■賢い親がしている、子どもを勉強好きにする「声かけ」とは?
▼C:「よく頑張っていた結果ね」の場合
では、この場合はどうでしょうか。100点そのものを褒めるより、テストまでの期間の子どもの取り組みを認めて“価値付ける”声かけです。
似た表現のバリエーションは次のようなものがあります。
「普段からよく練習したからだね」
「○○さんがよく教えてくれて、それを素直に受けた結果が出たね」
「前回の反省を生かしたからだね」
これらの声かけの最大のメリットは、「たとえ次が100点でない場合でも成長につなげられる」ということです。仮に、テストの結果が芳しくなかった場合でも、子ども自身が先の例の逆を自然と考えるようになります。
「普段から練習をしなかったからかな」
「せっかく教えてくれたことを素直に守らなかったからかも」
「前回の反省をそのままにしたからだな」
つまり、子どもが勉強の過程そのものに価値を置き、どのような結果もプラスな方向に生かせるようになるのです。
声かけとしては、Cが正解ですが、AやBと組み合わせても構いません。AとBは不正解ではなく、Cの「過程を認める声かけ」を入れることが重要なポイントなのです。
子どもが勉強好きになる教室は「過程主義」
この「過程を認める声かけ」の原則は、学校現場でも生かしています。
たとえば、授業の際、仮にある生徒の勉強の理解が正しくない場合でも、それを受け入れます。なぜなら、「結果主義」ではなく「過程主義」だからです。教師や他の同級生には多様な意見を大切にする“文化”があるのです。
だから「どうして○○君はそう考えたのか」と周囲も考え、教え合う雰囲気や認め合う雰囲気が醸成されます。そうした雰囲気だと、間違った子も「間違ってもいいんだ」「勉強ってなんとなく楽しい」という気持ちに変わっていくのです。
逆に、結果主義がはびこる教室では、おちおち間違えることもできません。ますます萎縮して、勉強へのモチベーションは低くなるでしょう。
さらに、ここで強調したいのは、「教室では、間違えていい」と考える子どもが多数いる教室の背後には、同じように「家では、間違えてもいい」と考える親がいるということです。そうした親は「子育てにも正解はない」というおおらかさがあるのではないでしょうか。だから、最初から「100%覚え、100%答える」という完璧主義ではありません。間違いは学び、という寛容な姿勢がそなわっているのです。
■100点満点を求める親はいつも「他人と比べる」
子どもが幼い頃は、「あんよが上手」という声かけで構わないのです。結果主義でいい。子どもにとって、できるようになることを褒めてくれた、またそれ以上に、自分を見てくれたという喜びを感じます。
しかし、この「○○ができるからすごい」をいつまでも続けていると、そういう価値観を無意識に植え付けることになります。できるからすごいのではなく、子どもの頑張り、存在、行為そのものを普段から認める。だからこそ、結果がうまくいったときに「おめでとう」と言えますし、うまくいかなくても「頑張ったね」と言えるのです。
この「できる」「成功する」への親の一方的な価値付けは、わが子が幼い頃から見てとれます。わが子がなかなか歩くようにならなくて、またはしゃべるようにならなくて、不安になる親は多いものです(気持ちは痛いほどわかります。何か問題を抱えているのではないかと、不安になるものです)。逆に、少し早く何かができるわが子に、得意になる親も少なくありません。
ただ気になるのは、両者とも、比較対象が「他人」であることです。その子自身ではないのです。そもそも、それぞれが違っていい存在の人間が、みんな一律に同じように成長していくのはむしろ不自然です。兄弟すらまったく異なる成長曲線を描くものです。にもかかわらず、親は頭でわかっていても、比べてしまうものかもしれません。
大事なのは、わが子の頑張りをどれくらい観察できているかです。動作が遅いなりに頑張るわが子を認めるのは、忍耐がいります。「認」という言葉は、「言」を「忍」ぶことです。親はつい望む結果を子に求めてしまいます。でも、そこで「忍」ぶことができるか。どんな言葉を発するかによって真価が問われるのです。
子どもは、子どもなりにいつでも「頑張って」います。どんな結果でも、認めてあげたいものです。登山は、登る時ではなく、下りる時に事故が起きると言います。だから、良い結果が出た時こそ、取り扱いに注意しましょう。また、望む結果に至らなかった時こそ、成長の糧にしましょう。
過程を大切にするという価値付けは、大人が子どもにしてあげられる最高のプレゼントです。
(国立大学教育学部付属小学校教諭 松尾 英明)