ピザはとにかく心をぶつけるんですよね。「食べ物に魂を入れる事ができるんだ」とナポリで本当に学びました。 |
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ディ・マティオのピザを食べて、初めて「働きたい。これで勝負したい」と思ったんですよね。 山本さんがイタリア料理と出会ったきっかけは? 18才の時に親と喧嘩をして、静岡の清水にある実家から家出して、東京に出てきまして(笑)、親戚の家をあてにして来たんですけども、さすがに1週間も居るとお金も無くなり、そろそろ何かしなきゃいけないと。賄い付きで働き口を探そうと思って少しだけ土地勘のあった下北沢をうろちょろしていたら、チラシを拾ったんですよね。それがたまたまイタリア料理屋さんだっただけなんです。そんなきっかけでしたが、3~4年居て段々イタリアという国に対して特別な感情を持つようになって、自分との葛藤が始まったんです。色んなお客さんが来て「美味しいよ」と言ってくれたとしても「これが本当にイタリアで食べられているものなのか」って。自問自答ですよね。それで若さもあって21才の時イタリアに行っちゃいました。とにかく食べてみようというだけで(笑)。 真っ直ぐですね(笑)。それが1999年のことですね。 はい。1日に使うのは2,000円までと決めて、ローマから北へ、フィレンツェ、ボローニャ、パルマ、ヴェネツィア、ミラノ…どんどん上って行くに連れ、料理も段々変わって行くんですよね。気付くと4ヶ月近く過ぎていて、イタリアの味も分かってきて、美味しいものも食べたし、そろそろいいかと思い始めた頃、いきなりミラノのバールで会った女性に「ピッツァ食べた?」と聞かれたんです。「ローマでもフィレンツェでも食べたよ。美味しいよね」と言うと「ナポリは?」とその子が言うので「ナポリは行ってない」。すると「ナポリの食べてないんでしょ?じゃ食べてないってことだよ」と。その子はナポリターナ(ナポリの女の子)なんですよ。ナポリの人達にとって、ピッツァは誇りなんですよ。 絶対に譲れないんだ(笑)。 それで、ナポリで美味いと言われるピザ屋が集まるところに行きまして。スパッカ・ナポリと呼ばれる地域ですね。コルソ・ウンベルト通りからヴィア・ドゥオーモ通りに入って、そこをを横切るヴィア・トリヴナーリという道があるんです。それが“ナポリを真っ二つに割った”という意味の“スパッカ・ナポリ”。旧市街ですね。そこで初めてピッツェリア“ディ・マティオ”に入りまして、もう衝撃でしたね。 その時点では「ナポリでピザを食ってやろう」くらいの気持ちだったんですか? そうですね、正直「そんなに美味いのかな?」って(笑)。日本人の僕としては冷凍ピザみたいなイメージがあったので、それに比べたらローマは遥かに美味しかったよと。ところがナポリで驚いたのは、あの食感のピザは食べたことが無かったんですね。カリッというのかモチッというのか、独特で、確かに癖になる味で、しかももの凄いスピードで焼くんですよ。最初食べた時「絶対作り置きしたな。なめやがって」と思って手に取ると、火傷するぐらい熱かったんですよ。「随分ハイテクなレンジでも使ったのかな?」と。ところがどっこい美味いんですよ!1枚目をペロッと食べてしまって、もう1枚頼んで今度は作るところを見てたんです。そしたら、釜の中から手品のように7枚ぐらいのピザが出て「これは本物だ」と思いましたね。これがびっくりする程美味しくて、すっかり「ディ・マティオ」の虜になっちゃいました。そこで初めて「働きたい。これで勝負したい」と思ったんですよね。 ナポリのピザ屋は親方に付いてきた何十年来のお客さん達にもプライドがあるんです。(山本) その21歳で訪れたナポリで出会った「ディ・マティオ」。働きたいと願い出たものの断られて帰国された後、偶然ローマの知り合いの紹介で、憧れのお店で働けるチャンスが巡ってきたそうですが、再びイタリアに向かったのは何歳の時でした? 26歳ぐらいですかね。それでローマに着いたら、電車の中でその知人から「ごめんなさい、話が駄目になった」とメールが入りまして「え!? 僕荷物も持ってきたし、アパートも決めちゃったのに」と言うと、相手は「私が血眼になってもあなたの仕事先を探す」と言ってくれたんですけど「駄目だ、「ディ・マティオじゃなければ来なかったんです」と話して、僕はこの目で確かめないと納得出来なかったんですよね。それでナポリへ行って「駄目だ」と直接言われて、がっくりしてアパートへ帰ってきたら、アパートの大家さんが「どうしたんだ?」と。経緯を話すと「分かった。じゃ美味しいピザを食べに行こう」と案内してくれまして。そしたらディ・マティオの方に向かって歩き出したんですよ。 ほう。 そしたらディ・マティオの20m手前のピザ屋に入ったんですよ。それを食べたら、美味いんです。しかもディ・マティオと全く同じ味。大家さんに聞いたら「だってこれ兄ちゃんが作ってるから」と。ディ・マティオで一番偉い親方、マエストロをやってた人が独立した店がここなんだよと。「お前ディ・マティオで働きたいんだろ?でも駄目だったんだろ?でも本当のディ・マティオはこっちだよ」と、それが「イル・ピッツァイオーロ・デル・プレジデンテ」という店だったんですね。もう僕は鳥肌が立っちゃいまして「ここで働きたい!偉い人に会わしてくれ」と言うと、大家さんが「今話すから待ってろ、俺が話しつけてやる」って(笑)。 その大家さんの気質がナポリ人ぽいね(笑)。 そしたら、僕が食べたディ・マティオの時に居たマエストロ、エルネッソ・カチャーリさんが「OKだけど働くには許可証が色々要るから、それを持ってきたら雇ってやる」と。ディ・マティオは弟さんの店で兄弟の仲が悪いとナポリでは有名な話で「ディ・マティオを辞めて、新しい店出して勝ってやるよ」ってエルネッソさんは店を出したので、ディ・マティオに断られた話をしたら火が点いちゃって「うちに来い!」って(笑)。それから大家さんが色んな書類を集めてくれて、エルネッソさんに見せたら「明日の朝4時半に来い。そこからお前の仕事だ」と言われて、スタートしたんですよ。 先ずはどんな仕事ですか? 先ずは生地を作るから、見に来いと言われました。でも11~13才の子も居て、凄い悪ガキが一杯いるわけです、僕は初めて自分が日本人なんだと働いて痛感しましたよね。「生地を作るところを朝4時半に見せてもらって夕方で終わるのかな」と思ってたんですけど、そうもいかない空気なんですよね。掃除もしなきゃいけないし、その若い子達が仕事を僕に押しつけてきて「トマト切れ」「モッツァレラ切れ」「バジルむしってみろ」とか下拵えですよ。東京に居る時は若い子達にやらせてたことを、僕がずっとやってるわけですよ。営業が始まれば、親方の横に付いて黒子のように「粉持ってこい」「薪漏ってこい」って力仕事をやってると、営業が終わって25時になってるんですよ。 朝4時半から働いて、片付けたらもう深夜2時ですか! そう。そのぐらいまで働いて家帰って、その日に言われて分からなかった言葉を油性ペンで手にメモっておいたんですけど、次に同じ事言われて答えられなかったら仕事くれなくなるんですよ。だから眠いけど調べて。で、また朝4~5時に行って、親方の生地作りを横で見るんですよ。で、また若者達と雑用をしながら…それをずーっと繰り返してたんですけど、他に僕ほど働いてる人間は居ないんです。ナポリ人はそんなに働かないんで(笑)。 それは周りの見る目も変わってきますよね? えぇ。休み無しで1ヶ月半ぐらいやったときに、ある日、僕を本当に馬鹿にしてたような若い子が「いいよ、それもこれも俺やるから、お前は親方の所で見てろ」と言ったんですよ。それからです、段々僕に気を遣ってくれるようになって、それを多分親方達は見てたんでしょうね。マエストロ達が認めれば下も認めるわけですけども、その逆もある訳ですよ。下の子達が認めたなら、マエストロ達はお前をちょっと呼んでやるよって話で「じゃ、お前賄い焼いてみろ」と言われて「来たぁ!」と。こんなこと無いなと思いましたね。何年も働いてまだ生地に触れない人達が一杯居る中で、僕は4人ぐらいいる親方達の賄いとして2枚焼かせてもらいました。 緊張しますね。 はい。マシュマロのような今まで慣れてた気がしてたピザ生地が初めて触った時の様な何とも言えない感じで緊張で記憶が無いんですけど、気付いたら2枚焼き上がってて「美味いじゃないか、出来るじゃないかお前」って。そこからですね、日本人やアメリカ人の観光客が来ると、たまに僕に焼かせてくれるようになったんですよ。 でもナポリ人のお客さんにはまだ焼かせないんだ? まだ焼かせてくれないんですよ(笑)。で、暫くしてナポリ人の常連さん達が来たときに、少し焼かせて貰った時に「お前なんかのピザが食えるか」って卵投げられたことがありましたね。親方に付いてきた何十年来のお客さん達にも老舗のプライドがあるんです。でも数ヶ月くらい経った頃、お客さんに同じように言われた時に、親方達が怒ってくれたんですよ。「うるさい!黙ってこいつのピザを食え!美味いから」って。親方が言うとお客さんも渋々食べてみたら「まあまあ美味いじゃないか」と。それから段々中に入って行けたというか。 凄いな。でもナポリは特に郷土愛の強い人達だから、国籍が違う山本さんでも自分達のファミリーとなったら、それはまた強いでしょう? 仰る通りで、ナポリの方達は一見悪いイメージもあるんですけど、本当に暖かいんですよね。 クリントンさんが本当に喜んでくれて「イル・ピッツァイーロ・デル・プレジデンテ=大統領のためのピッツァ職人の店」を出したんだそうです。(山本) ピッツァの世界選手権に出たきっかけは? 修行している時に、エルネッソさんから「お前はこれからどうするんだ?もし住むんだったら、俺のアパートの隣が空いてるからそこに住め」と言われたんですね。で「お前はここに来た時点で技術はそんなに悪くない。今はもっと大事なハートをちゃんと持っただろ?多分最初はちょっと違う気持ちで来てたんじゃないか?今はどうだ?」と質問されて、僕は「ハートでピザを作るということを、プレジデンテで働かせて貰って学んだ」と答えたら「じゃ帰れ」と言うんです。1 帰れですか。 「帰って、お前の店を作るのもそうだし、今度は日本にそういう気持ちでやるんだって教えなきゃいけない。必要なのは技術とかと思ってる子達が今一杯居るだろう。本当は違うんだ。お前はここで経験したことを、ちゃんと伝える。それがお前のこれからの大事な仕事だ。俺のハートをお前は受け取ったんだから、今度はお前のハートを渡せ」とそういう風に言われて。確かに僕は一杯一杯で自分のことばかり考えてたんですよ。でももっともっと日本にナポリピッツァを広げたい気持ちは、少しずつ芽生えてたんですよね。こんな素晴らしい文化があり、こんなに美味い食べ物は、ちょっと間違った形で日本に入ってるわけですよ。 そうですよね(笑)。 そこで1回帰って、もともと居た店で働いたんですけども、その矢先に「大会があるんだけども、お前出るか?」という電話をエルネッソさんから頂いて。僕は「とんでもない」と言ったんですが「お前は経験しなきゃ駄目だ。勿論修行も大事だが、大会には世界のピッツァ職人達が集まるから、お前に電話したんだ。イタリア人じゃなく、日本人のお前に」と言うわけです。それが心に響いて「日本人であることをもっと自覚しなきゃいけないな」と思ったのをきっかけに出てみようと。大会はとにかく緊張して、でもエルネッソさんがずっと僕の横についててくれて、僕が作ったピザの説明とかを、審査員に伝えなきゃいけないんですけど、ナポリの方は訛りがあるので細かい部分の説明が難しい部分があるんですけど、僕の一生懸命な説明以上に、エルネッソさんが説明するんです。それもあって、優勝することが出来ました。本当に運だと思うんですけどね。 託してるんだね(笑)。山本さんがチャンピオンになったのは僕もニュースで見ていましたけど、その時だけパッと行って獲ったのかと思っていました。けど、実際はものすごい物語があって、そこには“心”があったんですね。 それ以外ないと言ってもいいくらい、ピザはとにかく心をぶつけるんですよね。「食べ物に魂を入れる事ができるんだ」とナポリで本当に学びました。 2007年にMVP を獲ったにもかかわらず、2008年の大会にも出場されたんですか? 2007年はオリジナル部門というので優勝して、総合優勝を果たしたんですけど、2008年はアーティスト部門という芸術部門が新しく出来たんですよ。ピザ生地を切ったりして、いろんな形にして焼いて、それを飾り付けていくという部門なんですけど、その賞を獲ってみたいと思いました。今度は僕の方からエルネッソさんに電話をして「芸術部門に出たい」と言うと「難しいんじゃないかと」言われました(笑)。僕もエルネッソさんもクラシック・スタイルなので、飾り付けとかは別のテクニックになるんですよ。でも僕は正直言って、自分がそんなに不器用だとは思っていなかったし「もし芸術部門で僕が賞を獲れたら、少しエルネッソさんにも恩返しできるかな。この賞をエルネッソさんにプレゼントしよう」と思っていたんです。その気持ちでまた参加して、これがまた獲れたんですよ。 何を作られたんですか? ピザ生地で船を作って、その上に道化師でナポリのマスコットみたいなプルチネッラというお人形があるんですけど、それをまたピザ生地で4体くらい作りまして、彼らが直径1~1.5cmくらいのピッザを持っているようにして焼いたんです。その周りには直径4センチくらいのピザを20~30種類で作ってタコとイカと魚もすべてピザ生地で作ったんです。そしたら、もう作っている時から拍手が起きて、まだ結果も何も出てないんだけど、一番偉い人が一番前に飾れと言うんですよね。その写真をたくさん撮ってくれる人もいました。これはいけるかもしれないなと思ったら、いけたんです。もちろんその作品はエルネッソさんにプレゼントして、彼のお店にはしばらく飾ってありました。 良い話だね。 エルネッソさんのいるお店「イル・ピッツァイーロ・デル・プレジデンテ」はすごく有名な方もいらしていますし、エルネッソさんがなぜその店を作ったのかというと、元々が「ディ・マティオ」という店で働いていた時に、1994年のサミットで、クリントン大統領がどうしてもピザを食べたいと言って、エルネッソさんが何百人もいるピッツァイーロの中から代表で作ったんですよ。その時にクリントンさんが本当に喜んでくれたみたいで「イル・ピッツァイーロ・デル・プレジデンテ=大統領のためのピッツァ職人の店」を出したんだそうです。 へえ。 いろんな方が食べに来ていて、写真がすごくいっぱいあるんですよ。でもその写真の中の本当にど真ん中に僕の写真を今も飾ってくれているんですよ。だから、彼も少しは満足してくれたのかなと思いますね。「日本人の弟子がいるんだよ」とよく言ってくれているみたなんですよね。 |
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