日本人は憲法九条と自衛隊にどう向き合ってきたのか?

シノドス国際社会動向研究所(シノドス・ラボ)ではシリーズ「来たるべき市民社会のための研究紹介」にて、社会調査分析、市民社会の歴史と理論、政治動向分析、市民運動分析、地方自治の動向、高校生向け主権者教育、などの各領域において、「新しい市民社会」を築くためのヒントを提供してくれる研究を紹介していきます。

 

今回は、過去70年にわたる世論調査のデータを徹底分析し、戦後日本人の憲法観の変容を明らかにした『憲法と世論』著者、境家史郎氏にお話を伺いました。(聞き手・構成 / 芹沢一也)

 

 

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日本国民は憲法九条を支持してきたのか?

 

――憲法制定当初から、日本国民は九条を支持していたと広く考えられています。しかしながら、これは根拠のない「神話」だとされていますね。

 

「憲法制定当初から九条は圧倒的多数の国民から支持されていた」という見方は、高度成長期以降、今日に至るまで、多くの批評家、研究者の著作に現れています。多くの場合、まったく無根拠にそう書かれているのではなく、当時の世論調査の結果を参照し、「客観的に言えること」として、そのように主張されています。

 

 

――世論調査の数字をもとにしているのですから、客観的ではないのですか?

 

ええ。世論調査の結果というのは、数値で表されるがゆえに、その引用によって議論に「客観性の外観」を与えます。具体的には、1946年5月に「毎日新聞」が行った調査の結果が、これまで何度となく参照されています。この調査では、「戦争放棄の条項を必要とするか」という質問がなされ、結果はたしかに賛成論が圧倒的多数(賛成70%、反対28%)になっています。

 

ところが、社会調査法の世界では常識ですが、世論調査の回答というものは、その微妙な方法の違いによって影響を受ける、きわめて繊細なものなのです。サンプリング(調査対象者の選定)の仕方、質問文の表現や選択肢の置き方、質問の順序といったさまざまな違いが、回答を左右します。

 

実際、改憲問題に関する過去の質問例をみると、改憲反対方向の選択肢の表現を、「一切、改めるべきでない」とするか「変えないほうがよい」とするかだけでも、回答結果は大きく違っていることが分かります。

 

ですから、世論調査の結果を引用し解釈する際には、その調査の方法的な面での特徴を十分におさえておく必要があります。

 

 

――なるほど、ただ世論調査の数字をあげれば、それで主張が客観的なものになるわけではないということですね。

 

その通りです。では、先ほど紹介した「毎日新聞」の調査はどのようなものであったのか? 

 

同紙の説明によると、この調査は「有識階級」を対象としたもので、回答者の9割弱が男性、約4割が大学卒業者で占められていました。他方で、農業従事者の割合は1割以下となっています。この標本は、当時の日本社会の「縮図」にまったくなっていません。質問文の表現などをどのように工夫したとしても、こうした調査で当時の日本人の「平均的」あるいは「全体的」な意見を探ることはきわめて困難です。

 

ではこの時期、国民の九条意識に関して、他にもっと信頼に足る調査がないのかと言われれば、それはおそらくありません。従来の議論ではもっぱらこの「毎日新聞」調査のみが論拠とされていますし、私が今回調べた範囲でも、たしかにこの時期(1940年代)、九条の是非について問う全国調査は行われた形跡がありません。

 

したがって、結局1940年代における有権者の九条意識は「不明」というよりなく、その意味で「憲法制定当初から九条は圧倒的多数の国民から支持されていた」という見方は「神話」だと言わざるを得ないのです。

 

 

一貫して強い自衛隊を保有することに対する支持

 

――それでは、少し時計の針を進めてお聞きしたいと思います。1952年、サンフランシスコ平和条約の発効によって日本は主権を回復します。境家先生は、このとき「最低限の防衛戦力保持の可否」に絞ったならば、九条の改正は通った可能性があったと推測されています。

 

はい。1950年代になると、無作為抽出法というサンプリングの技術が、各機関の世論調査で用いられるようになり、調査の質が大幅に改善されます。また50年代にはエリートレベルで改憲論争が高まったことがあり、九条問題を含め憲法関連の世論調査が増えてきます。この時期になって、はじめて国民の全体的な(平均的な)九条意識について、ある程度、信頼性の高い推測が可能になったといってよいでしょう。

 

それらの調査結果をみると、1950年代中葉くらいまでは、改憲派の有権者は護憲派より明らかに多く存在し、とくに「改憲による軍隊保有」論はかなり有力であったことがわかります。例をあげれば、主権回復直前にあたる52年3月に「毎日新聞」が行った調査によると、「軍隊を持つための憲法改正」に対し、賛成43%、反対27%という結果でした。

 

今日忘れられがちですが、当時は新聞論調でも、少なくとも九条については改憲容認論が主流であった時代です。この当時の社会風潮として、改憲再軍備論は異端でも何でもなく、ごく普通に存在した言説であったということです。こうした社会的文脈において、有権者の改憲志向が強くみられたことは、じつのところまったく自然なことであったといえます。

 

 

――当時は、やはり軍備は必要だという認識が普通だったと。ただ、それ以降、九条改正論は下火になりますね。

 

1950年代を通してみると、後期になるにしたがって、有権者のなかでもたしかに九条改正論は下火になっていきます。しかしこれは、間違っても自衛隊廃止論の高まりがあったことを意味するわけではありません。

 

自衛隊を保有することに対する支持は、戦後一貫して強く存在しています。50年代における九条改正論の後退は、むしろ、自衛隊・日米安保条約による安全保障体制の整備により、国民が九条を「許容」し始めたことを意味すると考えます。

 

 

――なるほど、自衛隊創設によって実質的に再軍備されたから、九条があってもオーケーだとされたということですね。この時期の新聞の論調はどうだったのでしょうか?

 

1950年代の新聞論調については梶居佳広氏が、地方紙を含め、きわめて詳細な検討を行っています。この研究によると、50年6月の朝鮮戦争勃発以降、九条改正・再軍備論が新聞各紙で広まったとのことです。新聞の改憲論調がもっとも強まったのは54年頃で、この時期には少なくとも九条については大多数の新聞が改正賛成の論陣を張っていました。

 

 

――それは意外です。

 

はい。ところがこの年を境に、新聞論調は変化を始め、徐々に改憲慎重論が強まります。その原因のひとつは、この時期に鳩山一郎ら保守改憲エリートが強く打ち出した「全面改憲論」にあります。ここでは九条改正・再軍備にとどまらず、人権制限や天皇元首化など復古主義的な改憲項目が含まれていました。

 

九条改正はやむなしとしていた各新聞も、こうした復古色の濃い改憲案には抵抗が強かったようです。地方紙については「一県一紙体制」、すなわち県民全体から広く読まれることを前提にしていた都合上、保革対立争点として先鋭化した改憲問題で一方に肩入れすることが難しくなった、という事情もあったようです。

 

 

――九条改正による再軍備は主権国家として当然視されていたものの、戦前型体制に回帰することには抵抗があったということでしょうか。

 

そうですね。それから、1950年代中期以降に新聞論調が変化したもうひとつの要因として、明文改憲なしに現実の防衛体制の整備が進んだということもあったかと思います。54年の自衛隊創設により、九条の早期改正の必要性が薄れたという認識は、鳩山首相など当時の改憲派エリートの言説からさえもみてとれます。こうした安全保障環境の変化は、当然、新聞論調にも影響を与えたでしょう。

 

そして、1955、56年の国政選挙の結果、護憲派勢力が3分の1以上の国会議席を占めるようになり、改憲発議の道が閉ざされると、自民党政権は改憲の早期実現方針を鈍らせるようになります。

 

こうした政界での流れもあり、この時期以降、マスメディアでは憲法問題について取り扱う機会自体が少なくなります。世論調査でみても、60年代になると、憲法に関する質問は全国紙でさえ行われなくなっていきます。高度成長期に入り、憲法問題への社会的関心は失われることになるのです。

 

 

「九条の平和主義」とは?

 

――60年代の高度成長期を経て、現行憲法の枠内での自衛隊・日米安保条約の運用が定着していきます。この時期、「九条の平和主義が国民に定着した」と言われますが。

 

これは「九条の平和主義」の具体的意味によります。「改憲による軍隊保有」論の退潮という意味であれば、1960~70年代、たしかにそうした世論の動きはあったといえます。

 

しかしそのことは、高度成長期に自衛隊否定論の高まりがあったことを必ずしも意味しません。現存しているデータをみる限り、自衛隊について、1960年代以降に廃止論が高まったという証拠はありません。むしろ、自衛隊を明記するためということであれば、改憲に対してさえ一定以上の支持が根強く存在したのです。

 

 

――それもかなり意外です。一般に広まっているイメージとはだいぶ違いますね。

 

たとえば80年に「朝日新聞」が行った調査では、「自衛隊を憲法ではっきり認めるよう、憲法をかえること」に対し、44%もの回答者が賛成しています。この数字は、巷間で思われているより、はるかに高いのではないでしょうか。

 

 

――戦後日本人の「平和主義」という言い回しはだいぶ割り引かなくてはまりませんね。

 

「九条の平和主義」が、当時社会党が主張していたような「非武装中立論」として理解されるならば、そうした安全保障政策が国民の多数から支持されていたなどとは到底いえません。

 

さらに、「憲法改正に賛成か」を一般的に問う質問でみた場合、1960~70年代、護憲派だけでなく、改憲派の有権者もまた「増えていた」ことが確認されます(その分、無回答者が減少しています)。これはかなり通念に反したデータではないかと思います。

 

 

――なんと、改憲派も増えていたんですね。それはどのような人たちだったのでしょうか?

 

私はこの時期に「増えた」改憲派の多くは、革新政党支持者が占めていたと考えています。

 

1950年代までは、保守政党支持者では改憲派が、革新政党支持者では護憲派が多い、というのが明確な傾向としてありました。ところが70年前後の調査結果によると、自民党支持者と社会党支持者、それぞれに占める改憲派の割合にはほとんど差がみられません。

 

つまり、60年代以降、一見不思議なことに、自民党支持者において護憲志向が強まり、社会党支持者において改憲志向が強まったという動きがあったようなのです。

 

 

――社会党支持者がですか?

 

はい。高度成長期に社会党支持者が改憲志向を強めた背景には、皮肉にも、社会党指導部による非武装中立論へのこだわりがあったと私はみています。

 

当時の調査から明らかですが、社会党支持者たちの多くは、非武装中立論に全面賛成していたわけではありません。しかし九条条文と現実の安保体制に不整合があるという、指導部の提起した論点自体は浸透していました。それがゆえに、社会党の支持者たちは改憲の是非を問われた場合、「九条か自衛隊・日米安保か」の二者択一を迫られたと感じたはずです。

 

その結果、少なくない社会党支持者が、九条改正賛成(あるいは自衛隊・日米安保維持賛成)の立場に回ったのだとみています。  

 

逆に、自民党については、政府与党として事実上「九条と自衛隊・日米安保体制の共存」を認める立場を取ったがゆえに、支持者レベルでも抵抗感なく、九条維持賛成の回答が行われるようになっていったと考えられます。【次ページにつづく】

 

 

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