2018年01月13日
マンガを読まなくなった理由 追記
マンガソムリエを自称して、10年程マンガのレビューをしてきたけども、一番読まれた記事が、先日書いた「マンガを読まなくなった理由」だった。
なんとも皮肉な話ではある。
しかし、まあそれはそれとしてたくさんの方に記事を見てもらえると、当然自分でもその記事を見直したりはするわけで。
そこで考えたことをつらつらと蛇足的に書き記しておこうと思う。
自分がマンガを読まなくなった理由は前回も書いたように連載マンガの長期化が主だ。
ただ、そうは言っても、どうしても頭をかすめるのは「加齢」の問題で。
つまり、結局のところマンガを読まなくなったのは、自分の好みの変化であったり、気力の衰えだったり、あるいはライフスタイルの変化だったりといった読む側の事情が締める割合も大きいのではないかということ。
前回の駄文でもそこは書いた。
ただ、改めて考えると、この「加齢」というファクターと、長期連載マンガの組み合わせの食い合わせの悪さというか、哀しさって、相当重たいものがある。
例えば、長期連載のマンガの代名詞「ワンピース」の連載開始は1997年だ。
つまり今年は連載21年めに突入している。
21年!!!!
この途方もない長さ。
赤子が成人して余りある。
さてさて、自分は21年前何していたかなと考える。
その頃は高校生で、なんとも鬱屈した、それでいて多感でおセンチな毎日を過ごしていた。
で、まあ正確に21年前ではないのだけども、その辺りで読んだマンガってやっぱり自分の根幹に影響を与えているという自覚はあって。
例えば「リバーズエッジ」(岡崎京子)を読んで、立ち上がれないくらいにショックを受けたのはその頃だ。
だから「リバーズエッジ」を読み返すと、どうしてもあの頃の自分を思い出す。
岡崎京子が描いたセイタカアワダチソウだらけの川原とか、ダッフルコートとか、団地とか。
そういう90年代的な風景とか空気感に酔っていた10代の自分を恥ずかしいような、痛々しいような気持ちで懐かしむ。
そういえば、自分も青いダッフルコート着てたっけ。
「青い車」(よしともよしとも)をそれこそ、百回以上狂ったように読み返していたのもその頃だなぁ。
「花男」「鉄コン筋クリート」(松本大洋)を読んで、頭を殴られたような衝撃を受け、それに影響受けまくった脚本を文化祭用に書いて、クラスメイトと上演したのも高校時代だった。
あるいは、もっと無邪気にマンガを読んでいた子どもの頃を思い出す。
例えば「幽遊白書」は 1990年から1994年までの4年の連載で、これは自分史にあてはめると小学校高学年から、中学2年の時期だ。
「思春期に~少年から~おとなに~変わる~」の真っただ中だった自分にとって仙水編のインパクトは半端なかったし、その後の魔界トーナメント戦のやっつけ仕事の格好よさには心底しびれた。
逆に時間を進めて、大学時代。
「おひっこし」(沙村広明)を読んで、あまずっぱさにのたうちまわりつつ、自分の冴えない大学生活を重ね合わせたのもいい思い出。
桜玉吉にどはまりして、精神的にやばくなったり(笑)
「敷居の住人」(志村貴子)にモラトリアムな自分を重ねて、一人暮らししてたアパートで悶々とした夜も今となっては笑える。
働き出してからは、「げんしけん」(木尾士目)(第一部の方ね!!)の面々が送る大学生活及びその終焉にら自分の既に終わってしまった大学生活を重ね合わせて、しんみりしたりもしたなぁ。
あー、「ソラニン」(浅野いにお)読んで号泣したのもこの頃だ。
なんとも皮肉な話ではある。
しかし、まあそれはそれとしてたくさんの方に記事を見てもらえると、当然自分でもその記事を見直したりはするわけで。
そこで考えたことをつらつらと蛇足的に書き記しておこうと思う。
自分がマンガを読まなくなった理由は前回も書いたように連載マンガの長期化が主だ。
ただ、そうは言っても、どうしても頭をかすめるのは「加齢」の問題で。
つまり、結局のところマンガを読まなくなったのは、自分の好みの変化であったり、気力の衰えだったり、あるいはライフスタイルの変化だったりといった読む側の事情が締める割合も大きいのではないかということ。
前回の駄文でもそこは書いた。
ただ、改めて考えると、この「加齢」というファクターと、長期連載マンガの組み合わせの食い合わせの悪さというか、哀しさって、相当重たいものがある。
例えば、長期連載のマンガの代名詞「ワンピース」の連載開始は1997年だ。
つまり今年は連載21年めに突入している。
21年!!!!
この途方もない長さ。
赤子が成人して余りある。
さてさて、自分は21年前何していたかなと考える。
その頃は高校生で、なんとも鬱屈した、それでいて多感でおセンチな毎日を過ごしていた。
で、まあ正確に21年前ではないのだけども、その辺りで読んだマンガってやっぱり自分の根幹に影響を与えているという自覚はあって。
例えば「リバーズエッジ」(岡崎京子)を読んで、立ち上がれないくらいにショックを受けたのはその頃だ。
だから「リバーズエッジ」を読み返すと、どうしてもあの頃の自分を思い出す。
岡崎京子が描いたセイタカアワダチソウだらけの川原とか、ダッフルコートとか、団地とか。
そういう90年代的な風景とか空気感に酔っていた10代の自分を恥ずかしいような、痛々しいような気持ちで懐かしむ。
そういえば、自分も青いダッフルコート着てたっけ。
「青い車」(よしともよしとも)をそれこそ、百回以上狂ったように読み返していたのもその頃だなぁ。
「花男」「鉄コン筋クリート」(松本大洋)を読んで、頭を殴られたような衝撃を受け、それに影響受けまくった脚本を文化祭用に書いて、クラスメイトと上演したのも高校時代だった。
あるいは、もっと無邪気にマンガを読んでいた子どもの頃を思い出す。
例えば「幽遊白書」は 1990年から1994年までの4年の連載で、これは自分史にあてはめると小学校高学年から、中学2年の時期だ。
「思春期に~少年から~おとなに~変わる~」の真っただ中だった自分にとって仙水編のインパクトは半端なかったし、その後の魔界トーナメント戦のやっつけ仕事の格好よさには心底しびれた。
逆に時間を進めて、大学時代。
「おひっこし」(沙村広明)を読んで、あまずっぱさにのたうちまわりつつ、自分の冴えない大学生活を重ね合わせたのもいい思い出。
桜玉吉にどはまりして、精神的にやばくなったり(笑)
「敷居の住人」(志村貴子)にモラトリアムな自分を重ねて、一人暮らししてたアパートで悶々とした夜も今となっては笑える。
働き出してからは、「げんしけん」(木尾士目)(第一部の方ね!!)の面々が送る大学生活及びその終焉にら自分の既に終わってしまった大学生活を重ね合わせて、しんみりしたりもしたなぁ。
あー、「ソラニン」(浅野いにお)読んで号泣したのもこの頃だ。
この頃はマンガに過剰に自分の人生の岐路を重ねて読んでいた。
さて、長々と書いた。
何が言いたいのかというと、『物語』を語るファクターとして、それ単体の評価とか、文化史的な評価とは全然別の文脈として、読者の実人生にどう関わるかってファクターもあるよねってことで。
マンガも含めて「物語」というのは、どういうタイミングで、どんな状況で、それに触れたのかということが、読者にとっては非常に大きな意味を持つと思うのだ。
それは、このブログがずっとしてきたような、不特定多数に向けたレビューが示す物語への評価とはまた少し違った意味だ。
もっと、個人的で、主観的で、誰とも共有し難い、その人だけの物語の意味、意義、思い出。
個人的だからこそ、もしかしたら一番大切な何か。
映画とか小説は、特にその側面が強い気がする。
初めてのデートで見た映画はなんですか?みたいな質問とか、人生で一番影響を受けた小説は?みたいな質問が定番なのがその証左だろう。
僕らは物語を、自分の実人生の中で消費する。
そう考えると、「終わらない物語」ってのは哀しい。
21年続いているワンピースは、勿論今でも無類に面白いのだけども、僕にとって「個人的に大切な物語」には、もうならないと思う。
僕はワンピースを「読み終える」ことがまだできていないから。
途中で読むのをやめて、読者の側から強制的に終わらせない限り「あの頃読んだマンガ」として自分の人生に重ねあわせることはし難い。
自分の個人史と重ねるには、ワンピースはあまりに長すぎた。
ルフィが冒険している間に、僕は高校を卒業し、大学を卒業し、社会人になり、結婚し、子どもが生まれた。
今もまだ、ルフィは21年前と同じように元気いっぱい、勇気もりもりで冒険を続けている。
そこに自分の人生は重ねられない。
勿論、そうではない人もいるだろう。
ワンピースのアラバスタ編が自分の人生に於ける大切な物語だという人もいるだろうし、あるいは終わらない物語とずっと併走し続けることこそに意味を見出すという人もいるだろう。
それはそれで素敵なことなのかもしれない。
ただ、自分はそんな風には思えない。
やっぱりちゃんと物語は結末を見届けたい。
というより、結末まで見届けるから、その物語が自分の人生の中に於いて何かしらの位置を占める。
勿論これは「ワンピース」に限った話ではない。
「ちはやふる」でも「宇宙兄弟」でも「ベルセルク」でもなんでもいい。
とにかく10年続いたら、読者の実人生に於ける変化が大きくなりすぎる。
さて、長々と書いた。
何が言いたいのかというと、『物語』を語るファクターとして、それ単体の評価とか、文化史的な評価とは全然別の文脈として、読者の実人生にどう関わるかってファクターもあるよねってことで。
マンガも含めて「物語」というのは、どういうタイミングで、どんな状況で、それに触れたのかということが、読者にとっては非常に大きな意味を持つと思うのだ。
それは、このブログがずっとしてきたような、不特定多数に向けたレビューが示す物語への評価とはまた少し違った意味だ。
もっと、個人的で、主観的で、誰とも共有し難い、その人だけの物語の意味、意義、思い出。
個人的だからこそ、もしかしたら一番大切な何か。
映画とか小説は、特にその側面が強い気がする。
初めてのデートで見た映画はなんですか?みたいな質問とか、人生で一番影響を受けた小説は?みたいな質問が定番なのがその証左だろう。
僕らは物語を、自分の実人生の中で消費する。
ならば、人生が物語に影響を受けるように、物語の読み方だって、それぞれの人生に影響を受ける。
だからこそ個人的に大切な物語は、ときに自分の実人生におけるフラグのような働きをする。
自分の人生を振り返る時、そこにはこれまで消費してきた物語が点在していて。
その物語を読み返す時、それを読んでいた時の自分を思い出す。
はじめに書いた「加齢」の問題。
「加齢」ってのは言い換えると「人生」だ。
現実世界の自分の生活だ。
もちろん年齢とともに、物語全般(つまりは誰かの創作物)に割ける時間は減ってきている。
気力も衰えているのかもしれない。
でも、そんな今の自分だからこそ読むべき物語というのは存在する。
たとえば昨年自分が読んだもので言うなら池辺葵氏の「どぶがわ」は、ある程度年齢を経たから今だからこそ味わい深かった。
きっと十年後、今の自分を振り返るときに、池辺葵という作家との出会いもまた一緒に思い出す。
で、それは多分、「どぶがわ」がちゃんと作品として終わってくれたってことが関わっている。
物語の結末を自分はちゃんと見届けることができた。
だから、30代後半に読み終えた物語として、「どぶがわ」は自分の脳内読書記録に記載される。
40手前のぼくは「どぶがわ」という物語をちゃんと最後まで、読み、心動かされた。
だからこそ個人的に大切な物語は、ときに自分の実人生におけるフラグのような働きをする。
自分の人生を振り返る時、そこにはこれまで消費してきた物語が点在していて。
その物語を読み返す時、それを読んでいた時の自分を思い出す。
はじめに書いた「加齢」の問題。
「加齢」ってのは言い換えると「人生」だ。
現実世界の自分の生活だ。
もちろん年齢とともに、物語全般(つまりは誰かの創作物)に割ける時間は減ってきている。
気力も衰えているのかもしれない。
でも、そんな今の自分だからこそ読むべき物語というのは存在する。
たとえば昨年自分が読んだもので言うなら池辺葵氏の「どぶがわ」は、ある程度年齢を経たから今だからこそ味わい深かった。
きっと十年後、今の自分を振り返るときに、池辺葵という作家との出会いもまた一緒に思い出す。
で、それは多分、「どぶがわ」がちゃんと作品として終わってくれたってことが関わっている。
物語の結末を自分はちゃんと見届けることができた。
だから、30代後半に読み終えた物語として、「どぶがわ」は自分の脳内読書記録に記載される。
40手前のぼくは「どぶがわ」という物語をちゃんと最後まで、読み、心動かされた。
これは、10年前の自分だったらまた違っただろうし、10年後の自分でもまた違ったであろう、今の自分の感動だ。
そこに、意味がある。
そう考えると、「終わらない物語」ってのは哀しい。
21年続いているワンピースは、勿論今でも無類に面白いのだけども、僕にとって「個人的に大切な物語」には、もうならないと思う。
僕はワンピースを「読み終える」ことがまだできていないから。
途中で読むのをやめて、読者の側から強制的に終わらせない限り「あの頃読んだマンガ」として自分の人生に重ねあわせることはし難い。
自分の個人史と重ねるには、ワンピースはあまりに長すぎた。
ルフィが冒険している間に、僕は高校を卒業し、大学を卒業し、社会人になり、結婚し、子どもが生まれた。
今もまだ、ルフィは21年前と同じように元気いっぱい、勇気もりもりで冒険を続けている。
そこに自分の人生は重ねられない。
勿論、そうではない人もいるだろう。
ワンピースのアラバスタ編が自分の人生に於ける大切な物語だという人もいるだろうし、あるいは終わらない物語とずっと併走し続けることこそに意味を見出すという人もいるだろう。
それはそれで素敵なことなのかもしれない。
ただ、自分はそんな風には思えない。
やっぱりちゃんと物語は結末を見届けたい。
というより、結末まで見届けるから、その物語が自分の人生の中に於いて何かしらの位置を占める。
勿論これは「ワンピース」に限った話ではない。
「ちはやふる」でも「宇宙兄弟」でも「ベルセルク」でもなんでもいい。
とにかく10年続いたら、読者の実人生に於ける変化が大きくなりすぎる。
だから、その長い連鎖の間に、この人気作品達は誰かにとっての「本当に大切な一冊」にはなり損ねたのではないかと思うのだ。
少なくとも自分にとってこれらの作品はどれも、読み始めて何年かまでは間違いなく自分にとって特別なマンガになると思っていた。
今、まったくもって追いかけられていない自分がいる。
この「大切な一本に成り損ねる」ってのが、まがりなりにもマンガカルチャーを愛してきた人間にとったらひどく切ない。
長くなったので、そろそろまとめる。
小説なり、映画なりといったポップカルチャーはときに誰かの人生を大きく変える力すら持つ。
人生を変えるとまではいかなくとも、誰の人生にだってきっと大切な映画や小説の一本や二本はあるだろう。
自分は、マンガというカルチャーもまた、映画や小説と同じだと思っていた。
でも、「誰かにとっての大切な一作」になるには、作品の文化史的な価値とは別に、読者ないし鑑賞者の実人生に於いてどのタイミングでそれを消費したのか、ってのが少なからず影響するわけで。
今、まったくもって追いかけられていない自分がいる。
この「大切な一本に成り損ねる」ってのが、まがりなりにもマンガカルチャーを愛してきた人間にとったらひどく切ない。
長くなったので、そろそろまとめる。
小説なり、映画なりといったポップカルチャーはときに誰かの人生を大きく変える力すら持つ。
人生を変えるとまではいかなくとも、誰の人生にだってきっと大切な映画や小説の一本や二本はあるだろう。
自分は、マンガというカルチャーもまた、映画や小説と同じだと思っていた。
でも、「誰かにとっての大切な一作」になるには、作品の文化史的な価値とは別に、読者ないし鑑賞者の実人生に於いてどのタイミングでそれを消費したのか、ってのが少なからず影響するわけで。
自分は、この消費ってのはやっぱり最後まで見届けてこその消費だと思う。
どうあれ、結末のわからない物語は正当に評価できない。
その意味では、マンガというカルチャーが持つ意味が、超長期連載という枷ゆえに弱まっているのではないかと考える。考えてしまう。
その意味では、マンガというカルチャーが持つ意味が、超長期連載という枷ゆえに弱まっているのではないかと考える。考えてしまう。
それは、自分にとってとても哀しい話なのだけれども。
追記
勿論、手塚治虫の「火の鳥」みたいに作者のライフワークになったものもあるし、ジョジョみたいに章立てという素晴らしいスタイルもある。
あるいは、そもそもサザエさん的な終わらないことを前提としてつくりもあるので、上に書いたことは、あくまでもそういう見方もできるっていう話でしかないのは百も承知。
追記の追記
誤解のないように書いておくが、ここでは、だから「ワンピース」が面白くないと言っているのではない。
「ワンピース」は相変わらず面白い。
「ちはやふる」も「宇宙兄弟」もとんでもなく面白い。
ただ、誰かの人生の「大切な一作」にはなりにくくなっちゃっているのではないかという話。
笑い話じゃなくて、ワンピースの完結前に死んじゃった読者だって結構いるはずなのだから。
追記
勿論、手塚治虫の「火の鳥」みたいに作者のライフワークになったものもあるし、ジョジョみたいに章立てという素晴らしいスタイルもある。
あるいは、そもそもサザエさん的な終わらないことを前提としてつくりもあるので、上に書いたことは、あくまでもそういう見方もできるっていう話でしかないのは百も承知。
追記の追記
誤解のないように書いておくが、ここでは、だから「ワンピース」が面白くないと言っているのではない。
「ワンピース」は相変わらず面白い。
「ちはやふる」も「宇宙兄弟」もとんでもなく面白い。
ただ、誰かの人生の「大切な一作」にはなりにくくなっちゃっているのではないかという話。
笑い話じゃなくて、ワンピースの完結前に死んじゃった読者だって結構いるはずなのだから。