1月17日は阪神・淡路大震災発生の日。今日であれから23年が経ちました。
まずは、震災でお亡くなりになった方々のご冥福をお祈りしたいと思います。
ブログサーフィンをしていると、今日はやはりそれ関連の記事が多くなっているように感じます。
はてなブログでも、このように当時の思い出を語る方もいます。
私は生まれも育ちも大阪ではありますが、実は阪神・淡路大震災は体験しておりません。
実はまだ生まれてなかった・・・ゲフンゲフン、当時は大阪にいなかったことが理由。
いや、厳密に言うと日本にすらいなかったのです。
震災の記憶は様々な人がアップしていますが、私は外国からという少し違う視点からの話を。
BEのぶ在中国
1995年の震災当時、私は東シナ海の向こう側、中国は上海に留学しておりました。
今でこそ上海はアジア有数の大都会ですが、私が留学していた当時は経済成長する直前、寸前でした。当時の上海を一言で表現すると、「ザ・グレート田舎」。
テフロン加工のフライパン一つ買うのに街中を探し回り、やっと見つけたかと思ったら、そこはサービス精神マイナス150点の悪名高き国営商店。
現物が目の前にあるのに、
「没有!」
(※メイヨウ。「ない」という意味)
を連発する全く売る気なしの店員を脅したりなだめたり、モノ一つ買うにも一苦労な時代でした。
しかしながら、旧日本軍が作ったトーチカが、上海事変当時の銃痕が残った状態で放置されていたり、西洋もどきの町並みが、「魔都」と呼ばれた雰囲気ごと残っていた、古き良き上海最後の時代でした。24年経った今、ええもん見させてもらったなと。
今の上海なんぞ、発展して便利にこそなったけれど非常に下らん。
留学生ライフは人によって様々ですが、私のスタイルは「書を捨てよ、街へ出よ」。
留学生と聞けば響きは良いですが、授業は午前中のみ。午後はたちまち暇人と化します。
その午後をどう使うか。そこに留学生の個性や、留学に対する意気込みなどが出てくると言っても過言ではありません。
私の場合、中国語鍛錬のために市井の中国人と戯れるのが、午後の楽しみでした。
中国にいながら、不潔だなんだと中国人と一切接触しない留学生もいました。そもそも潔癖症が中国に来るって、国を間違えてんちゃうのんと。そんな彼らには中国人みたいと蔑みの目で見られていましたが、私は一向にお構いなし。おかげで、中国人がどの場面で如何に考えるのかが分かるようになりました。
もう一つのモットーは、他の大学の日本人留学生とのパイプを作ることでした。
幸か不幸か、私が留学していた大学は同世代が多く、高校の延長気分でワイワイやるにはちょうど良い。が、視野を広げるという点では、どうしてもFacebookのような内輪だけのリア充アピールとなり、世界が広がらない。これなら日本で大学行ってるのと変わらないじゃないか。
私はそれが肌に合わず、他の大学の留学生寮にノーアポ殴り込みをしていました。私も暇人なら向こうも暇人。なんか変な奴が来たから暇つぶしにちょうどいいと、意外に相手をしてくれました。
1995年1月16日、地震発生の1日前、私はクラスメート数人を連れ、他大学の日本人留学生と合同飲み会をしていました。
いくら物価が安かった中国といっても、留学生なので金はない。
街角の小さな餐庁(食堂)でチャーハンと焼きそばを食らい、安くて不味い中国ビールで乾杯。
たらふく飲み食いして当時は一人250円くらいだったから、今の上海の物価を考えると信じられないほどの安さでした。
ベロンベロンにできあがった我々は、街灯もない上海の小道で歌を歌いながら怪気炎を上げていました。
以前、旧制高校生が肩を組んで街を行進する写真を掲載しました。
旧制台北高等学校物語ー第2話【昭和考古学】 - 昭和考古学とブログエッセイの旅へ
まさにこんな感じだったのですが、私当時20歳。思えば旧制高校生と同世代の頃、同じことやってるやんと微笑ましく思いました。
震災当日
私はそのまま大学の寮に帰り、酔っ払ったまま寝入ってしまったのですが、翌日の朝、ドアの外の騒々しさと共に目覚めました。
なんの騒ぎやと聞いてみると、関西で地震が起こった「らしい」とのこと。あくまで「らしい」レベルの真偽不明のウワサだったのですが、これが私が聞いた阪神・淡路大震災の第一報でした。
うちの大学は日本人留学生の比率が高く、さらに何故か関西人が多いことで、上海の日本人社会では知る人ぞ知る存在でした。中国語はマスターできなかったけど、大阪弁はマスターしたというジョークが出てくるほどでした。
その分、地震によるパニックは相当なものでした。電話も不通となり、留学生のほとんどが家族と連絡が取れない状態になったのだから。
当時は、当然インターネットなど存在しません。
日本の情報はテレビ・ラジオとなるのですが、報道の自由がない中国の官製メディアはフィルタが必ずかかり、アテになりません。
ダイレクトに情報を入手する大きな手段が、短波ラジオでした。
ネット世代には想像もできないと思いますが、当時の海外在住に短波ラジオは必須アイテムでした。
NHKが海外在住者向けに電波を飛ばしていたのですが(※今のNHK WORLD)、昔は雑音の向こうからかすかに聞こえる日本語に、かじりつくように聞いていたものです。それほど日本の情報に飢えていたのです。
日系ホテルのロビーにあった数日遅れの新聞をマメに読みに行く人もいれば、朝日新聞の支社や上海総領事館とコネを作り、新聞を読ませてもらっていた猛者もいました。
海外にいると、こんな情報音痴になったこともあります。
震災前年の1994年は、野球界に突然現れたイチローが、安打数日本記録を打ち立てた年でもありました。今でも現役のイチローですが、この時は事実上の一年生だったのです。
その後日本に一時帰国した際、電車の広告・街のポスター・雑誌の特集、右を向いても左を向いてもイチロー。
この時点でイチローはスポーツ界のスーパースターでした。
しかし私の反応は、
「この人誰?イチロー?知らんわそんな奴」
友人は唖然。お前今をときめくイチローを知らんのかと。というか、イチローを知らん日本人がこの世にいたとは・・・という顔をしていました。
ネットの普及で死語になりつつありますが、これを昔は「浦島太郎(症候群)」と呼んでいました。
103円を握りしめてコンビニでジュースを買いに行くと、いつの間にか消費税が5%になって2円不足で買えずとか、他にも「浦島太郎」な笑い話がありましたが、敢えてこうなることも昔の海外在住の楽しみでした。
話をもとに戻します。
1994年1月17日のNHK短波放送は、アナウンサーの鬼気迫る声が、スピーカーからずっと流れていました。
アナウンサーは、担々麺ならぬ「淡々調」という、感情を込めず平坦に原稿を読む練習を徹底的に行います。「声優がニュース原稿を読むとどうなるか」という試みを、以前テレビでやっていたのですが、アナウンサーの真っ平らな調子もプロの技なんだと。
そんなアナウンサーが、声が裏返るほど感情を込めて話していたのです。
次々と震災の状況報告がスピーカーから流れるのですが、不安のあまり泣き出す女の子や、黙って目をつむっている老年留学生など、ラジオを聞く人々の反応は様々でした。
何にしても、外国にいる我々は何もできません。ただ家族・親戚・友人知人の無事を祈るのみ。
震災当日の動きは、少なくとも覚えているのはこれだけ。とにかく短波ラジオを聞いていたこと、不安でじっとしてられなかったことだけが記憶に残っています。
震災翌日の怪情報
翌日18日になると、かなり情報が入ってくるようになりました。
その中には今思えばとんでもないガセネタも入ってきました。
たとえば、こんな情報も入ってきました。
1994年9月に開港した関西空港は、まだオープン4ヶ月の赤ちゃん空港でした。そんな新空港が使えなくなったなんて・・・とまたパニック。
海に人工の島を作り、橋を掛ける空港は世界でもレアな例なので、全くありえないと言えばウソとなる。
さらに情報が入ってきました。
「いや、連絡橋じゃなくて関空そのものが水没したらしいぞ!」
冷静に聞けば、そんなアホな的なデマです。ところが、情報が少なく冷静さを失っていた我々にとっては、そんな情報でも飛びつきたい心理だったと思います。
こういうとんでもレベルの怪情報は、地震などの危機の度に流れるようです。
約100年前の関東大震災の時も、伊豆大島が沈んだ、三浦半島が沈んだ、津波で関東平野の住民が全滅した、朝鮮人が井戸に毒を投げ込んだなどの流言飛語が飛び交っていたそうですが、たった23年前の阪神・淡路大震災、それも海外で同じことが起こっていました。人間の中身は進化しているのか、疑問符をつけたくなります。
関空が沈んだ、俺らはどないして帰国したらええねんとパニックになった中、伊丹空港はどうかと。しかし、伊丹空港もターミナルが崩壊して使えないという、ソース不明の情報が。
おそらくラジオで阪急の伊丹駅が崩壊したというニュースは流れていたので、情報が錯綜して「伊丹駅の駅舎が崩壊→伊丹空港のターミナルが崩壊」となったのでしょう。
もっともこれらの噂は、この次の日に上海国際空港(浦東空港は当時なく、真逆の虹橋の方)に直接確認しに行った猛者が、
「なんや、関空まで飛行機飛んでるやん!」
と否定し、1日で立ち消えとなりました。
初めて見た映像
ラジオとデマ(?)でしか情報が入らなかった震災の状況に、初めて映像がプラスされたのは、記憶だと18日の夜の地元ニュースでした。
情報が欲しくて17日以降は24時間テレビつけっぱなしにして待っていたのに、とにかく放送がめちゃくちゃ遅かったことだけは覚えています。
その映像は、我々が想像していた以上の惨事でした。
ブラウン管から見える神戸は火に包まれ、夜か早朝か暗闇と赤い炎しか見えない街。さらに崩壊したビルに同方向に倒れた高速道路。すべて我々が初めて見る大地震の威力でした。それも、どういうチョイスなのか悲惨な映像ばかり流す中国も中国。
中国人は、本人たちに自覚症状はないと思いますが、どこかドS変態的なところがある、というのが私の持論です。
中国は、処刑方法のバラエティの豊かさはダントツ世界一。それはそれは様々な処刑方法があります。しかも、聞くも書くもおぞましいような、相手に長時間苦痛を与えるものが多く、打ち首や磔など一気に事を行う日本とは明らかに真逆です。対象を叩きもがき苦しむのを愉しみ、悲鳴と絶叫を肴に酒を飲む。それがいわゆるチャイナリズム。
震災時の報道の仕方も、少しドS的なところが垣間見えたのは、果たして気のせいか。
神戸市または阪神間(芦屋市や西宮市など)に実家がある留学生は、覚えているだけで5~6人はいたのですが、彼らは燃えて崩れた神戸を見てどう感じたのでしょうか。
その年の年末、留学先を南の広東省広州に変えていた私は、香港のテレビで年末の重大出来事の番組を見ていました。その中で、香港人がアンケートで選ぶ「1995年重大事件」の2位に阪神・淡路大震災がランクイン。ちなみに1位は「地下鉄サリン事件」。
台湾に隠れてあまり知られていませんが、香港人の日本に対する関心の高さも台湾顔負けで、彼らの知りたいという反応に呼応し、震災を1時間くらいかけてじっくり解説していました。
中国の「はいはい、報道しましたよ、終わり」的なものとは、全く違っていました。
翌々日
19日になって、やっと関西への電話がつながりました。
大阪にいた私の家族は全員無事でしたが、今まで経験したことがないほどの揺れだと興奮した声で言っていました。
兵庫県内の電話もつながったみたいで、県内出身者は電話にかじりつくように家族の話や安否を聞いていました。
結果的に、ほとんどの人は家が少し崩れた程度の被害でした。誰もが彼らに笑顔が戻るのを見て安堵しました。
その中でただ一人、家族と連絡が取れない、私と同い年の人がいました。仮にA子ちゃんとしておきましょう。彼女は西宮か芦屋あたりに実家があったはずなのですが、実家にかけても電話が通じませんでした。家が崩壊してしまったのか、家族はどうしたのだろう。不安は募るばかりでした。普段は明るく健康的な女の子でしたが、震災後はそれがすっかり失せていました。
その数日後だったか、親戚を通して安否がわかったようです。
A子ちゃんの家は全壊したものの、家族に死者は出なかったようです。しかし、仲が良かった近所の友達が亡くなったそうです。家族が全員無事だったものの、生まれ育った家を失い、幼馴染を亡くした悲しみから、彼女は余計にふさぎこむようになりました。
同い年ながら母親的な包容力があり、よく甘えてご飯を作ってもらっていた口なので、彼女のために何かできないかと少し考えてみました。
そこで思いついたのが、
「A子ちゃんを励ます会」
の結成でした。
ふさぎ込んでいる時こそ思い切り笑おう。これが私のモットーなのですが、A子ちゃんには思い切り笑ってもらおうという趣旨でした。20歳のアホーが考えることは単純ですが、それでも何もしないよりはマシ。
「励ます会」の会員でドタバタ劇や漫才などを考え、サプライズで実行。彼女も大笑いして大成功。
「励ます会」の構成は日本人だけだったのですが、それを見ていた韓国人留学生が一言漏らしました。
「羨ましいな・・・」
韓国人にこういう団結力はない。仮に同じ状況になってもみんな勝手気ままで自分のことしか考えない。他人に対する温情、無私で他人に尽くせる日本人が羨ましいと、ため息まじりに言っていました。
彼には日本人という鏡を見て、自民族が持つ大きな欠点が見えていたのでしょう。
日本からの叫び
震災の情報は、相変わらずNHKの短波ラジオがいちばんの頼りだったのですが、ある日いつものように聞いていると、
「海外にお住まいの日本人の皆さん」
我々海外組に語りかけるアナウンサーの声が聞こえてきました。
「神戸がひどいことになっています。海外から支援物資を送って下さい!海外の方にも支援の呼びかけをお願いします!」
アナウンサーの悲痛な声が記憶に残っています。おそらく、海外向けなので日本国内では放送されていないはず。
その後は具体的に何を送って欲しいか述べていたと思います。水や毛布が足りないと言っていた記憶がありますが、細かいことは20年以上経っており、かなり忘れています。
物資を海外から送って欲しいという、アナウンサーの気持ちを振り絞るような声、これだけでもただ事ではない。
まるで戦争が始まり日本が戦場になったかのような感覚を覚えました。
中国人の反応
時間が経つにつれ、中国人民の間にも震災のニュースは伝わっていきました。
上海は今も昔も海外への門が広いところなので、日本に留学中の上海人も多く、そこからも情報が口づてで伝わっていたのでしょう。
反応は、同情・心配がほぼ100%でした。どこかの国のように、お祝い申し上げますなんてことは絶対にありませんでした。
いつも立ち寄る雑貨屋や行きつけの小食堂でも、いや、一見さんで立ち寄ったお店でも、日本人とわかると、
「おい日本人、神戸で地震が起こったんだって?」
と聞いてきました。
「お前の故郷はどこだ?」
「大阪だけど」
「何!?大阪は大丈夫だったのか?」
「電話して確認したけど、どうやら大丈夫みたいやね」
「そうかそうか、良かったな」
という会話が続きました。例外なく、かなり本気で心配してくれていたのです。
しかし、その後がいかにも中国人らしい。
「で、神戸ってどこにあるんだ?東京の隣か?」
「なんでやねん。大阪の隣や」
「ええ!それならお前のとこ(大阪)は大丈夫だったのか?」
「せやから大丈夫ってさっき言うたやないかいw」
小咄のような展開になったのですが、震災まで中国人の間の神戸の知名度はほぼゼロ。ほとんどの人が本気でどこか知らなかったようです。
このように当時は海外にいたこともあり、阪神・淡路大震災に関しては関西人・大阪人でありながら、話について行けないのです。今になりYoutubeなどで当時のニュースを見ては、こんな感じだったのかと第三者的に見るだけです。
しかし、大天災を海の向こうから見ることができたこと、そして現在、震災の震源地に近い淡路島に住んでいるのは、何かの縁なのかもしれません。
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