嫌になるほど、誰かの事を知ること。あるいは知ってしまうこと。小沢健二はそれを美しさと呼んで見せたが、そんなことは「2度と無い気がしてる」とも歌っていた。こんな相手には2度と出会わないよ、というロマンティックな運命論でもあるだろうし、もっと素朴に、とてもじゃないが2度目は無理だよ、という意味でもあるだろう。
実際、誰かのことを知ることは時にしんどいもんである。自分ひとりの人生にだって、それなりの、年相応のドラマがあり、平凡だけど波乱万丈な「それなり」の中をあてもなく生きているだけでもそれなりにしんどいのに、誰かの、年相応のドラマなんて片棒だって担げやしない。ある種の言い方をすれば、それはとてもじゃないが、、、割に合わないじゃないか。
ミツメの素晴らしい新曲「エスパー」は、何の詩情もなく言えば、いわゆる倦怠期の、長い安定期を緩やかに過ごすカップルについての歌だ。もっともそれは、男と女である必要はない。あるいは恋人同士である必要もないだろう。とにかく、愛し・愛されているうちに、嫌になるほど誰かを知り、その誰かに嫌になるほど自分を知られてしまった2人の人間に関する哀しい歌だ。
もちろん、それはポップ・ミュージックにおける歌詞の題材としてなんら新鮮ではない。それどころか、大島優子の出演するスキンケア商品の平凡なコマーシャルで、「お互いにすべてを言わなくても、分かることが増えてきた」なんてフレーズがさらりと使われても、お茶の間にいる誰もがまったく気にも留めないように、モチーフとしてはありきたりだ。
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だが、小沢健二が美しさなる言葉を括弧で囲って見せたように、ミツメも嫌になるほど誰かのことを知ってしまったり、誰かに自分のことを嫌になるほど知られたりすることを、心地の良い以心伝心とは扱っていない。
むしろ、嫌になるほど知り、知られることのしんどさと、「それでも僕たち・私たちは結局のところ孤独で、バラバラな他人同士である」という周知の、だが誰かとの長い時間の共有の中で忘れられていく事実が――それこそ、嫌になるほど、それも例のごとくとてもフラットなテンションで――強調されている。
そう、大島優子が出演するコマーシャルで、新婚1年目のカップルの甘い関係の深まりを描くために使われるその「超能力」的な存在は、しかし、ミツメのポップ・ソングの中では、どこか居心地が悪く、不穏なものとしてある。曲中、終始曖昧に揺蕩うギター・フレーズのように。あるいは、ミュージック・ビデオにおける手ブレとフィックスのなんとも言えぬ塩梅のように。
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ミツメ史上屈指の、耳馴染みの良いフックを持ち、そのボーカリゼーションをもってスピッツと比較されるまでに至った、紛れも無い代表曲候補でありながら、この「エスパー」は、かつて東京インディーなどと一括りに呼ばれたシャムキャッツの、こちらも素晴らしい新曲「このままがいいね」がそうであったように、余白が非常に多い曲だ。もちろん、これは肯定的な意味で。
実際、リードギターを中心としたバンド・アンサンブルによる30秒間の間奏、ないしは60秒間(!)のアウトロが、この曲の肝と言っても過言ではない。この間奏のあいだに、あるいはアウトロのあいだに、車の運転をしていたり・電車に揺られたりしている僕らは、誰かのことをきっと思い浮かべるのだろうから。嫌になりながら、ウンザリしながら、それでも。その時、この素晴らしいポップ・ソングはあなたのものになる。
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誰かの平凡な、それでも人並みに波乱万丈な人生をそっくり知りながら生きることは、割に合わない、不気味なことである。あるいは、嫌になるほど誰かのことを知ることができると思うこと自体、錯覚か、思い上がりなのかも知れない。それでも、嫌になるほど知ったつもりでいる誰かの考えていることを、ふと感じ取ったり、言い当てたりすることは、きっと素敵なことなんだろう。
あるいは、嫌になるほど知ったつもりになっていた誰かの、甘い季節を一緒に通り抜けた、もうまともに名前を呼ぶことすらおぼつかないその誰かの、知らない瞳に出会うこと。その他者なる存在をただただ畏れること。あるいはその、他者との圧倒的な繋がらなさに怯まず、他者なる瞳を懲りずに見つめること。