デスモンド、岸さんたち、いや「記述派」問題:社会学は記述すれば十分か?
以前、このブログで、「貧困ポルノ」問題というテーマで、アリス・ゴフマンとマシュー・デスモンドという二人の社会学者の、話題になっている著作を取り上げた。
その中で、エスノグラフィーが、実際に社会政策などを通じて社会を良くすることを志向せず、人の不幸をおもしろおかしく書いているだけでは「貧困ポルノ」と呼ばれても仕方ない、ということを書いた。
アメリカを代表するエスノグラファーで、アメリカ社会学会や国際社会学会の会長だったUCバークレーのマイケル・ビュラウォイが、最近の論文でこれに似た問題を深掘りしている。
記述派の台頭
アリス・ゴフマンやマシュー・デスモンドに共通する、最近の流行の一つに、社会科学が長い間関わってきた大きな理論化を嫌い、「社会学は地道な観察と記述だけでいいのだ」という流れがあるように感じる。
社会科学者の仕事には、記述・解釈・説明・などの要素があるが、記述派の特徴は、すごくざっくり言うと、記述のみに情熱を傾けている点だ。
ゴフマンのOn the RunやデスモンドのEvictedはまさにこの類いの書き物で、大きな理論的貢献を目指さず、ひたすら「リアル」な人々の暮らしを書くことに注力している。
二人の本には、フィラデルフィアやミルウォーキーで自分たちが観察したことがらが、社会学理論の先人たちの言っていたことと、どのような関係があるか、という話はほとんど出てこない。
自分の出身校である、アメリカの超エリート高校の生活の描写を通して、アメリカのエリート像の変容を描いた「Priviledge」の著者で、コロンビア大学社会学部のシャームス・カーンも同様の方向を目指しているのか、最近、『Less Theory. More Description.』という論文をだして「社会学は理論的革新について心配するよりも、もっと現実の描写について考えるべきだ」と言っている。
また、アメリカだけでなく、日本でも、最近、at plusや、現代思想がエスノグラフィーの特集をしたり、特に社会学者の岸政彦さんと、『裸足で逃げる』の上間陽子さんなど、「記述派」作品群が注目を集めていると感じる。
勝手に「岸さん系」と言うと誰かに怒られそうだが、それらの特集号に書いていた軍団の方たちの作品も、理論的な難しい概念はださないで、とにかく実際に起きていることをちゃんと描こう、という雰囲気がある。
もともとエスノグラフィーは、文学と科学のあいだでアイデンティティが揺れ動いているし、Zora Neale Hurstonのように、延々と、その場で起こったことだけを記述するようなジャンルというのもある。
しかし、こと最近の社会学においては、理論もしくは方法論への貢献の度合いでその作品の善し悪しがはかられることが多く、エスノグラフィーでもだいたい、理論的に議論を作ったものが多い。これほど理論に言及していない作品が、同時期にこれほど大きな話題になっている状況というのは、注目に値すると思う。
で、記述だけでいいのか?
記述派のいいところは、読みやすいということに尽きるのではないか、と思う。
上の本たちが、広く研究者や大学院生以外からも読まれているのは、決して偶然ではないだろう。だっておもしろいし。
社会科学の本や論文は、書き方がひどすぎるという批判をよく聞く。学者が、謎の理論用語をのべつまくなしにぶち上げるのが、読みにくい一因ではないかと思われる。うまく書く、という点については、本当にこういう著者の人たちから学びたい。
しかし、問題は、記述だけでいかに広く社会に貢献できるような書き方をできるかという点にある。
『The Politics of Production』や『Global Ethnography』といった本が有名な、労使関係のエスノグラファー、マイケル・ビュラウォイは、最近『On Desmond: The Limits of Spontaneous Sociology』という、デスモンド本人をターゲットにした論文を出した。超大物に目をつけられるって、マジで怖いね…。
この論文でビュラウォイは、デスモンドが「Relational Ethnography」と呼ぶ彼の方法論は、実際には、「フィールドに行けば真実がわかる」というような昔のシカゴ学派のナイーブな実証主義への回帰だと、手厳しく批判している。
ビュラウォイが主に批判するのは、ざっくり言うと、1)デスモンドが理論を全然使わないこと、2)比較という論理が全くないことだ。都市住宅の歴史や、その地域の政治・経済の分析など、もっと深い構造的要因を組み合わせた「Structural Ethnography」が必要なのだという。
記述偏重の結果として、「社会への貢献」という観点に関しても、まったく間違った方向性に行ってしまっているのだそうだ。デスモンドは、低収入の人たちが収入の30%を払い、政府が残りを払うバウチャー制度の導入を訴える。
しかし、ビュラウォイは、「問題がつくりだされる広い経済的・政治的状況に目を向け、手頃な値段で住める住宅の不足という根本的な原因を解決しない限り、デスモンドの提案するバウチャー制度はすでに存在しているのと同様の搾取を再生産することにしかつながらない」とバッサリ切り捨てる。
さて、どうするか…?
ビュラウォイの批判は、デスモンドに向けられているが、上の「記述派」の人たちの作品に多かれ少なかれ当てはまると思う。
理論や、広い社会構造の分析を軽視した結果、記述派は世の中に有益な情報をもたらさない、とはかなり厳しい批判である。
しかし、記述派の本はおもしろい。ビュラウォイが言うような読みにくい社会科学本とは異なるオーディエンスを獲得していることは、僕にはかなり重要なことのように思われる。いいことを書いていても、誰も読んでいなかったら話にならないし。
最近、動物解放運動で有名な哲学者、ピーター・シンガーの本を読んでいて度肝を抜かれたが、この世界にある論文というのは、平均すると1本10回しか読まれないという。とほほ…。
記述、社会構造、理論を、読みやすさを損なわない形で融合できればいいのだろうが、「言うは易く…」というやつで、かなり難しいことのようだ。現時点では、ほとんどの人は、記述派ほど極端なポジションを取る必要はないのではないか、という単純な疑問がある。
その中で、エスノグラフィーが、実際に社会政策などを通じて社会を良くすることを志向せず、人の不幸をおもしろおかしく書いているだけでは「貧困ポルノ」と呼ばれても仕方ない、ということを書いた。
アメリカを代表するエスノグラファーで、アメリカ社会学会や国際社会学会の会長だったUCバークレーのマイケル・ビュラウォイが、最近の論文でこれに似た問題を深掘りしている。
初期シカゴ学派の手書き賃金地図 |
記述派の台頭
アリス・ゴフマンやマシュー・デスモンドに共通する、最近の流行の一つに、社会科学が長い間関わってきた大きな理論化を嫌い、「社会学は地道な観察と記述だけでいいのだ」という流れがあるように感じる。
社会科学者の仕事には、記述・解釈・説明・などの要素があるが、記述派の特徴は、すごくざっくり言うと、記述のみに情熱を傾けている点だ。
ゴフマンのOn the RunやデスモンドのEvictedはまさにこの類いの書き物で、大きな理論的貢献を目指さず、ひたすら「リアル」な人々の暮らしを書くことに注力している。
二人の本には、フィラデルフィアやミルウォーキーで自分たちが観察したことがらが、社会学理論の先人たちの言っていたことと、どのような関係があるか、という話はほとんど出てこない。
自分の出身校である、アメリカの超エリート高校の生活の描写を通して、アメリカのエリート像の変容を描いた「Priviledge」の著者で、コロンビア大学社会学部のシャームス・カーンも同様の方向を目指しているのか、最近、『Less Theory. More Description.』という論文をだして「社会学は理論的革新について心配するよりも、もっと現実の描写について考えるべきだ」と言っている。
シャームス・カーン |
また、アメリカだけでなく、日本でも、最近、at plusや、現代思想がエスノグラフィーの特集をしたり、特に社会学者の岸政彦さんと、『裸足で逃げる』の上間陽子さんなど、「記述派」作品群が注目を集めていると感じる。
勝手に「岸さん系」と言うと誰かに怒られそうだが、それらの特集号に書いていた軍団の方たちの作品も、理論的な難しい概念はださないで、とにかく実際に起きていることをちゃんと描こう、という雰囲気がある。
岸政彦さん |
もともとエスノグラフィーは、文学と科学のあいだでアイデンティティが揺れ動いているし、Zora Neale Hurstonのように、延々と、その場で起こったことだけを記述するようなジャンルというのもある。
Zora Neale Hurstonの本には、「なんなんだこの話は?」という記述が延々と続くやつがある。 |
しかし、こと最近の社会学においては、理論もしくは方法論への貢献の度合いでその作品の善し悪しがはかられることが多く、エスノグラフィーでもだいたい、理論的に議論を作ったものが多い。これほど理論に言及していない作品が、同時期にこれほど大きな話題になっている状況というのは、注目に値すると思う。
で、記述だけでいいのか?
記述派のいいところは、読みやすいということに尽きるのではないか、と思う。
上の本たちが、広く研究者や大学院生以外からも読まれているのは、決して偶然ではないだろう。だっておもしろいし。
社会科学の本や論文は、書き方がひどすぎるという批判をよく聞く。学者が、謎の理論用語をのべつまくなしにぶち上げるのが、読みにくい一因ではないかと思われる。うまく書く、という点については、本当にこういう著者の人たちから学びたい。
しかし、問題は、記述だけでいかに広く社会に貢献できるような書き方をできるかという点にある。
『The Politics of Production』や『Global Ethnography』といった本が有名な、労使関係のエスノグラファー、マイケル・ビュラウォイは、最近『On Desmond: The Limits of Spontaneous Sociology』という、デスモンド本人をターゲットにした論文を出した。超大物に目をつけられるって、マジで怖いね…。
この論文でビュラウォイは、デスモンドが「Relational Ethnography」と呼ぶ彼の方法論は、実際には、「フィールドに行けば真実がわかる」というような昔のシカゴ学派のナイーブな実証主義への回帰だと、手厳しく批判している。
笑うマイケル・ビュラヴォイ |
ビュラウォイが主に批判するのは、ざっくり言うと、1)デスモンドが理論を全然使わないこと、2)比較という論理が全くないことだ。都市住宅の歴史や、その地域の政治・経済の分析など、もっと深い構造的要因を組み合わせた「Structural Ethnography」が必要なのだという。
記述偏重の結果として、「社会への貢献」という観点に関しても、まったく間違った方向性に行ってしまっているのだそうだ。デスモンドは、低収入の人たちが収入の30%を払い、政府が残りを払うバウチャー制度の導入を訴える。
しかし、ビュラウォイは、「問題がつくりだされる広い経済的・政治的状況に目を向け、手頃な値段で住める住宅の不足という根本的な原因を解決しない限り、デスモンドの提案するバウチャー制度はすでに存在しているのと同様の搾取を再生産することにしかつながらない」とバッサリ切り捨てる。
さて、どうするか…?
ビュラウォイの批判は、デスモンドに向けられているが、上の「記述派」の人たちの作品に多かれ少なかれ当てはまると思う。
理論や、広い社会構造の分析を軽視した結果、記述派は世の中に有益な情報をもたらさない、とはかなり厳しい批判である。
しかし、記述派の本はおもしろい。ビュラウォイが言うような読みにくい社会科学本とは異なるオーディエンスを獲得していることは、僕にはかなり重要なことのように思われる。いいことを書いていても、誰も読んでいなかったら話にならないし。
最近、動物解放運動で有名な哲学者、ピーター・シンガーの本を読んでいて度肝を抜かれたが、この世界にある論文というのは、平均すると1本10回しか読まれないという。とほほ…。
記述、社会構造、理論を、読みやすさを損なわない形で融合できればいいのだろうが、「言うは易く…」というやつで、かなり難しいことのようだ。現時点では、ほとんどの人は、記述派ほど極端なポジションを取る必要はないのではないか、という単純な疑問がある。
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