老兵は死なず、そのブログも消えない。ただ、読まれなくなるだけだ。
死にゆくブログ
以下の記事を読みました。
死に続けるブログと「どこに書けばいいのか問題」 – mehori – Medium
かつてのブログがゆるやかに死に続けてゆくなか、ますます解のない面白い世界へと、私たちは進んでいるのです。
なるほど。たしかにかつてのブログはゆるやかに死に続けているのかもしれません。ブログが何かの手段となり、そこに人をひっかける古いビジネスモデルが癒着したことで、かつてこのメディアに宿っていたような希望の光は陰りを見せつつあります。それはそれで、どうしようもないことなのでしょう。
しかし一方で、私はこう思います。「それでも、ブログは生き続けているんだ」と。
生き続けるブログ
YouTubeが人気を博し、Instagramが若者から圧倒的支持を集めているにも関わらず、ブログというものは残っています。文章を書くという面倒な作業を行うことを止めない人たちは、生き続けているわけです。
これほど新しいメディアが登場し、環境が変転していることを考えれば、いまでもブログを書く人が存在していることは、目一杯の拍手を送りたくなってくる出来事です。そして、そのことを逆向きに照射すれば、この慌ただしい世の中で、腰を据えてじっくり文章を読む人間が、ごくごくわずかでも存在していることを浮かび上がらせます。私はそのことにも拍手を送りたくなってきます。
だからこそ、自分としては、周りの環境がどう動こうが、そうした辺境でニッチな人のことを思いながら、古くさいタイプのブログを更新し続けたいと思います。もしかしたら、それは社会的成功に何ら貢献しない活動なのかもしれません。でも、それでいいと思います。誰からも届けられなかった人、言い換えればコンテンツ市場から見放された人に届く何かが一片でも含まれていれば、私はそれをブログの一つの意義だと胸を張って言えます。
「希望を抱くのが間違いだなんて言われたら、私、そんなのは違うって、何度でもそう言い返せます。きっといつまでも言い張れます」
届かないかもしれない手紙
こんなツイートを見かけました。
文章において読んでもらえることはとても大切なことです。だからこそ、書き手は構成や見出しやタイトルづけに工夫を凝らします。
しかしながら一方で、「読まれるために書く」ことを意識しだすと、どうにもこうにも妙なものが混ざり始めます。何のために書くのか、何を書くのか。そうしたものが徐々に変質してしまうわけです。でもってそれは「別にブログじゃなくてもいいよね」という話に結実してしまうでしょう。
落ち着いて考えれば、「読まれるために書く」のは、プロのライターの仕事です。だからもし、ライターを目指していたり、収益を求めているのならば、「読まれるため」の書き方を身につけていった方がよいでしょう。しかしそれは必ずしもブログ活動とイコールになるものではないはずです。そういうやり方もあるし、そうじゃないやり方もある。これを混濁してしまうと、迷走が始まります。
とどのつまり、「なぜ書くのか」というのが一番の問題となるわけです。
死に続けるブログと「どこに書けばいいのか問題」 – mehori – Medium
好きなものを好きな場所に書けばいいと言われてしまうとそこで話は終わってしまいますが、限られた時間と集中力で個人がブログなどを運営する際にリーチを最大化するためにとるべき方法が自明ではない状況がここ数年続いているわけです。
誰にも届かないのは寂しいですし、広く届いた方が嬉しいことは間違いありませんが、それはそれとして「届かないかもしれないな」「届いたら奇跡みたいなもんだな」というスタンスも、──少なくともブログというフィールドでは──「有り」ではないでしょうか。そして、そういうスタンスでしか書けないこと、使えないタッチというのがあるはずです。
でもって、その奇跡みたいな郵便配達が一度でも起きるなら、すべてに対しておつりがきます。それを私は希望と呼ぶことにします。
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