アディクトジャーナル

週3日更新 Weekend Addictoe Journal


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「生賴範義 展 THE ILLUSTRATOR」in 上野の森美術館

 

企画を実現させた主催者、

(ORAI氏からのゆかりをもじって)OIRA氏のてんまつ報告は、

Facebook内の記事、

ここでも読める

 

とはいえ、本ブログから参照リンクをたどる人は少なく、

ここでそれを置き去りに、

私ごときの感想を書くのもどうかと思うし、

ご当人から以前に展覧会の告知をいただいたこともあり、

ここに図々しく無断転載して、皆様に強制的に読んでいただくことにする。

(一部編集・適宜改行)

 

 

OIRAの異常な愛情(加筆版)
または

私は如何にして心配するのを止めて生賴範義 展を開催するようになったか

 

 

「生賴範義 展 THE ILLUSTRATOR」in 上野の森美術館での開幕にあたり、

以前、展覧会開催までの経緯をまとめた不定期連載を一部加筆して再掲させていただきました。

(長文です)

 

1979年の「スターログ」誌8月号で

「生賴範義の犬狼宇宙」という記事を読み、

生賴先生の存在を初めて知った。

 

小松左京や平井和正の装丁などで上手い絵を描く人だなぁという認識はあったものの、

それまで名前もちゃんと読めなかった…なませ…おうせさん?という程度であったが

NORIYOSHI ORAI(この時点でスターログはORAIと記している)という名前を意識したのが初めてだった。

 

そして、翌年1980年6月28日、『スター・ウォーズ/帝国の逆襲』が封切られた。

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時を同じくして当初正月映画と予定されていた「復活の日」も同じ日に封切られた。

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どちらもポスターのイラストに目を奪われた。

その大胆な構図だけで物語の世界観を構築しているポスターに一目ぼれしたのだった。

 

その年に、宮崎市の青木画廊の2Fのギャラリーで先生の展示会が開催された。

自分は終わってから新聞記事を見つけて、その展覧会の存在を知って地団駄踏んだ。

その時ビックリしたのが何と生賴先生が宮崎に住んでいて、宮崎でその作品を描いているということだった!

その年の年末に先生の初の画集「生賴範義 イラストレーション」が発売される。

イラスト集のタイトルでは範義の表記が見られる。

 

その後の生賴先生の活躍は皆さんご存知の通り、世界的なイラストレーターになり、

オイラは大学へと進み貧乏生活を送ることになる…

 

84年、貧乏な大学生活から帰って来たオイラは、

またまた生賴先生の活躍を目のあたりにすることになる。

84年の正月映画『ゴジラ』は『メカゴジラの逆襲』から制作が途絶えていた9年ぶりの復活と、

1954年に第1作が作られてから30周年の記念作品である。

当時、48歳であった生賴先生は「ゴジラ」を

突然変異やがん細胞のようなものと解釈し

大胆な解釈で新しいゴジラに命を吹き込んだ。

奇しくも『シン・ゴジラ』(2016)で牧教授が行った作業を84年に生賴先生はイラストで行ったのだ!

その後89年に『ゴジラVSビオランテ』では、

生賴先生の突然変異のがん細胞はG細胞へと受け継がれ

「VSシリーズ」

「平成ゴジラシリーズ」と2004年まで続けられ、

生賴先生はゴジラのオフィシャルポスターを描き続けるほか、

書籍、広告、あらゆるジャンルでイラストを描き続ける。

 

いつかは生賴先生の展覧会があったら是非、観てみたいなぁ…

おぼろげながら夢を見ていたオイラに転機が訪れる。

2009年、宮崎市の再開発で開館するみやざきアートセンターの管理者募集の話が降って湧いた。

もちろんコンペで勝った時の話であって、オイラにお願いと宮崎市から話があったわけではない。

企画を立てプレゼンをしなければいけない。

美術館の運営には興味があったのだが、やったことない素人…で、

企画書には今後開催が予定できる「展覧会」の名称と内容を書く欄があった。

何はともあれ最初に思いついたのは「生賴範義 展」をやりたいということだった。

生賴先生とは面識がなく、やれるかやれないも分からないまま企画書には「生賴範義 展」と気がついたら書かれていた…

 

2009年、みやざきアートセンターの指定管理者として宮崎市に選定された、

オイラたちのNPO法人・宮崎文化本舗では選定された直後からどんな企画を行うかと頭を悩ませた。

企画書にも書いていたけど生賴先生の展覧会がやりたいと打ち合わせで言ったら案の定、

「誰ですか、それ?」「何て名前読むんですか?」とつれない返事がスタッフや関係者から帰ってくる。

暫くは様子を見るしかないのか…

いや、その前に、生賴先生が今でも宮崎市に住んでいるのかも分からなかった。

オイラが高校生の時、初めて生賴先生の存在を知ってから30年近くも経っているのだ!

 

開館準備の忙しさに追われ、「生賴展」の夢からいつしか遠のき始めたその時、

オイラの目の前に現れた救世主は長岡(現みやざきアートセンター長)であった。

「生賴先生だったら自分が画材店に勤めていたとき画材を配達していましたよ。住所も連絡先も分かります」

というお言葉!

蜘蛛の糸を見つけたカンダタのような気分だった…

「でも生賴先生難しいからなぁ、人前で展覧会なんて分からないですよ」という長岡さんの返答。

「いやいや、やっぱり宮崎で描かれているのであれば絶対に宮崎でやらないとだめでしょ。とにかく連絡とってみてください!」と頼んではみたものの、生賴先生からの返事は「No」だった。

いろんなところからも話は来ているみたいだけど全て断っているみたいな感じでいい返事は得られなかった。

噂には聞いていたが相当気難しい人らしい。

「生賴範義イラストレーション」に掲載された文章からも分かるように、

「生活者としての画家は肉体労働者にほかならぬ」と言い切った哲学者みたいな人なんだ。

俺たちみたいな若造が行っても相手になんかしてくれないよな…

 

目の前に現れた蜘蛛の糸も一瞬にして切れてしまった…

そして2011年3月、東日本大震災が発生し、何故かオイラは宮城県・気仙沼までボランティアとして出向くことになる。

ボランティア活動の途中に、道に迷いガソリンがなくなり、

給油のために飛び込んだ田舎のガソリンスタンドのウィンドウに貼られたポスターをたまたま見つけることになる…

それが途切れた蜘蛛の糸を紡ぎだすきっかけになるとは夢にも思わなかった…

 

そのポスターは宮城県登米市の石森章太郎ふるさと記念館で開催されている「エヴァンゲリオン展」のポスターだった。

その当時「エヴァンゲリオン展」は全国巡回の展覧会はなく、

うちの若いスタッフからはやってみたいとの声が高かったのだが、

イチから組み立てることなんか難しいだろうなぁと思っていた矢先だった。

ボランティア活動の合間に、石森ふるさと記念館に視察に行き版権元の連絡先を聞きだし、

宮城の帰りに急遽東京に寄って版権元にアポをとって相談に行った。

その結果、2012年4月に九州では初めての「エヴァンゲリオン展」を開催することになり、

関連企画として映画監督の樋口真嗣監督とアニメ・特撮研究家の氷川竜介氏を招聘し

トークショーを開催することになる。

 

「エヴァンゲリオン展」のトークショーは盛り上がったが、

その後、樋口監督と氷川氏との雑談の席で

「実は生賴範義先生が宮崎に住んでおられて、展覧会を将来やりたいんだが…」

と話をしたら大いに盛り上がり

「宮崎でやらなくてどこがやるんですか?みやざきアートセンターで是非やってください。

出来ることは何でも協力しますから!」

と叱咤激励を受け、単純なオイラは俄然やる気を出してしまうのであった…

 

もう一度、生賴先生にアタックしてみよう!

現役の映画監督や研究家の方々の応援を受け再度、生賴家に連絡したところ、

2011年5月に脳梗塞で倒れ今リハビリ中なので、

多分展覧会の開催は難しいだろうという返事が先生の奥様から返ってきた。

またまた蜘蛛の糸がプツンと音がして途切れてしまった…

でも家族としてはありがたい話しなので東京にいる息子と話をしてみてくれということだった。

崖っぷちギリギリで踏みとどまった…まだ望みはある。

 

とにかく長男のタロー氏と連絡を取り、上京して銀座で会うことになった。

タロー氏も画家で丁度上京するときは銀座のギャラリーでグループ展をやっているとのこと。

そのギャラリーで待ち合わせをして、その後、話をすることになった。

あの生賴先生の息子さんなので気難しい人かもしれない。

初対面でダメだし出されたらどうしよう?

取りあえず当たって砕けろだ!と捨て身の思いで銀座へと向かった。

 

タロー氏は、予想とは裏腹の落ち着いた感じの方で、しかもオイラと同世代。

描く絵も先生の雰囲気とは違い、素朴だけど味わい深い作品を描かれていた。

ギャラリーの上にある小料理屋で焼酎を飲み交わしながらアタックしてみた。

「やりましょう!でも一度、宮崎のアトリエにある作品を見てください。それから計画を練りましょう!」

酔った勢いではなく意気投合し「生賴範義 展」開催に向けての歯車が大きく動き出した!

「油彩画もいっぱいあるが展覧会はイラストレーションに特化したものにしましょう!」

「タイトルはどうしましょうか?生賴範義展 Everything is オーライ」というのはどうですかとオイラ。

「それだけは止めておきましょう」とあっさりとタローさん。

最初の出会いの晩からイキナリ、ハズしてしまったのオイラであった…

 

長岡さん(現みやざきアートセンター長)に連れられて、

宮崎市郊外の生賴邸を訪れたのはタローさんが帰省した2012年の初夏だった。

70年代に農家であった空き家を買い取ったという昔ながらの大きな屋敷の離れが生賴先生のアトリエだった。

ここでスター・ウォーズもゴジラも幻魔大戦も描かれていたのかと感慨に浸っていてはいけない。

先生の作品をどれだけ展示するか仕事しに来たんだぞ!

 

「父にあいさつされませんか?」タローさんが生賴先生を紹介してくれた。

正直、ビビった。あの伝説の人に挨拶!?

ジェダイに憧れていた素人が、いきなりヨーダに挨拶しろと言われたような状況だ。

あの野武士みたいな孤高の天才イラストレーターが目の前にいる。

しかし、心配は稀有に終わった…

先生は人生の総てを悟り尽くされたような穏やかな表情であった。

「よろしく…お願いします」という感じで笑顔で母屋の奥に消えていった。

 

先生は震災後の2011年5月に脳梗塞を発症されて、リハビリを続けていらっしゃった…

「アトリエを見ませんか?」タローさんが離れのアトリエを案内してくれた。

聖なる領域は、もう一度先生が筆を持つ日のために、ご家族が倒れた日のままの状態で保たれていた。
壁びっしり、机の上にも山積みになった写真集や図鑑等の資料、

戦艦の設計図らしきもの…先生がイラストを描くための素材がところ狭しと置かれている。

そして屋根裏部屋と奥の部屋、戸棚の中に保管されていたイラストの数々、

ざっと数えただけで数千枚!?

油絵も数百点…決していい状態とは言えない環境で大量の作品が!正に宝の山である。

それも整理されておらず、何の原画かも分からない!

これを整理して展覧会をしなければいけないのか?

本当に整理できるのか?

これは途方もない作業になる!

先生は多作だとは思っていたがこれだけの膨大な量があろうとは!?

先生の原画を目のあたりにしてオイラは興奮と共に、大きな不安に襲われた…

 

作品を整理する作業は、毎月1回1~2日タローさんが帰省したときに、

これはいいだろうという作品を数十点ずつ選んでもらい、アートセンターまで運んできて、

クリーニングが必要なものは行い整理して記録していくという手順で数カ月に及び行われた。

整理した作品はイラストの依頼主であった出版社や映画会社ごとに分類していった。

 

また先生の自宅に保管されていない作品の捜索も同時に行った。

80年代くらいまでは著作権も今ほど厳しくなかったので

先生の作品だけど、横流しにあったかもしれない作品があったのではないか?

というくらい見つからない作品も多々あったのだ。

特に「スター・ウォーズ」関係が全然出てこなかった。

あぁ、やっぱり「スター・ウォーズ」はルーカスのところに全部いっちゃったのかな?

という感じであった。

 

また展覧会を開催するにあたり、版権元である映画会社や出版社の許諾を取らなければいけない。

どの原画がどの本なのか?

アートボードに描かれたイラストの裏に題名くらい書いていてくれればまだ調べようはあったんだけど、

生賴先生は作品を描くことは天才的だが、

描いた絵を保管することに関しては無頓着であったといってもバチは当たらないと思った…

版権元を先ずクリアしなければ先に進めない!

しかし田舎の美術館の管理者がいきなり大手の映画会社や出版社に話を持って行ってもなかなか相手にされない。

樋口監督や氷川氏の協力を得て、

業界各社の人脈を辿り版権管理部門を紹介してもらい、アポを取る作業を続けていった…。

 

 一方、生賴先生のアトリエから探せども、探せども

「スター・ウォーズ」関係の絵はなかなか見つからないまま夏が過ぎようとしていた。

もう「スター・ウォーズ」はないなぁとタローさんも、長岡さんも含め諦めていた。

もう暑いからやめようか?アトリエの屋根裏部屋は無風状態、暑さも疲れも焦りも頂点に達していた。
その時、農業用のビニールシートに包まれた箱らしきものが目に留まった。

ビニールシートも相当汚れており、

梱包に使われていたガムテープもこの暑さと30年近くの年季の入りようでグチャグチャになっていた。

「タローさん、これ開けてみていいですか?」

「いいですけど、そんな汚いビニールの中にはないでしょ」

「ダメもとですから、開けてみますよ」

汗だくだくになりながらビニールの梱包をはがして見てみると、

中から宅急便の送り状が貼ってある箱が出てきた。

送り状には「おろしや国酔夢談」と品名に書かれてある。

あぁ、「おろしや国酔夢談」も生賴先生が描かれていたのか?

ゆっくりと開けると「おろしや国酔夢談」と「暴走機関車」のキャンバスに描かれた作品が入っていた。

じゃあ箱からだしてみましょうということになり。

1人が箱を押さえ2人でキャンバスを箱から抜き出したら、

キャンバスとキャンバスの間に絵が数点入っていたのが床に落ちてきた!

それが『スター・ウォーズ/帝国の逆襲』の原画(結局は下絵)だったのでビックリした。

kannpufu

 

あれだけ数カ月にわたり探したのに見つからなかったものが…

その時、オイラの頭の中には

『レイダース』でインディ・ジョーンズが失われた聖棺を発見した時のサウンドトラックがリフレインしていた。

3人は大喜び!

オイラは携帯で写真を撮りまくって、家に帰って家内に見せた

「ほら、生賴先生のスター・ウォーズが見つかったんだぞ!凄いだろ」

と自慢げに写真を見せたら鼻で笑われ

「汗臭いから風呂に入ってきなさい!」と怒られた…

 

第1回目の展覧会を2014年の2月に開催することを決定し、本格的な準備に入った。

開催まで1年半ほどの時間しかない。

先ずは版権元の許諾を取らなければいけない。

どれだけあるかリストアップしてみた、

朝日ソノラマ、光人社、学研、角川書店、キネマ旬報社、講談社、コーエ-テクモゲームス、薩摩川内歴史資料館、サンライズ、資生堂、集英社、小学館、松竹、中央公論社、円谷プロ、東京創元社、東宝、東映、東北新社、徳間書店、日本ヘラルド、ハセガワ、早川書房、扶桑社、双葉社、六興出版etc…

今はなくなっている会社もあるし、1回目の展示に必要な会社だけに絞ってもざっとこんなもの。

この全部をあたって許可を取る旅が始まった。

月に1度2泊3日で上京してそれで回れても5件程度。

もちろんこちらは宮崎から上京するわけだから、相手はこちらの都合には合わせてくれない。

もちろんスケジュールもうまくハマればいいのだけど移動の時間、

相手のスケジュールに合わせると1日2件程度しか回れない日もあり、

それに1年間近くを費やした。

アポとアポの時間の間に余裕があれば古書街で生賴先生が装丁を手掛けた本を探した。

 

「生賴先生にはお世話になったから、問題ありません」というところもあれば、

しっかりとした契約を交わさなければならないところもある。

無駄な待ち時間を喫茶店でコーヒー一杯で過ごした時も多々。

(まぁこの事前のアレンジはほとんど長岡さんがやってくれたのでオイラは交渉事をすれば良かったので、

まだ楽ちんだったのだけれど…)

展覧会の準備というよりも「太陽にほえろ」の山さんの聞き込みのような出張を繰り返す… 

 

コーエーテクモゲームスに関しては、オイラの従妹がゲーム関係の音楽を仕事でやっているので、

その伝手でアポを取ったりして、まさに一族、知りあい総動員でコネを使いまわして連絡をとりまくった。

無駄足も多かった、先生がポスターは描いているけど版権元にも原画がないものも多数あった…

また生賴先生は多くの有名人の肖像画も描いており、

その本人やプロダクション、故人に関しては遺族に肖像権の許諾を取らなければいけないという、

当初の想像を遥かに凌ぐ作業量が待ち受けていた。

オイラたちは足を踏み入れちゃいけない領域に、いつの間にかどっぷり浸かっていた…

 

そんな中、「スター・ウォーズ」関係の日本国内での版権を、

当時管理していた「小学館集英社プロダクション」だったのだが交渉を始めていたら、

何とルーカスフィルムがディズニーに買収されてしまい、

業務の引継ぎに数カ月から半年くらいかかりそうだという予期せぬアクシデントが発生した!

せっかく見つかった『帝国の逆襲』の原画の展示の許諾が間に合わないかもしれない!!!…

 

「スター・ウォーズ」の版権の問題に関してはその後半年近くの時間を要することになるので別の話を書きとめておこう。
先生の作品がありすぎて、どれを展示するのか結構迷った。

最終的な展示作品がなかなか決めきれない。

そこでオイラの背中をポンと押してくれた樋口監督と氷川氏をもう一度宮崎に招聘して、

生賴先生に会ってもらい、アトリエも見たうえで作品選定を手伝ってもらおうということになった。

 

2013年7月7日に、樋口監督と氷川氏を連れて生賴先生のアトリエを訪問した。

先ず生賴先生とご挨拶を交わしたお二人は興奮気味でアトリエへ。

樋口監督は自らが監督した「日本沈没」のポスターを先生がアトリエの扉に貼っていたのを見て大感激!

お二人がアトリエを訪問する様子を展覧会期間中ビデオで紹介するためにカメラを回させていただきました。

その時に大半の先生の作品はアートセンターに移動、保管していたので、

次の日は1日かけて展示作品の選定作業をお願いした。

 

もう見る作品、見る作品、驚嘆の連続というか、いちいち声があがる。

結局、1日かけてアートセンターに置いている作品を全部、目を通して、

選定作品を選んだのであった…

と書きたいところだが、結局、樋口監督が出した答えは

「いい作品が多すぎて、選びきれないよ!」だった…

 

(画集が)なかなか売れないみたいで、

出版社がある程度売り上げが見込めなければ

コスト割れしてしまう恐れがあるのでなかなか難しいとの意見を複数から頂いた。

展覧会をするにはやっぱり画集は欲しいよねぇ…

でも生賴先生のファンがどれくらいいて、いくらまでなら買いやすいのかまったく見当がつかない。

展示作品は概ね250点程度と見込んでいたので最低でも160頁くらいはいるよね…

そうすると編集の人件費や撮影にかかる費用だけでも相当なもんだ。

写真撮影、データ化に250点の作品でスタジオ借りてすると相当な金額になる。

編集の人件費も1年間雇わないとできないくらいの仕事量だ、

3000部印刷したとして500万くらいで何だかんだで1,000万近くかかる。

 

映画のパンフレットみたいなちゃちなものではなく、

ちゃんとした画集は作りたい…。

その想いはタローさんやオイラたちも一緒だった!

でもそんなこんなの金額を外注する金もない…

じゃあ自分たちで作るしかないな…

という結論に達するまでそんなに時間はかからなかった。

 

今までアートセンターでやった展覧会でも、

入場者が図録を買っていく割合は来場者の10%程度。

3000部作成するなら30,000人の来場者が来ないといけない?

果たして今の時代に生賴先生の画集を発売して赤字にならないか?

いろんな心配もあったがとにかく作ると決めたんだから頑張らないと!

 

そこでどのくらい生賴先生のファンがいるかどうかを探るために

FBのページを展覧会開催の半年前の2013年7月に開設し、

展覧会の情報と共に、

1日1点、生賴先生の手掛けた作品をアップして、

どれだけの反応があるかどうかを探ろうという作戦を実行した

(3年以上経ったいまでも、1日1枚は続けている)。

あんまり反応がない場合は最終的に印刷部数を減らすこともできるからだ…。

 

一番の問題はデザイナーを誰にするか?

宮崎で生賴先生のことを理解し情熱そして心臓までを捧げてくれる人がいるのか?

というところからデザイナー探しをしなきゃいけない!

でもそれは意外とあっさり見つかった。

長岡さん(現アートセンター長)の高校時代の同級生で、

アドルックスというデザイン事務所を主宰している三輪さんという人物だった!

何と彼は高校時代、宮崎市内で1回だけ開催されたオイラが見損ねた生賴先生の個展を

延岡という宮崎市から100kmほど離れたた町から自転車で往復して見に行った強者だったのだ!

こいつに頼むしかない!

 

ということで次に問題となったのは、図録の表紙にするのはどの作品かということだった…

3,000枚近くある先生の作品の中からどれを選ぶか?

タローさんの想いもあり、オイラや長岡さんの想いもあり、いろんな案が出され表紙選びは混迷を続けた…

まぁもうちょっと時間があるので考えましょうといいつつ結論は延び延びになっていた。

そんな時、アートセンターに一通のメールが届いた。

 

メールの主は横浜に在住するKさんからだった。

ネット上で生賴先生の展覧会の告知を始めてからしばらくたった頃であった。

何でも生賴先生が描いたSFアドベンチャーの表紙の原画を2枚持っているとの話であった。
確かに生賴先生の描いた美姫のシリーズは全部91枚あるはずなんだけど、原画をいくら探しても6枚足りない。

6枚はこの世のどこかにあるはずであり、Kさんはそのうち2枚を持っているという。

でもどんな人なのか、何故Kさんが持っているのかは分からない…

そんでもって持っている原画は「パウリナ」と「ルクレチア」だという。

「パウリナ」は1988年に出版された画集「神話」の「自作を語る」の中で

“生賴先生自身がパウリナはこのシリーズの中で一番丁寧に仕上げた”との幻の作品であった。

 

でも何故Kさんが!?
2013年12月4日、横浜のKさん宅を訪ねた。

もちろん“パウリナ”と“ルクレチア”を借り受けるためだ。

電車を乗り継いでタローさんと長岡さんと3人で向かった。

オイラ達より8歳くらい年下のKさんに、どうやってこの絵を手に入れたかを尋ねてみた。
Kさんは美大へ進むことを志していたが、受験に失敗して進路に悩んでいた。

その時、Kさんのお父さんが昔東京に住んでいた時、近所に画家さんが住んでいて、

結構凄い絵を描くので一度絵描きがどんな仕事をしているのか宮崎に行ってみたらどうかと生賴先生を紹介したらしい。

タローさんもその頃には宮崎を離れていたので、Kさんの存在を知らない。
そこでKさんは生賴先生の作品と仕事ぶりを見て大変感動した。

「落ち込んでる暇はない。描かなきゃ!僕は一日中描いてる」

という激励の言葉と、

当時制作中だった『破壊される人間』の連作の形容する言葉もない『とんでもなさ』に打ちのめされたみたいです…。

同時に、Kさんはこんな絵描きにはなれないと感じ絵の道に進むことを断念したという…

その帰り際に好きな絵を記念にあげるから持って帰っていいということで、

Kさんにプレゼントしたのが“パウリナ”と“ルクレチア”だったという話であった。

この話を聞いた3人は直ぐに図録の表紙は「パウリナ」しかないと同時に思った。

長く暗礁に乗り上げていた表紙の問題がぎりぎりではあったが一瞬で解決した。
そしてKさんは、展覧会が終わってもこの絵は元々、

生賴先生から預かったものだから宮崎に返したいという言葉をもらった…

今も、みやざきアートセンターに保管されているのだ。

オイラの中の“仕事ばっかりで気難しい生賴先生のイメージ”も、このエピソードで大きく変わった。

そしてKさんは、これが縁で宮崎に移住することになるが、それはまた別の話…

 

生賴先生は賞とは無縁の画家であった。

唯一獲った賞が1980年の『スター・ウォーズ』の国際版ポスターを描いたときに

日本SF大会の第11回星雲賞アート部門を受賞しただけであった…

知る人ぞ知る存在として、熱烈なファンは確実にいるものの、

ここ地元の宮崎では一般的には誰も知らないのではないか?

この不安は企画当初からつきまとっていた。

そんな時に新聞記事で「宮崎県文化賞」の推薦を募集する記事が目に留まった。

生賴先生を少しでも地元で有名にするのはこれだ!と思いついたが吉日!

速攻で、推薦書を書いて宮崎県に申し込んだ。
結果、平成25年宮崎県文化賞芸術部門に選出された。

後で聞いた話だが、審査員全員一致で先生の受賞が決まったという。

それも何で今まで誰も推薦しなかったのか?という声まであがったらしい

(まぁ、これは聞いた話なので何ともいえないけど…)

 

2013年11月6日。宮崎県庁本館2Fの講堂で授賞式は執り行われた。

残念ながら先生は出席できなかったが代理にタローさんが授賞式に参加した。

今まで評価を受けなかった孤高の作家であったが、

宮崎県という小さな自治体ではあるが公の機関が先生の功績を認めたのであった。

(その翌年の平成26年には文化庁映画賞で功労賞を受賞する。)

県内のマスコミもこぞってニュースとして取り上げてくれた。

展覧会開催の3カ月前のことだった…。

地元での生賴展の機運を高める仕掛けも少しずつではあるが高まってきた。

 

チラシは8種類、ポスターは4種類、みんなが欲しいと思う図柄を選んで作成した…

でもまだまだやることは山積みであった。

生賴先生が、どんな人生を過ごしてきたかをまとめる作業がなかなかできていないことだった…

 

展覧会を開催しようと決まった時は既に生賴先生は、外に出られる状態ではなかった。

脳梗塞の後遺症と、それに起因する認知症が進行しており、過去の記憶が曖昧であったこと、

あと言葉もはっきりと喋れない状態であった…

展覧会で必要なのは、作家がどんな時代を生き、

どんな人生を歩んできたのかも展示の中に組み入れなければならない。

しかし生賴先生からは直接聞くことは不可能であった。

奥様は、仕事のことは殆ど知らない。

タローさんは、高校卒業してずっと都会で暮らしていてその後の先生の仕事ぶりを直接は知らない…。

これでは年表も作れない!

ということで、出版社や映画会社に版権の許可を取りに行く出張と並行して、

先生と一緒に仕事をしていた編集者の人たちや、

タローさんを通じて先生の親戚の方々、

そして宮崎で親交のあった人たちを探し出して話を聞くことであった。

 

生賴先生が当時78歳、同年代の方々で亡くなられている方もいる中、

年賀状のやりとりをしていた人たちに連絡して、

当時の話を聞いたりする、本当に探偵みたいな仕事を行った。

 

講談社で「三国志」で生賴先生を起用した営業マン、

SFアドベンチャーの元編集長、いろんな業界の人々からの話から、

生賴先生のご兄弟に質問状を描きそれを少しづつ整理した…

そうして出来上がった「生賴メモ」を基に時系列で年表に起こしていった。

 

「目指せ!日曜美術館」

タローさんと飲んだ時に、

長岡さんやマネージャーの工藤さんたちと夢みたいな目標を語っていた。

展覧会やるときには日曜美術館で取り上げてもらうようにしたいね!

そんなある日、宮崎県の東京事務所にいた怪獣大好きなGさんから連絡がある。

NHKの結構上の人と会うので石田さんがいつも言っていた生賴先生の日曜美術館の話、

一緒に行って相談してみませんか?と連絡があった。

それはもう願ってもないチャンス!

2013年8月28日、日帰りで渋谷へ向かうことになる。

だが前日の27日にオイラは脱輪した車を持ち上げようとしてぎっくり腰になってしまう…
企画書と、生賴メモ、スーツケースに入る生賴先生の絵を2点持ってNHKに、ぎっくり腰で向かった。

夏なのに冷や汗が出るほど腰の痛さを堪えながらの出張であった…

生賴先生を番組で取り上げないかというプレゼンをしたのだけれど…結果は…

本人がそういう状態であれば非常に難しい、本人がカメラの前で話ができるか、

故人であればいいんだけど、そういう状態だとやりづらい…という返答であった。

(最終的には「日曜美術館:のアートシーンで取り上げていただいたので文句は言えないのだが…)
失意の中、羽田空港にトンボ帰り。腰は痛くて堪らない。

痛さと暑さと企画が通らなかったの三重苦で疲れは頂点に達していた。

宮崎行の飛行機の出発1時間前には着いた。
少し休みたい。使用機も到着している。今日は早く帰って寝よう…

と思った時に空港の待合室にあるマッサージチェアが目に入った。

腰の痛さも200円で少しは解消されるか?
オイラは200円入れてマッサージチェアに座った。

ああ、あの飛行機に乗ってもうすぐ宮崎へ帰るんだ…

薄れていく痛みの中一瞬瞼を閉じた…そして目を開けたら何と目の前にあった飛行機が消えているではないか!!!

一瞬だけ目を閉じたつもりが1時間くらい寝てしまったのだ!

オイラは心の中で叫んだ「引田天功のイリュージョンか!!!!」…

 

幸い最終便じゃなかったので、どうにか宮崎に帰って来たオイラは新たな問題にぶつかっていた。

生賴先生の原画は2,500枚以上がアトリエで見つかったのだが、

ポスターや書籍があっても原画が見つからないのが数百点ある。

映画のポスターや書籍も一緒に展示したかったのだが、

有料の展覧会でポスターや書籍を見せること自体、版権問題がややこしくなる。

あのポスターや、あの本の装丁も見てもらいたいという欲求というか、

お客様にとってもニーズは確実にあると思うんだが、

有料催事で映画のポスターとかを出すわけにはなかなかいかないという問題だった。
タローさん、長岡さん、工藤さんと幾度も話し合うけど

断念せざるを得ないよねぇという話にどうしても落ち着いてしまう…

そんな時に逆転の発想が生まれた。

実はH監督や、大手出版社のTさんからの言葉がヒントになったのだが、無料で見せればいいじゃん。

無料で見せる分には個人の所有物を無料で見せるだけなので問題はないはず。

そう、入口の手前に無料鑑賞ゾーンを拵えてあるだけ!

みんな見てもらおう!!!

でもどうやって?

ただ、ケースに入れて見せるのは面白くない。

生賴先生が半世紀にもわたって描き続けた作品を物量作戦で見てもらうにはどうしたらいいか?

ということで考えついたのが

「生賴タワー(誰が名付けたかは知らないが、いつの間にかこう呼ばれるようになっていた)」の誕生である。

施工の坂田さんには無理言って、部屋にギリギリ入る高さと広さで作っていただいた。

 

1回目の展示会のキャッチコピーは「奇跡を体感せよ!」。

このコピーは樋口監督が2013年7月に作品選定しに宮崎に来られたときに考えていただいたもので、

まさに展示作品を含め観客の方々は、

生賴タワーを目の前にし奇跡を体感することになるのだが、

ちゃくちゃくと準備が進む中、ディズニーとの交渉がなかなか進まなかった…

 

小学館集英社プロダクションから「スター・ウォーズ」関係の版権の管理がウォルト・ディズニー・ジャパン株式会社に移行するまで数カ月空白の時間があった。

ルーカスフィルムがディズニーに買収され世界的にディズニーが管理するための事務的な移行期間が必要だったわけで

仕方なく待つ時間が流れていった…。

交渉を始めたのが2013年の夏、

こちらの要望を伝えて、それを本国に伝えOKがでるかどうかこちらに帰ってくるまで最低数日はかかる。

アメリカはサマーシーズンで担当者が長期休暇をとっていて1カ月近く返事が返ってこないときもあった。

基本的なOKは秋にはもらっていたのだが、細かい条件がなかなか決まらなかった。
年が明け、ようやく条件が整理され、ルーカスフィルムから送られてきた内容は数10ページに及ぶ英語で書かれた契約書だった!

オイラもある程度は英語は分かっているつもりだったが、法律的な用語が散りばめられた契約書となると素人英語ではどうしようもない。

ディズニーからは、いつも会社で使っている翻訳会社を紹介しましょうかと優しい提案も頂いたのだが、実際問い合わせてみると目が飛びでるような金額だった!
もうすでに相当な経費を使っているのにこれ以上経費はできるだけかからないように押さえなければいけない!

辞書を片手に概要を翻訳して、どうしても分からない所だけを地元で通訳をしている知りあいに無理やり頼み込んで4~5日で翻訳を済ませた。

ところがそこには、これはちょっと無理だろうという条件がいくつか書かれており、できないものはできないと相談を繰り返し、やっと合意がとれて、ルーカスフィルム側もこちら側も納得できる契約書の雛形が出来上がったのは展覧会が始まる8日前の2014年1月30日のことであった…
もしうまく契約が出来なかったら展覧会の目玉である『スター・ウォーズ/帝国の逆襲』や『スター・ウォーズ』関係の作品が展示できなかったかもしれない。

いやぁ、いつものことながら危ない橋を渡り胃が痛くなる日々を乗り越えてのスケジュールだった…

 

2014年2月8日「生賴範義 展 THE ILLUSTRATOR」が開幕する1日前の7日、

開会式と内覧会が行われた。

そこには、今まで殆ど表に出ることのなかった生賴先生の姿があった!

長女の夏子さんとタローさんに付き添われて車椅子でみやざきアートセンターに現れた姿に、

オイラは勿論のことアートセンターのスタッフ一同、そして内覧会に出席された人総てが感動していた…

 

自らの感性の全て駆使して、絵を描くことに集中し、

出来上がった作品を並べて観る事がなかったであろう孤高のアーティストが、

壁一面に展示された自分の作品を感慨深げに魅入っている…

(先生は自分が描いた「パウリナ」を観て、いい女じゃな…と言ったとか言わないとかいう話もありましたが…)

先生が元気なうちに展覧会が開けて本当に良かった…

 

本来は1回だけの展覧会を考えていたのだが飾りきれない整理できてない作品が多すぎて展覧会を3回に分けて開催することになった。

第2回目は、2015年7月に先生がイラストを始めてから1994年までのキャリアの前期に書かれた作品を中心に、

そして2016年12月には「生賴範義 展Ⅲ The Last Odyssey」では1985年から晩年までに描かれた作品を中心に、

みやざきアートセンターで展示された。

 

展覧会は好評のうちに終了し、生賴先生の再評価のきっかけとなり、翌年には文化庁の映画賞を受賞された。
2015年10月、80歳を目前に生賴先生は還らぬ人となってしまう…

先生は亡くなられたが、先生の作品は遺り、

その後、2016年5月には生賴先生の生誕の地である明石市、

2017年には大分市で巡回展として開催され好評を博した「生賴範義 展」。

 

長男・太郎氏や長岡センター長、工藤マネージャーと4人で飲む度に

東京で展覧会ができたらいいねという夢を語っていた…。

すると太郎氏が上野の森美術館の学芸員に高校時代の同級生の奥さんがいるので、

一度売り込みに行ってみようという話が出て、早速アポを取って行ってみることに…

学芸員の方も過去、宮崎で開催していた展覧会を見学しており、

個人的にもやってみたいという気持ちは持っているが、

主催事業となるとハードルが高い、

まして2020年まで予約で埋まっていて空いているスケジュールは

2018年の1月から10日間だけであるという。

搬入、撤収を入れたら1週間しか展示期間がない…

せっかく東京でやるのに1週間はないだろう?

でもそれはないよねという話になる。

やろうか?やるまいか?

もしかしたらその前後でキャンセルが出たら絶対にやりましょうと口約束をして

その時はおとなしく宮崎に帰るのだが、その数か月後、上野の森美術館から連絡が入る。

仮抑えしていた1月上旬の後ろ1ヶ月間がキャンセルが出ました!と…これはやるしかない!!!

 

宮崎で3回、明石と大分で合計5回、地方でやっている「生賴展」を

どうやって、より魅力ある内容にできるのか?

 

今まで展示したことがない作品…

ということで生賴先生が83年に鹿児島の川内歴史資料館に寄贈した600号の超大作

「破壊される人間」を借り出して、展示することになる。

 

生賴版ゲルニカとも言われるこの大作は、

30年以上門外不出の幻の作品として薩摩川内市に収蔵されていたものだ!

これに「超時空要塞マクロス」と「熊本城」などが初展示される。

でもこれだけでは目玉が足りない…

9月の終わりに太郎さん達と飲んだ時に、音声ガイド作りたいよねという話で盛り上がる。

じゃぁガイドは誰にする?

某特撮番組のヒーローを演じた俳優や、解散したグループのメンバーの名前など次々と出る中で、

じゃぁ?「のん」は?という案が出る。

のんは一昨年公開されたアニメ映画『この世界の片隅に』で

主人公の絵を描くことの大好きな少女というか人妻「すずさん」の声を演じたアイドルであり

アーティスト活動を続けているのでいいのではないか?

「のん」のホンワカした語りだと

「破壊される人間」の全く新しい感じ方が生み出せるかもしれないということで全会一致!

 

次の日からあらゆる伝手を駆使して「のん」の事務所にアタックする。

マネージャーさんは、いい仕事だと思うけど「のん」さん自体が生賴先生のことを知らない!

そりゃそうだ、オイラの娘と変わらない年齢だもんなぁ…

というわけで待つこと数週間、OKの返事が来る!!!

オーライタローさん(画家・生賴範義長男)、のんさん(女優・展覧会公式ナビゲーター)

 

オイラの高校生からの夢が実現できたことはそれだけでもありがたいのだが、

生賴先生をはじめ生賴家の皆様、背中を押してくれた樋口監督や氷川さん、

図録に寄稿いただいた映画作家や、イラストレーター、出版関係者の皆様、

インタビューに応じていただいた皆さん、

版権の許諾をいただいた映画・出版・ゲーム・広告代理店等各社の皆様、

そして、何よりもみやざきアートセンターのスタッフの皆さん。

本当にいろんな方々のお力で開催まで漕ぎ着けたこと…心より感謝申し上げます。

オイラ自身が“奇跡を体感”させていただきました。

本当にありがとうございました。

半世紀以上にもわたる孤高のイラストレーターであり画家である生賴先生の

“軌跡”と“奇跡”を思う存分感じてください!!!

 

最後に先生の作品を観て感動していただいた方に1つお願いがあります。

オイラは先生の作品を文化財として後世まで遺していけるような動きを作っていかなければと真剣に思っています。

先生の作品は肉体を駆使して筆で描き、そのクオリティそして作品数も含め他に類をみないものです。

先生の作品を観て、感動した方はこれからも生賴先生の作品を、

そしてその保存に関して応援してくださいますよう、この場を借りてお願い申し上げます。

 

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