1998年の発売以来、医療・介護の現場から家庭まで幅広く利用されている、龍角散の服薬補助ゼリー。薬を飲みやすくするために開発されたゼリー状のオブラートで、世界35カ国1地域で特許も取得している。福居篤子執行役員が生みの親。一連の開発で多くの賞を受賞する一方、左遷も経験している。逆風にへこたれず、それを力に変えた彼女の実力を見込んで役員へ引き上げたのは、現社長の藤井隆太氏。服薬補助ゼリーシリーズ開発の軌跡を通じ、一時は倒産の危機に瀕した老舗企業を、2人のリーダーはどう蘇らせたのか。証言を基に振り返った。
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■臨床薬剤師としての病院勤務が原点
「製薬会社はどうしてこんな飲みにくい薬を作るのだろう?」。龍角散執行役員の福居篤子氏は臨床薬剤師として病院に勤務していた頃、よくそんなことを思っていたという。
薬が嫌だ、飲みたくないと思っても、患者は遠慮して医者には本音を言えない。勝手に服薬をやめてしまう人もいて、福居氏は考えた。「一度、作る側に回ってみようか」――。
龍角散に入社した91年は、ちょうど現在の本社ビルと研究開発施設を備えた工場が完成した年だった。建物が新しくなっても、社内はまだ旧態依然としていた。縦割りが強かった生産・開発部門に横串を刺すことを期待されて入社した福居氏は早速、そんな古い企業体質とぶつかった。
「機械に触れようとすると、『その機械はちょっと……』と止められる。『危ないから』と説明され、『大丈夫ですよ』と答えると、『壊れたら、ネジなどたくさん出てきて大変だから』と。『私、機械をいじるのも好きですから』と答えると、困ったような、あきれたような顔をして去って行かれる――というようなことが何度かありました」
社内には当時、女人禁制の部屋や女性が触れてはいけない機械があったという。中途入社の福居氏はそれを知らないままに行動し、あちらこちらであつれきを起こしていた。「同期の男性と同じ成果を出しても全く評価されない。手柄を横取りされるようなこともあり、一時は真剣に辞めようかと思いました」と、当時を振り返る。
■「一緒に改革につきあう気はないか?」と慰留
すっかり腹を立てて社長室に飛び込んだ彼女に声をかけ、慰留したのは現社長の藤井氏だ。当時はまだラインを持たない係長職だった。福居氏がすでに転職先の内定をもらっていることを知ったうえで、こう説得した。
「僕はもうすぐこの会社の社長になる。見たところ、君は何か新しいことに挑戦したくて、もがいている様子だから、一緒に改革につきあう気はないか?」
放漫経営で負債が膨らんだ龍角散はこの時期、倒産の危機に瀕していた。小林製薬、三菱化成工業(現・三菱ケミカル)勤務を経て、94年、父親の経営する龍角散に入社した藤井氏は財務諸表を見て怒りに震えたという。約40億円の売り上げに対し、負債も同額の約40億円あったからだ。
藤井氏いわく「典型的なぼんぼん」だった先代社長はほとんど会社に寄りつかず、古参の役員に経営を任せきりだった。どんなに借金を抱えても「最後はオーナーがなんとかしてくれる」という甘えも、社内にまん延していた。経営再建の道を模索していた藤井氏は、その過程で福居氏のことも噂に聞いて知っていた。何かのきっかけで彼女のことが話題に上った際、彼女を採用した先代から、こう忠告されたこともあったという。
「あいつには気をつけろ、難しいぞ」。この「難しい」とは、「上に対して従順ではない」という意味だ。だが、藤井氏は福居氏のように行動力があり、率直にモノを言う人材こそが改革には必要だと考えていた。
最初のうちは「(藤井氏のことを)信用できない」と息巻いていた福居氏も、最後は藤井氏の言葉に納得し、龍角散に残ることを決めた。
■役員の評価はさんざんだった服薬補助ゼリー
病に倒れた先代に代わり、藤井氏が龍角散の8代目社長に就任したのは95年のことだ。それからしばらく経ち、福居氏は月に一度の役員が集まる経営会議で、同社としては全く新しいカテゴリーとして服薬補助ゼリーの企画を提案した。
「これはもともと、営業からの依頼で始まった企画でした。店頭で頭痛薬を飲みたい患者さんのために、薬とセットで販売できる水を作ってほしいと言われたんです。ただ、病院に勤務していた経験から、水で薬を飲むとむせたり、のどに詰まったりするケースがあることも知っていました。ゼリーのほうがのどごしもいいし、楽に飲み込むことができると考えたのです」
試作品を持って会議に臨んだが、「なんだ、このべちゃべちゃした気持ち悪いのは」と評価はさんざんだった。諦めずに次の月も、その次の月も福居氏は案を出し続け、「水で薬を飲めない嚥下(えんげ)障害の患者さんもいるのだから」と年配の役員に向かって説明したが、そもそもゼリーを口にしたことがない役員も多く、なかなか意義を理解してもらえなかった。不毛な議論に終止符を打ったのは、「実際に現場を見に行って確かめよう」という藤井社長のひとことだ。
福居氏を伴って、ある介護施設を訪問した藤井社長は、そこで入所者が薬を混ぜたご飯を食べさせられているのを目撃し、衝撃を受けた。薬を飲みたがらない入所者もいるので、しかたがないこととはいえ、これでは食べる楽しみも半減してしまう。帰りの電車の中、藤井社長がこうつぶやいたのを、福居氏は記憶している。「明日は我が身だな」。闘病の末、96年に他界した先代の姿も藤井社長の脳裏をよぎった。
■左遷を経験し、「自分に何が足りないか」を考えた
約1年間の開発期間を経て、服薬補助ゼリーの第1号は98年に発売された。当初はあくまで嚥下障害を持つ患者向けだったため、市場はそれほど大きくはなかった。だが、2年後の2000年、服薬を嫌がる子ども向けにイチゴ味の「おくすり飲もうね」(後に「おくすり飲めたね」に改称)を発売すると、これが母親の間で大ヒット。福居氏は一躍、ヒットメーカーになった。
ところが直後の2000年10月、福居氏に思いもよらない工場勤務の辞令が下る。事実上の左遷だ。
社内ではこのころ、古参役員たちの巻き返しが始まっていた。家庭薬メーカーとして「のど」に特化するという方針の下、事業再編に取り組んでいた藤井社長への反発が強まり、福居氏への風当たりも強くなった。工場へ異動した彼女は席が4つある島の真ん中に座らされ、全く仕事をさせてもらえなくなった。
「パソコンを開くことも、本を読むことも許されず、目の前に座っている上司が毎日、『まだ辞めない』『まだいます』と本社の誰かに電話で報告しているのが聞こえてきました」(福居氏)。ストレスで湿疹が出たため、異変に気づいた家族や友人にも『辞めろ』と言われたが、福居氏はへこたれず、辞めもしなかった。
「ここで辞めたら相手の思うツボだし、きっと自分にも非があるから、こんな風に左遷されてしまうんだろうと思いました。どうして自分は周囲とあつれきを起こしてしまうのかの理由がわからないうちは、どこへ行ってもまた同じことが起きる。いい機会だから、自分には何が欠けていて、どこに欠点があるのか、を徹底的に考えてみようと思ったのです」
考えた末、自分には製剤の知識が足りないと気がつき、土日を使って名古屋市の大学院に通い始めた。大学院に通っていることは、会社には内緒だった。知られたら解雇されると思ったからだ。実際、大学院通いを疑った古参役員が彼女の師事している教授を訪ねてくることもあったが、事情を知っていた教授や学生がうまく隠し通してくれた。
平日は午後5時半に退社すると、毎日、英語学校にも通った。日本語で論文を書くと、会社にわかってしまうので、改めて英語を勉強し直す必要があったのだ。
■「転職してよかった」と今は思う
福居氏が左遷されていた2年の間に、藤井社長は体制を立て直し、改革に後ろ向きだった古参の役員を一掃した。これを機に、福居氏も工場から本社へと呼び戻された。
大学院に通いながら英語で論文を5本書き上げた福居氏は、2008年に博士号を取得。開発したゼリーのシリーズは定番商品に育ち、16年は年間約20億円(出荷数をメーカー希望小売価格に換算した数字)を売り上げる収益の柱に。韓国・台湾でのテスト販売も終了。米国の大学病院で試験導入が始まるなど、海外での販売計画も進行中だ。
一連の服薬補助ゼリー開発で、福居氏は日本薬剤学会が主催する「旭化成製剤学奨励賞(現・旭化成創剤研究奨励賞)」など、合計6つの賞も受賞している。10年からは執行役員として勤務している福居氏に「龍角散に転職したことを今、どう思っているのか」と尋ねると、こんな言葉が返ってきた。
「よかったですよ。ほかの会社に行っていたら、こんな開発をさせてはもらえなかったと思いますから。段々と社員の力もついてきていますし、今は執行役員としてそれをひとつにまとめていく仕事に取り組んでいこうと思っています」
17年3月末現在で龍角散の年間売上高は、95年当時の3倍を超える約151億円にまで拡大している。借金も完済し、倒産寸前だった会社は今ではすっかり元気になった。
(ライター 曲沼美恵)
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