はじめに
下書きしてる間に落ち着いたので公開はやめておこうと思ったけど,下記の記事にいらっときたのでやっぱり書いておく。
林芳正文部科学相は(中略)、大学入試センター試験で試験監督だった大阪大教授がいびきをかいたことについて「(中略)。緊張感をもって入試業務に取り組むよう、厳しく指導をした」と述べた
入試ミスの次は居眠り、阪大に文科相苦言 「大変遺憾」:朝日新聞デジタル
精神論?
「緊張感をもって」というのはまあこういう時の定型句のようなものだとは思うが,このタイプの苦言というか咎め方には昔から引っかかっている。
つまり,何かを失敗した,うまくパフォーマンスができなかった時に,「やる気がない」「緊張感がない」という言い方をすることである。
お前はテレパスか。
小学校高学年から大学生までずっと競技テニスをやっていたが,一番つらかった叱責がこの「やる気/緊張感あるのか」タイプだった。技術的な欠陥を指摘される方が何倍もましである。
確かに,「やる気」がないことがパフォーマンスにネガティブな影響を与えることはあるし,ある程度振る舞いから推測することも場合によっては不可能ではないかもしれない。しかし,パフォーマンスに問題があったことから「やる気がなかった」ことを推測するのは一般的に容易ではなく*1,気軽にやっていいことではないし,あまり生産的な指摘にならないことが多いというのが私の実感である。
類似表現に「集中してない」があるが,「集中する」には技術的な側面もあるので,場合によっては上記の表現よりましかもしれない。
体育会系的?
「やる気」についての指摘は,下記のブコメにも散見される。
b.hatena.ne.jp
うまくパフォーマンスできなかった時に,「やる気あるのか」などと言うのは,一般的には「体育会的」とされる反応の1つだと思うがどうだろうか。
たまに書いているが,大学の体育会系の部にも所属したことがあり,現在は研究者をやっている私の持論として「体育会的とされる特徴の多くは,実は様々なところに顔を見せるものであり,スポーツと結びついたものが「体育会的」と呼ばれる」というものがある(体験談はそれなりにあるが,それほど根拠があるわけではない)。こういう精神論的なものについてもそうだと感じることが多い。
スポーツをやるとむしろ「やる気」なんかではどうにもならない領域が(たくさん)あるってことを痛感させられると思うんですけどね*2。ただそういうことを言うのが好きな指導者とかがいるってのも事実ではあります。
おわりに
いらっとして書いたのであまりまとまりがない。
このタイプの指摘はやめて,できるだけシステムとか仕組みとかの話をした方が良いのではないだろうか。