義兄 正力亨氏の死を悼み・・・
義兄が亡くなり、私は、精神的な大きな砦を取り壊されたような、心細さと淋しさを感じています。
私が義兄に初めて逢ったのは18歳のとき、義兄は42歳。私と姉とは年が離れており、姉が結婚を決めた義兄との年の差も15、6歳離れていました。義兄は私が初めて出逢った父以外の異性の社会人だったのです。
42歳の社会的立場のある男性の落ち着きと優しさを兼ね備え、私はすぐに心惹かれてしまいました(私が気に入っても何もならないのですが)。そして義兄も、将を射んと欲すればまず馬を射よ、の諺の如くに、姉に気に入られる為には、やんちゃそうな妹をまず落とさせなくてはと思われたのでしょう。私にはこの上なく頼もしい存在でした。
毎日のように姉に逢いに家を訪れる、そのときは単なるお見合い相手、結婚候補であった兄に、真底なつき、姉に対しても「ねえ、結婚してよ」等と、言ったりしたものです。
私が知っていたのは、お父様が読売新聞を創られた立派な方だとか。でも高校生の私には、そんな社会的なこと全然興味ありません。義兄(正力亨)は、巨人軍オーナーとして就任4年目にして巨人軍をリーグ優勝に導き、32年の長きにわたって巨人軍のオーナーとしてⅤ9を含むリーグ優勝18回、日本シリーズ制覇12回を果たし、まさに長嶋、王選手を中心とした黄金時代を築いたのです。でもそれも、義兄が亡くなった後、記事を読んで知ったのです。私はあまり野球には関心がなく、でも好きな兄のために勝って欲しいと望んでいました。
日曜日、義兄がベッドで寝転んでいると、私も横になって、「ヤッコがね」、そう言って、つまらないおしゃべりをして過ごしました。穏やかで幸せな充実した時間が過ぎていきました。散歩するとき、いつも義兄の腕にしがみついていた私。私の甘くも楽しい青春時代でした。
結婚式の親戚代表の挨拶で、「僕たちの可愛がっていたヤッコちゃんを今度は池坊の方々が可愛がってあげて下さい」と言った兄。穏やかな美しい京人形を贈ってくださり、「ヤッコ、腹が立つ時は、この優雅な顔を見て心を鎮めなさい」と。父と兄、義理の弟と、3人の男性はいつも大きな砦となって私を守り、私を励まし支えてくれました。
父を失い、義弟を失い(弟といっても私より年上です)、今、又、兄を失い、「ヤッコがね」、そう言って甘えられる存在もなくなりました。何も望まない、存在してくれているだけでよい。そんな大人たちが去って、真底淋しい限りです。
何回となく病院を訪れた際、「ヤッコ、お兄様」、と言うと目を大きく見開き、顔でいつものように、「うん、ヤッコか」、と答えてくださいましたが、亡くなる3日前、目を見開いた後、荒い息の中、目をつぶる兄を見て、なぜか、この病院を訪れるのも最後と思いました。もう苦しそうな兄は見ていたくない。そう思ったのです。
自宅に戻された兄は、いつもの穏やかな優しい兄の顔でした。うっすらと目を見開いているようで、私は帰るとき、そんな兄に、「お兄様、ヤッコ、もう帰る。また来るし」、と思わずいつもの調子で言ってしまいました。人はどんな死を迎えるのが一番幸せなのか。自分の意志だけでは死を迎えられません。人生で最も難しい事かもしれません。
兄をこよなく愛していた姉や家族たちは、1日でも、1秒でも長く生きて欲しいと願ったことでしょう。ソフトバンク球団会長の王貞治さんが、一番良い時代をご一緒に過ごせた事は私にとっての誇りですと語っておられたのを聞いて、私も妹として一緒に過ごせた月日を幸せだったと、思わず涙が出ました。
兄もオーナーとして良き協力者に恵まれ、何よりも家庭的で、決して兄を残して家を空けることのなかった優しい、献身的な姉や、娘、息子たちに恵まれた幸せな一生だったと思います。
一人の男性としては、社会人として、偉大な父を持ち、大企業の中で、時として許し難い辛い思いを抱かれたこともあったかもしれません。しかし天真爛漫で少年のような純の心を持ち、尊大になることも、偉大な父にコンプレックスを持つことなく、自然体に、素直に生きた兄。やはり兄は天性の運を与えられた幸せな方だったのかもしれません。
人は与えられた環境の中でどう生きるのか。あるがままの境遇を受け止め、媚びず、威張らず、卑屈にも尊大にもならず、人の評価に心乱されることなく、生きていけたら幸せです。でもそんな人生を送れる人はほんのわずかかもしれません。
淋しく、且つ様々なことが心をよぎるこの数日です。