事は間違いの無い事実です。現在は勿論池田先生の時代です。どんな組織でもトップの人の指導を受け続ける事って、普通の事のように思えますけど、異常なんでしょうか学会って?私は世間の色々な組織と同じく普通の事だと思っていますけど。
宗門でも、法主讃仰は実際に行われています。先生と法主、何所に違いがあるのでしょう。法主は仰ぎ、先生は駄目。ちょっと不公平ですね。
余りにも池田先生を嫌いすぎです。いい事も嫌な事も全部一緒くたに嫌っています。大人の行為とはとても言えません。
いい事、悪い事、その立て分けが一切出来ていない宗門系らしい彼らの言葉です。
私は、あの管理人さんにはそんな気持ちの悪さを感じています。
>彼等はあの現実感の無い仮想空間で、一体何をやっているつもりなのでしょうか
相手を言い負かすことで自分の存在意義を見出そうとしているわけです。
心理学的には他者に対し自己の「承認欲求」を満たしているといえますね。
ブログや掲示板は、まず管理者に圧倒的権限があり参加者は多くが追従的な
存在でしかありません。
友好的な参加者から褒めてもらえたり容易に自己の承認欲求を満たして
くれるでしょう。
しかし、反抗的な参加者から批判されたりすることも大前提として
批判される自己としての存在を認めてくれている点では変わりがない
はずなのですが、対人スキルの低いひとは自己の存在が「拒否されている」
と感じストレスになるため、軽減しようと感情をぶつけ逃避しようとします。
かんたんにいえば「個」としての自分が確立できていない人ほど
攻撃的(逃避)になりやすいのですね。
monlingenさんのアンチさんに対する
「幽霊がキーボードを打ち続けているような、そんな錯覚に陥ります」
という気持ちは理解できます。
あまりにも同じことを繰り返されると人間味が感じられないのですよね。
拙は彼等との対論で感じた事は、本論に詰まると「抽象的なテンプレ」に
走り、とにかく学会を中傷することで、見かけ上の優位を演出しようと
することです。
むしろそういった 幼児退行的 反応にも拙は相手の人間味を感じて
しまいます(笑)
ある学会員さんの掲示板で、ネット上での対法華講員との討論は無意味で
あると結論づけて、学会員さんにウケそうな(批判されないような)内容
ばかりをアップされている方がおられて、数ヶ月間様々な意見交換をさせて
いただきました。
法華講員の討論が無意味で自分のやっていることが素晴らしいことだと
思い込もうとしているのではないか。
また、自分が褒められるために「創価学会」を利用してコメントを
集めようとしているだけではないのか等々、耳障りなことも書かせて
いただきましたし、管理人さんからも辛辣なコメントをいただいたこと
もあります。
ですが、拙は 相手は無価値で自分だけに価値がある という独善的
発想こそ、自分自身の未来(成長)を閉ざす根本的原因ではないのかと
相手に感じていただきたかったのです。
話を戻しますが、monlingenさんも多くの学会員さんが運営するブログが
聖教の無断転載や、池田先生の著作の貼り付け、個人的な学会活動
のネット自慢など「抽象的なテンプレ」に終始されていることに対し
、学会員さん以外の方からは 興味を持たれることはまずない と
感じられているのではないでしょうか(笑)
あべひさんへ
「彼ら」の幼児性は嫌になる程感じました。その実感はあそこで実際にコメントを交わした人間でないと、到底理解不能の事かもしれません。バケツを引っ繰り返した如き土砂降りの中で、100均の折り畳み傘を差して歩くような、とてもウザったい気持ちに襲われ続けた数週間でした。
彼らの個々人はほとんど理論らしき話はしないのですけど、多勢に無勢の怖さって半端じゃないです。二度と関わりたく無いですね、あんな世界には。
創価利用の討論ブログってある(あった?)んですね。個人的にはちょっと興味の湧く場所です。でも、自分自身の意見を書いていかないと何処かで化けの皮は剥がれるはずです。そんな運用って面白いのでしょうか?何だか管理人さんの精神が辛そうに思えるブログです。また、そんな人とのコメントの遣り取りって、ちょっとお互いに疲れそうです。
学会著作の文章のコピペブログって多いように感じます。著作権とかは兎も角、個人的には自分でその手のブログの運用はやろうとは一切思いません。何故なら、ブログってある意味「個人の気持ちの噴出(又は表出)」だと思いますので、そんな記事ばかり出して一体何が面白いのか、とても疑問に思えます。
下手な文章でも自分自身の思いの丈を出している記事を読みたいですね。(管理人から言うと、書きたいですね)下らない内容だと言われようと、自分の意見なら堂々と表に出すべきです。その中の一部として”学会(先生)の言葉として云々“という感じであれば、私は凄く素敵な記事に感じます。
そう言う意味からすると返って「アンチ学会系ブログ」の方が個人の意見の表出的なブログ運用をしています。あんな感じの「学会系」ブログが増えてくると、とっても楽しい気分に浸れそうです。
まあそれは兎も角、やはりブログは「自分自身の記事」を載せる事が本来の在り方じゃないでしょうか?
以前アンチのある方がネットからの色々な記事や写真を、urlそのままコピペをしてコメントとして送ってくる人が居ましたけど、学会のコピペブログって、そんな感じの鬱陶しさを感じます。
中々自分の考えの記事って書く事は難しい事も確かですけど、やはり「ブログ運用」という作業は、その難しい仕事を苦労しながらやってナンボのものだとも言えるのではと思っています。
このブログ記事もそんな風に流れていないか、常に自分を監視しながらやっていかないと駄目なんだろうなと思っています。
>創価利用の討論ブログってある
厳しく分類すれば、学会員である自分を全面的にアピールしているブログは
創価利用だということができるかとおもいます。
たとえば、無断転載された記事に「イイネ」をつけてもブログ主の個人の評価
があがるだけで、創価学会のイメージアップや広宣流布につながっていませんよね(笑)
個人的な利益のために創価学会の看板を利用しているのは組織利用(学会利用)だと
いう判断をさせていただいております。
>自分自身の意見を書いていかないと何処かで化けの皮は剥がれる
むずかしいですね。
ある掲示板では管理人は自分自身の活動報告をするばかりで、掲示板内での
アンチの暗躍は参加者まかせにしていましたし
またある掲示板では、管理者はコメントすることもなく討論の場を提供して
いるというだけの所もありました。
>そんな記事ばかり出して一体何が面白いのか、とても疑問に思えます。
拙がブログの運営者に著作権に関して質問をしたり記事にしたりすると
「何が悪いのか」と開き直られる方も多いです。
無断転載の記事であっても必ず「良い評価」をされるかたがいるので
自分は学会員のために役立っていると勘違いされるのでしょう。
もっとひどい場合は無断転載を「現代の書写行」と位置づけて
広宣流布の役に立っていると思い込んでいる場合がありました。
いずれにしても、権利関係に疎い方からの評価があることで
一定の満足感を得ているのでしょう。
>「アンチ学会系ブログ」の方が個人の意見の表出的なブログ運用をしています
アンチ系さんのブログは個人の気持ちを赤裸々に語っている
ようにみせかけているので、前述の「コピペ系」学会ブログよりも
リアル感があって興味深いのはたしかです。
ただし錯誤をしているか、意図的に明らかな嘘を混ぜていますね。
よくあるのが「元バリ活」という肩書です。
書いている内容を精査すると、ごく一般的な学会活動すら認識
できず「バリ活」ではないであろうことがよくわかります。
そもそも、「俺バリ活なんですよ」なんて自己紹介するリアル学会員は
いませんよね(笑)
それとおなじで現実社会において毎日、聖教新聞の記事を会合以外の
公衆の面前で読んだり、活動報告する人もいません。
毎日自分のブログで無断転載を繰り返している人は、会館前で聖教新聞
を貼った立て看板を架け替えにきている人に拙はみえます。
つまり、アンチさん自称学会員さんの別なく「学会員です(でした)」
と学会員さんに対しアピールをするためのコピペであり、アンチ記事で
あるといえるでしょう。
>やはり「ブログ運用」という作業は、その難しい仕事を苦労しながら
>やってナンボのものだと
拙は文章だけではなく「絵」が書ける人は、それだけで人を引きつけるなにかが
あると思います。
ストーリー展開のある連続の「絵」はマンガですし、一般の方からも共感を得られる
内容は高い評価を得られますね。
かつて、学会員論客の方がネットには多数おられましたが現在では「学会色」を
ださずに趣味のほうでいろんな方とコミュニケーションされているかたも多いです。
芸術部の方やスポーツ関係の方もそうですが、会合などでは「学会員むけ」の話を
されますが仕事の時にいちいち「学会員である」ことを殊更アピールされませんよね。
そういった謙虚さって大事だとおもいます。
あべひさんへ
個人的な感想というか思いですけど、「ブログ」運用形態ってそれこそ千差万別状態で正常だと言えます。創価学会系だけに絞ってみても正否様々があるのが真面な在り方なのでしょう。その或る形態のブログを個人的な好悪で批判してみても、若しかして駄目なのかもしれませんね。「桜梅桃李」の原理から言うとそれも全然普通のものだと言えるのでしょうか。
「学会利用」って、学会員から見ると「糞ブログ!」に感じますけど、星の数程あるブログから見ると普通のブログでしか無さそうです。一学会員が自分の頭を絞りながら運用しているものにしても様々な形態があります。自分自身の考えはこうだとしても、彼の考えはあんな感じなので、仕方ないと言うしかないのかも。これこそ好悪の問題になってきます。
このブログもかなりの変遷を経てきました。ほんの初めは普通の何処にでもある「日記ブログ」に、趣味的に「アンチ学会」攻撃記事を入れただけのものでしたけど、途中色々入れ込んでかなり複雑雑多な「何でもブログ」に変貌を遂げて、つい最近それをスリム化したばかりです。
今の形態は結構気に入っています。すっきりして記事も探し易くなった感じです(と思ってます…)。個人的には余分なものは要らない気がしていますので。
まあ、そんなこんなの雑多なコメントになりましたけど、何とか元気にやり続けていきたいと考えています (^^ )。