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2016年8月26日

脱人間中心主義的な「第一哲学としての美学」をめぐるスケッチ 


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本書は、アメリカの哲学者・批評家として知られるスティーヴン・シャヴィロの初の邦訳書である。現在六二歳になるシャヴィロは、大陸哲学(ドゥルーズ&ガタリ)や文化批評(メディアや資本主義の批判的考察)に幅広く関心を寄せる書き手として、これまで多くの仕事を世に送り出してきた。なかでも二〇一四年に刊行された本書『モノたちの宇宙』は、ホワイトヘッド(一八六一―一九四七)の哲学を近年の思弁的実在論(以下SR)の動向を見据えつつ再評価したという点で、刊行直後から話題を呼ぶ一書となった。

近年、ホワイトヘッドをドゥルーズ&ガタリとともに読みなおすという作業に着手していたシャヴィロは、本書においてそれをSRのさまざまな議論と突き合わせている。そのために本書では、『有限性の後で』以来、SRの最重要人物となったカンタン・メイヤスーのほか、英語圏におけるその実質的な牽引者であるグレアム・ハーマン、さらにはレイ・ブラシエ、イアン・ハミルトン・グラント、レヴィ・ブライアントといったさまざまな論者の立場が手際よくマッピングされる。なかでも重要なのは、ハーマンに代表されるオブジェクト指向存在論(OOO)の世界観であり、著者も彼らの考え方には一定の賛意を示している。しかしその主眼はあくまでも、OOOへの批判を通じて、ホワイトヘッドの哲学に新たな光を当てることにある。要するに本書の戦略は、「思弁的実在論や新しい唯物論の光に照らしてホワイトヘッドの思想を考察しなおす」とともに、「ホワイトヘッド的な立場からこれらの潮流にいくつかの修正を提起」(二一頁)することにあるのだ。

では、ホワイトヘッドの哲学は、いったいどこでSRと出会うのだろう。まず両者に共通するのは、メイヤスーが「相関主義」と名づけた考え方への批判的立場である。メイヤスーは、人間(の思考)と世界(の存在)の相関関係を根源的なものとみなすバークリー/カント以来の哲学を相関主義と名づけた。シャヴィロによれば、ホワイトヘッドは、こうした考え方に背を向けた数少ない哲学者のひとりであるという。ホワイトヘッドの哲学においては、あらゆる存在者が「抱握」というプロセスを通じて他の存在者を把握し、かつ相互に触発されている。そして人間の知覚や認識もまた、あらゆる存在者が行なうこうした「抱握」のひとつにすぎない以上、あらゆる活動的存在は実のところ「存在論的に等価」である、というのがホワイトヘッドの立場なのだ。この点で、ホワイトヘッドはハーマンのオブジェクト指向の哲学と深く響きあう。すなわちハーマンは、あらゆる対象(オブジェクト)は互いに等しく撤退して(=ひきこもって)いるがゆえに、それらは「存在論的に等価」であると考える。両者のアプローチはある意味で正反対の方向を向いているが、いずれにせよこうした比較を通じて、シャヴィロはSRにおけるホワイトヘッドの再評価に乗じつつ、なおかつそれをハーマンたちとは異なる仕方で解釈していこうとする。

なかでも本書のハイライトをなすのは、ホワイトヘッドにおける「美」あるいは「美的なもの」をめぐる解釈だろう。本書でも紹介されているように、「美は真理よりも広く、根本的な観念である」、あるいは「この宇宙の目的論は美を生みだすことに向けられている」(『観念の冒険』)というホワイトヘッドにおける「美」の規定は、きわめて謎めいたものだ。それはおよそ人間の感性的認識には限定されない、何か壮大な形而上学を背後に感じさせる。シャヴィロはこの議論をハーマンの「第一哲学としての美学」という構想と突き合わせつつ、「思弁的美学」というアイデアとともに本書を締めくくる。その内容の当否を判断するにはシャヴィロの次著を待つほかないが、少なくとも本書は、思弁的実在論における根本問題のひとつを、ホワイトヘッドとともに示すことには成功していると言えるだろう。(上野俊哉訳)

2016年8月26日 新聞掲載(第3154号)
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