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100人の女によるもう一つの意見(ルモンド紙2018年1月8日版への寄稿記事の日本語訳)

 今年の1月8日にフランスのルモンド紙に寄稿された100人の女性による文章は一つのスキャンダルになりました。その100人の中に有名な女優のカトリーヌ・ドヌーヴがいたたために必要以上に騒がれた感がありますが、この文章の起草者や署名者の名前を見ると出処は明らかです。作家のアラン・ロブグリエの妻として知られるカトリーヌ・ロブグリエは作家ですがフランスのSM界で知られる存在であり、ジャーナリストのペギー・サストルはエロチックな本を出版するラ・ミュザルディーヌ社から数冊本を出しています。また、署名者に名を連ねる名物ジャーナリストのエリザベート・レヴィは売春の顧客を罰する法律に反対する署名運動を展開したことがあり、ブリジット・ラエーは元ポルノ女優で、ポルノを引退した後も最も成功した人です。

 つまりアンシアンレジームにおいて宗教権力に楯突いたリベルタンのように、現代のリベルタンが一種の教条主義に異を唱えるという形になっています。リベルタン(libertins)は文学用語では反教会権力の自由思想家という意味ですが、現代語では「自由な性生活を営む者」の意味になっています。この文章に署名した女性たちは必ずしも自由な性生活を営むものではないとしても、そのような生き方をする人の生き方を尊重するということでしょう。文学用語においても現代語の意味においても、リベルタンは良識派の人間によってつくられる社会の鼻つまみです。そのような鼻つまみが書いたものとして読まなければ、この文章を読み間違えることになるでしょう。

 残念ながらこの文章の意図はほとんどの人に(擁護者にすら)読み取られなかったようです。ルモンド紙がつけたという「私たちが擁護する嫌がらせの自由は、性の自由のためになくてはならないものだ」という題名の中にある「人を嫌がらせる自由(liberté d’importuner)」が隠している遊戯性がわからなかったのでしょう。この「不快なことをする(importuner)」という動詞には「時宜を得ない行いをする」というニュアンスがあります。つまりこの文章をミートゥー運動が活発なこの時期に発表することこそが、まずいタイミングで人々を嫌がらせる行為であり、そのような行為の自由をこそこの文章は弁護しているという重層性があるのです。それでも人はこれを男性が女性にうるさくつきまとうこととしか理解していないようです。

 もっともペギー・サストルはこの題名はルモンドが勝手につけたものであり、もともとの題名は「100人の女によるもう一つの意見」というものだったと云っています。ミートゥー運動に反対するものではなく、今の言説にもう一つ別の言説を付け加えるのがこの文章の目的であり、この「嫌がらせる自由」はこの文章の中心ではないということです。よって私はそれを題名としました。

 この文章は反対者を認めない単一思想を批判するものですが、それでもこの単一思想の拘束力は強く、この文章に対してはアレルギー的な反応が相次ぎました。「この文章のいちばんの問題は誘惑と性的暴力をごっちゃにしていることだ」という批判が多いですが、この文章の後半にはちゃんと「私たちにはそれを混同しないだけの判断力がある」と書かれています。批判者は文章を最後まで読むことなく批判し、しかもそれが反復されているのが実態なのではないでしょうか。

 私がこの文章を翻訳するのは、この文章に書かれている表面的な内容を担保するためではなく、言説の複数性が絶対に存在しなければならないというこの文章の真意を汲むためです。

 以下が翻訳になります。


 強姦は犯罪ですが、しつこく言い寄ることは、たとえその言い寄り方がまずいものであったとしても罪ではなく、また、レディーファーストは男性原理にのっとった暴力行為ではありません。

 ワインスタイン事件をきっかけとして、女性に対する性的暴力の問題の認識が広まるようになりましたが、これは正当なことでした。特に権力を濫用する男性が存在するような業界においては正当なものだったと云えます。この事実の認識が広まるのは必要なことでした。ところが自由に発言できるなったはずが、今度は反対の事態が生じているのです。何を話すべきかが強制され、不都合なことは口にしないように命じられ、こういった命令に従おうとしない女性は裏切り者、男性の共犯者と見なされるようになってしまったのです。
 しかるにピューリタニズムの本質とは、公共の福祉とやらの名目で女性庇護と女性解放の議論をし、その議論によって女性が永遠の犠牲者の立場から前にも増して離れられないようにするものなのです。大昔の魔女のように、男性支配の悪魔の影響下にある哀れでちっぽけな存在のままでいるようにいうのです。

相次ぐ密告と糾弾
 事実、ミートゥー運動はマスコミとSNSにおける密告と公の場での糾弾の一大キャンペーンを引き起こすことになりました。ここで非難された者たちは、口答えしたり自己弁護したりする余地が残されることもなく、暴行犯と全く同様の存在と見なされることになりました。このスピード裁判は既に犠牲者を出しています。職場で懲戒処分になったり、辞職を強いられたりする男性が現れていますが、この男性たちが犯した過ちといえば、膝を触った、キスしようとした、仕事上の食事で「プライベート」な話題をした、性的なニュアンスのメールを送ったなどということでしかないのですが、その二人は互いに好意を抱いているわけではなかったということが問題なのです。
 このようにミートゥー運動が熱狂のうちに「豚野郎ども」を屠殺場送りにしたところで、それは女性の自律の役に立つことがなく、実際には自由な性の敵を利するばかりなのです。その敵とは、過激派の宗教信者や最悪の反動主義者です。これは、実体的な理解に基づく善の概念と、そのような善の概念とうまく折り合いがつくヴィクトリア朝時代風の偽善的で厳格な道徳観の元に、女性は別にとって置かれるべき存在、つまり庇護を必要とする大人の顔をした子供であると見なす人々なのです。
 この現象を前にした男たちは罪におののいて、記憶の奥底まで遡り、10年、20年、30年前にしたかもしれない「不適切な行い」を探し、それについて後悔しなければなりません。公衆の面前での懺悔が求められ、私的空間に自選検事がずかずか入り込んでくる。これとともに全体主義社会の空気のようなものが垂れ込めてきているのです。
 浄化の波はとどまるところを知らないかに見えます。ポスターのエゴン・シーレの裸像が検閲され、小児性愛を擁護するものではないかという理由によってバルチュスの絵の展示の中止が要求される。人と作品が混同され、シネマテークにおけるロマン・ポランスキー回顧上映の禁止が要求され、ジャンクロード・ブリソーの回顧上映は延期が決まる。ミケランジェロ・アントニーニの『欲望』は「女性差別的」で「到底容認できない」と女性の学者が断じる。このような価値観の書き換えの前では、ジョン・フォード(『捜索者』)どころかニコラ・プーサン(『サビニの女の略奪』)までも平気ではいられないでしょう。
 私たちの中にも次のような要求を出版社から受けたという人が既に出てきています。作中の男性の登場人物の女性差別を弱めてほしい、男性の登場人物が性愛についてこんなに過激な話し方をしないようにしてほしい、さらには女性の登場人物が受けたトラウマをもっとはっきり書いてほしい、云々。性的行為に及ぼうとする者には書面による同意が必要であるようにしようとするスウェーデンの法案にいたっては滑稽の極みです。二人の大人が同衾しようとする際には、何をされてもいいか、どういう行為は拒むかの細かいリストを前もって携帯電話のアプリでチェックする時代があと一歩でやってくるでしょう。

人の感性を傷つける自由の必要性
 哲学者のリュヴェン・オジアンは芸術的創造に必要不可欠である自由、人の感性を傷つけることの自由を弁護しました。 同様に私たちは性の自由に必要不可欠である嫌がらせることの自由を弁護します。今日の女性は性的衝動がもとより攻撃的で野蛮なものであるということに同意できる程度の経験を積んでいますが、それと同じく口説き下手と性的暴力行為の区別ができる程度の判断力も備えています。
 特に私たちは人間が一枚岩ではないということを理解しています。仕事のチームリーダーとして働いたその日に男性の性的対象になり、だからといってそのために自分のことをあばずれだとか家父長制の卑劣な共犯者だとか感じないでいられる女性もいます。この女性は自分の給料が男性社員の給料と同等であるように気を使うと同時に、確かに痴漢は罪だけれど、地下鉄で痴漢に遭ったことの傷跡をいつまでも背負わないでいることもできます。この女性には、これは重大な性的貧困の表出で、これには事件性がないと考えることもできます。
 私たちは女性として、権力濫用の告発にとどまらず、男性と性に対する憎悪の形をとるフェミニズムの中に自らの姿を認めることができません。性的な誘いを断る自由は、嫌がらせる自由なしには存在し得ないと私たちは考えます。獲物役にとどまって閉じこもっているだけでなく、この嫌がらせの自由に対応できなければいけないと思います。
 私たちの中で子供をもつことを選んだ女性については、娘たちに十分に情報を与えてしっかりした意識をもつように育て、脅しつけられたり罪の意識を押しつけられたりされることなく、人生を十全に生きられるようにしてやることの方が賢明だと考えます。
 身体が触られるという事件は、必ずその女性の尊厳を傷つけるというものではなく、ときにはそれが辛いものになるとはいっても、そのために必ずその女性が永遠の犠牲者になるというわけではありません。それは私たちの存在が身体に還元できるものではないからです。私たちの内なる自由は不可侵のもので、この私たちにとって大切なこの自由は、必ずリスクと責任を伴うものなのです。