左翼はなぜ負け続けるのか
社民党の党首選挙で立候補者がなく、告示をやりなおすことになった。国会議員はわずか4人で、党首が落選という状態では、誰も党首なんかやらないだろう。社民党の消滅は時間の問題だが、それ自体は大した問題ではない。深刻なのは立民党も含めて左翼が弱体化し、日本では政権交代が(見通せる将来に)不可能になったことだ。
左翼はずっとダメだったわけではない。終戦直後にはGHQは進歩的な社会党に期待し、政権党として育成した。1950年代の講和論争では、知識人の圧倒的多数が「全面講和」派で、論争では左翼が勝っていたが、政治的には勝負にならなかった。
最大の岐路は60年安保だった。各地で米軍基地反対闘争が盛り上がり、その元凶は不平等な安保条約だという反対運動が盛り上がった。知識人も学生も含めた大規模なデモが国会を包囲して岸首相を退陣に追い込んだが、それはまぐれ当たりだった。池田内閣で行われた1960年11月の総選挙では、自民党が296議席で圧勝したのだ。
ところが安保闘争を「大衆運動の勝利」と勘違いした社会党は、「護憲」を掲げた。このように憲法を争点に掲げたことが左翼の敗因だった。日本以外の先進国では、左翼(社民)の目玉政策はバラマキ福祉である。70年代の革新自治体はバラマキ福祉でローカルな政権交代を実現したが、社会党のスローガンは「非武装中立」だった。
大多数の国民にとって憲法なんか興味がなく、老人医療の無料化などのわかりやすい利益のほうが集票効果は高い。これに対して自民党も、田中角栄がバラマキ福祉に舵を切って「社民化」した。このへんで左翼には勝ち目がなくなり、90年代には社会主義が崩壊して社会党も崩壊した。
その後、社会党の残党が自民党の一部と合流した民主党は「遅れてきた社民」だったともいえるが、社民の黄金時代だった70年代に政権交代を実現できなかったため、官僚機構は自民党と一体化していた。2009年にやっと実現した民主党政権は、周回遅れのバラマキ福祉で自壊した。
立民党は60年近く遅れて意味不明の「立憲主義」を掲げているが、それはもはや争点として成り立たない。不平等な安保条約もすっかり定着し、憲法改正にも実質的な意味はないが、不毛な神学論争を卒業する通過儀礼としては意味があるかもしれない。
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