杉原千畝について
「人道=こまった人がいたらたすける」という彼の思いは「暖かな気持ち」「日本人の精神の気高さ」として、清々しい気持ちになれます。「自分も日本人として、そして人として、杉原千畝を誇りに思い、自分も誰かのために何かしてあげられる人間の一人なんだ」と気づかせてくれる…それがこの記念館です。
「人道=こまった人がいたらたすける」という彼の思いは「暖かな気持ち」「日本人の精神の気高さ」として、清々しい気持ちになれます。「自分も日本人として、そして人として、杉原千畝を誇りに思い、自分も誰かのために何かしてあげられる人間の一人なんだ」と気づかせてくれる…それがこの記念館です。
01千畝を育んだ八百津
八百津で
生まれた千畝
[1900-1922]
1900年、千畝はごく一般の環境と家庭の中で生まれ育ちました。英語教師となる夢を目指し勉学に励みますが生活が苦しくなり、公費で勉強ができる外交官留学生試験に、猛勉強の末合格しました。そしてロシア語研修生として、人生の方向転換をしたのです。
02杉原千畝の仕事
外交官時代
ハルビン
[1939-1940]
ハルビンにてその能力を見込まれ、千畝は外交官としての希望ある一歩を踏出します。一方、ヨーロッパではヒトラーによるナチの独裁が始まり、ユダヤ人の命が脅威にさらされはじめていました。
リトアニア・
カウナスへ
リトアニア・カウナスに、日本領事館開設を命じられた千畝は、同時にソ連からの情報を集めることを命ぜられます。戦争の激しくなったこの頃、ヒトラーによるユダヤ人迫害も激しさを増し、彼らの受け入れ先はほとんど無くなってしまいました。
03杉原千畝の仕事
千畝の決断
[1940]
そして1940年、千畝にある決断を迫られる出来事が起こります。ナチスの目を盗んで逃げてきたユダヤ人たちが、ヨーロッパから逃れるために、日本への通過ビザを求め、領事館前におしかけたのです。「ビザを出してもいいですか。」日本の外務省へ
あてた電報の帰ってくる答えは「正規の手続きができない者に、ビザを出してはいけない。」というものでした。ビザを発給しユダヤ人の命を救うべきか、命令に従って外交官としての輝かしい道を守るべきか。千畝は悩み、そして一つの答えを出したのでした。
04帰国
ヴィザ発給後
[1947-1986]
1947年、帰国した杉原を待っていたのは独断でビザを発行したことの責任による外務省からの解職。 1968年、杉原の許へ一人のユダヤ人が訪れてきます。彼はボロボロになった当時のビザを手にして涙をこぼして杉原に礼の言葉をのべたのです。
ロシア語を中国のハルビン学院で学んだ千畝は、1924年、ハルビン日本領事館に就任。その後、満州国外交部に出向するものの、すぐに帰国します。1937年、フィンランドの在ヘルシンキ日本公使館に赴任。1939年にリトアニアの在カウナス日本領事館領事代理となります。ヨーロッパではナチスが勢力を広げ、ユダヤ人への迫害が増大。国外脱出を図るユダヤ難民が、一時避難していたリトアニアから入国ビザを必要としない南米スリナム、キュラソーなどのオランダ領への逃亡を目指します。
ナチスによるユダヤ人迫害は激しさを増し、ドイツ勢力が広がるにつれてユダヤ避難民は激増してきましたが、彼らの受け入れ先はほとんどなくなっていました。さらに1940年4月から再び始まったナチス・ドイツの急進撃で、ヨーロッパは西も南もふさがれてしまいます。そして、1940年7月18日の早朝、千畝にある決断を迫られる出来事が起こります。ポーランドからリトアニアに逃亡してきたユダヤ避難民が、閉鎖間際の日本領事館に通過ビザを求めて大勢殺到しました。緊迫した中、本省と連絡を取り合う千畝。苦悩の末、「発給要件を満たさぬ者へのビザ発給はならぬ」という本省の命令に背き、命の危機が迫るユダヤ人に対し、「首になっても構わない、人道上拒否できない」と、条件をつけずにすべてのユダヤ人に対し、ビザを発給する決心をしました。
1933年4月にヒトラーが声明を出した「ユダヤ人排斥運動」に始まるホロ・コーストにより、ドイツや1938年3月にドイツにより併合されたオーストリア、1939年3月に解体されたチェコ・スロバキアからポーランド国境を越えていたユダヤ系避難民たちが、1939年9月に締結された独ソ不可侵条約によってポーランド西半分に侵攻したナチスドイツ軍のホロ・コーストの恐怖から逃れるため、その占領地域であるポーランド西部から北東部のヴィリニュス周辺地域へ逃避し、ユダヤ系避難民の前に立ちはだかるリトアニア国境を前に孤立していました。時を同じくして行われたソ連軍のポーランド侵攻により、ポーランド東半分を占領したソ連とリトアニアの間で1939年10月に結ばれた「ヴィリニュス返還協定」によって、第一次世界大戦以降、度重なる国境紛争によりポーランドに領有されていたヴィリニュス周辺地域がソ連からリトアニアに割譲されたのを機に、リトアニアへ逃げ込んだものと推測されます。
ナチスドイツ軍の占領地域であるポーランド西部から、ポーランド北東部のヴィリニュス周辺地域へ逃避したユダヤ系避難民の前に立ちはだかるリトアニア国境が、ヴィリニュス地域のソ連からリトアニアへの割譲という事態に一時的に消滅したのである。このときリトアニア国境を越えたユダヤ系避難民は15,000人ともいわれています。しかし、独ソ占領下のポーランドから、リトアニアに無事避難できたユダヤ系避難民にとって、安住の地であるはずの中立国リトアニアは、決して安泰の地ではなかったのです。
ドイツとソ連がこぞってポーランドへ侵攻する直前の1939年8月23日に公表された独ソ不可侵条約の秘密条項に従い、バルト三国の併合に向けて、着々とその触手を伸ばし始めていたのです。1939年10月、ソ連はバルト三国と相互援助条約を結び、ここにソ連軍の駐屯をみとめさせ、翌年の1940年6月には、この相互援助条約を一方的に破棄し大量のソ連軍を進駐させ、リトアニアはソ連の一部と化していくのです。
私も何をかくそう一晩中考えた。苦慮、煩悶の挙句、私はついに、人道、博愛精神第一という結論を得た。そして私は何も恐れることなく、ヴィザ発給を決意した。
一人でも多くの命を救うために、入国ビザを必要としない南米キュラソー行きの『命のビザ』を少しの時間も惜しんで書き続けた千畝は、領事館を退去した後もホテルで渡航許可証を書きました。いよいよ出国という最後の日、駅にまで押し掛けてきたユダヤ人たちにも発車間際まで渡航許可証を書き続けた千畝。最後の渡航許可証は車窓から手渡したのでした。
1978年以降の晩年に執筆されたもの。長文手記と概ね重複する内容の日本ヴィザ発給に至った場面のみを記述したもの
「決断」
最初の回訓を受理した日は、一晩中私は考えた。考えつくした。
回訓を文字どおり民衆に伝えれば、そしてその通り実行すれば、私は本省に対し従順であるとして、ほめられこそすれと考えた。
かりに当事者が私でなく他の誰かであったとすれば、恐らく、その百人が百人、東京の回訓通りビザ拒否の道を選んだだろう。
それは何よりも、文官服務規程および何条かの違反に対する昇進停止、ないし馘首が恐ろしいからである。
私も何をかくそう、回訓を受けた日、一晩中考えた・・・。
はたして浅慮、無責任、がむしゃらの職業軍人グループの対ナチス協調に迎合することによって、全世界に陰然たる勢力を擁するユダヤ民族から永遠の恨みをかってまで、旅行書類の不備、公安配慮云々を盾にビザを拒否してもかまわないのか、それがはたして国益にかなうことだというのか。
苦慮、煩悶のあげく、私はついに人道・博愛精神第一という結論を得た。
そして私は、何も恐るることなく職を賭して忠実にこれを実行しおえたと、今も確信している。
一九七八年 杉原千畝
フィリップス社の代表だった彼は1940年6?7月の間、リトアニア・カウナスでのオランダの領事代理を引き受けました。その間ユダヤ避難民に多くの準ビザを発給しました。その準ビザと千畝のビザのおかげで避難民たちはリトアニアから脱出し、命が救われました。
1938年、ナチスドイツによるオーストリア併合後、同国から逃れようとするユダヤ人に独断でビザを1,900通発給。難民たちはシベリア経由で中国に入国した人も、ビザを使ってオーストリアから違う国へ逃れた人もいます。
1940年5月10日、ドイツがベルギーとオランダに侵攻すると同時に、ポルトガル政府が難民、特にユダヤ人の入国を禁止しました。メンデスが独断で3万人の難民のうち、1万のユダヤ人にビザを発給。また、多くのユダヤ避難民にスペイン国境の検問所を通過させました。
ユダヤ人のために保護状を考案し、中立国の外交官として初めてユダヤ人を救いました。その数は、数千人にものぼります。
1944年7月、ロードス島の1,700人のユダヤ人がナチス・ドイツによるアウシュヴィッツ収容所へ送られた時に、ウルクーメンは中にいた42人のトルコ国籍のユダヤ人とその家族を救出しました。
〈資料提供 ヤド・ヴァシェム〉 2014年1月1日現在