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ボスニア・ヘルツェゴビナ南部の村、ポチテリ。ボスニア紛争で、村の家々や耕地の多くが焼かれた。母親がここの出身である写真家スレイマン・ビエディッチさんによると、「村全体にわざとヘビが放され、元の住民たちが戻れなくなってしまった」という。(PHOTOGRAPH BY SULEJMAN BIJEDIĆ)

内戦から20年、断絶つづく故郷ボスニアへ 写真16点

2018.01.12
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 スレイマン・ビエディッチさんは5歳でボスニアを離れた。それでも、祖父母の家で遊んだことや、泳ぎを教えようとする父にネレトバ川に投げ込まれたことが今も記憶にある。銃声も街頭の混乱も、父が捕虜収容所に連れて行かれるところも覚えている。クロアチアの港に車で連れて行かれ、夜になってイタリア行きの船に乗ったことも忘れていない。飛行機の音やサイレンが聞こえると、こうした記憶がよみがえることがある。(参考記事:「高さ25m、モスタル橋からダイブ!」

 2016年、ビエディッチさんはカメラを携えてイタリアを発ち、母の故郷の村ポチテリに向かった。小さいころに両親と一緒に訪れたことはあるが、今度は一人だった。村に留まったムスリムたちの社会と、内戦後に戻ってきた人たちを記録したかったのだ。このプロジェクトを、彼は「Odavle Samo U Harem」と呼んだ。村の老人が言った「ここからは墓へ行くだけ」という意味の言葉だった。

村の郊外には、高さ4.5メートルほども積み上げられた石の山があちこちにある。現地で「ゴミレ」と呼ばれ、古い伝説では、オスマン帝国との戦争中に疫病で死んだギリシャ兵の遺体を覆っているという。(PHOTOGRAPH BY SULEJMAN BIJEDIĆ)

 ビエディッチさんの母が幼いころの思い出として語ったポチテリは、パブとレストランが立ち並び、自然に囲まれた牧歌的な村だった。だが、ビエディッチさんが目の当たりにしたのは、内戦で破壊された村だ。1990年代のユーゴスラビア分裂後、正教徒のボスニア系セルビア人、カトリックのクロアチア人、イスラム教徒のボスニア人による内戦が起こった。地元の産業は崩壊し、残ったのは高い失業率と社会の緊張状態だった。ネレトバ川にはごみが浮かんだ。(参考記事:「古い民家、ボスニア」

 しかし毎年夏になると、先祖の地とのつながりを確かめようと、ビエディッチさんの世代がヨーロッパ各地から戻ってくる。「彼らの親は、子どもたちに自らのルーツ、言語、一族との関わりを失ってほしくないと願っています」とビエディッチさんは言う。

最近ようやく、ポチテリの家々にも水道システムが整備された。それ以前は、人力でくみ上げる井戸と雨水が村の水源だった。(PHOTOGRAPH BY SULEJMAN BIJEDIĆ)

 外国に逃れた難民たちにとって、故郷に帰るのは厄介なプロセスだ。内戦終結から20年あまり経つにもかかわらず、町のサッカークラブも商店も、民族ごとに分断されている。ボスニア・ヘルツェゴビナはどこもそのような状態だ。

 1995年に和平合意が成ると、90年代後半には、国際社会が難民にボスニアへの帰還を求め始めた。「これによって、切望されていた経済支援がもたらされ、新たに見出された融和政策がうまくいっていると証明できるはずでした」と話すのは、人道活動家のハンネス・アインシュポーン氏だ。同氏は2016年、英オックスフォード大学で修士号を取るため、ボスニア帰還難民の調査を行っていた。内戦後に帰還する人々は、「国に帰ることで新しい体制に賛同を示し、国家が再び機能することに信頼を託そうとしています」とアインシュポーン氏は話す。

 しかし、帰国はまだ第一歩に過ぎない。帰国に続いて、土地の所有権を確認したり、家々を再建したり、関係を修復したりする道のりが始まった。帰還難民を満載した国連のバスに護衛部隊が続き、帰還者たちには法的支援が与えられた。一方、土地には地雷が埋まり、建物には偽装爆弾が仕掛けられていた。

 敵意はまだ薄れてはいなかった。帰還者は迫害に遭ったり、撃たれることすらあった。特に、内戦の間に民族構成が変わった地域でその傾向が強かった。2015年になってさえ、ボスニア北部に戻ってきた人たちが暴力を受けたりしている。国内各地にある仮設住宅に住む人は、今も7000人以上に上る。

村のイマーム(指導者)が、金曜日の礼拝の準備をする。紛争中、セルビア人とクロアチア人の武装勢力は、民族浄化作戦でイスラム系ボスニア人(ボシュニャク人と呼ばれる)を虐殺した。(PHOTOGRAPH BY SULEJMAN BIJEDIĆ)

 2004年、100万人目の難民がボスニア・ヘルツェゴビナに戻った。だが平均的な帰還者は高齢か、引退した世代だとアインシュポーン氏は言う。たいてい、彼らはヨーロッパのどこかに家を持ち続けていて、ボスニアの村と行ったり来たりするのだ。雇用の機会が乏しいため、若者は親の母国に戻って永住したいとは思っていない。(参考記事:「国境の先にユートピアはあるのか、少年難民の苦悩」

 アインシュポーン氏が調査を行ったボスニア・ヘルツェゴビナ北西部の都市プリイェドルも、分断されたままだ。中心街の商店はセルビア人が所有し、元々の居住区に住むムスリムはほとんどいなかった。帰還者が新しい家を何軒か建て、決まった季節にだけ住んでいた。アインシュポーン氏は、隣人同士が互いを幽霊同様にみなしているという感じを受けた。「住民が街に戻っても、別々の2つの街に分かれてしまっています。両者の間に、実質的な交流はありません」

 時間が経てば経つほど、帰還は難しくなる。アインシュポーン氏は、国際社会で「本国への帰還」という意味で使われている用語に疑問を呈する。「『リパトリエーション(repatriation)』は、ラテン語の故国(パトリア)に戻るという概念です」とアインシュポーン氏は言う。「故郷の国そのものが変化することは考慮されていません。実際には、母国は変わるのです」(参考記事:「人類の旅路 戦火を逃れ 国境を越えるシリア難民」

 アインシュポーン氏は自身の研究で、帰還者が母国での生活にスムーズに移行するには、政治的・経済的な力を得ることが欠かせないと結んでいる。しかし、多様性のある国を建設する計画は、ボスニアの地域レベルでは具体化していない。「内戦は凍りついた状態で、克服されたとはまだ言えません」とアインシュポーン氏。内戦後の統合の必要性は、イラクやシリアといった地域でも取り組むべき課題だろうと彼は言う。氏は現在、国際協力NGO「CARE」の一員としてイラクで活動している。(参考記事:「独立から25年、岐路に立つタジキスタンをとらえた16点」

村の老人の一人、ズルフォさんは、村人たちのエピソードを際限なく語ることができる。幾世紀にわたってこの土地に住み続けてきた人々の家系図をそらで言えるほどだ。(PHOTOGRAPH BY SULEJMAN BIJEDIĆ)

 しかし、故郷へ戻って暮らせない人々にとっても、訪問で古い傷が癒えることがある。母親の村を再訪したスレイマン・ビエディッチさんは、アブドゥラ・ボシュチェロさんというという老人に出会った。ボシュチェロさんは、この若い写真家の求めるものを直感的に理解してくれた。彼が危篤になった時、家族は病院に連れて行こうとした。その度にボシュチェロさんは拒み、こう言うのだった。「ここからは墓へ行くだけ」

 土地へのこうした愛着が、ビエディッチさんの心に響き渡った。「生まれた場所と直に接触を持てなくなり、外国で育つのは、誰にとっても容易ではありません」と彼は言う。「自分の足元にしっかりした土台がないようなものです」。その土台を取り戻し、母国への誇りを認識する手助けをしてくれたのが、老いた友のボシュチェロさんだった。ビエディッチさんは彼の言葉「Odavle Samo U Harem」を、撮影プロジェクトのタイトルにした。

「戦争は兵士が銃撃をやめた日に終わるのではありません」とビエディッチさんは言う。「多くの人にとって、それは始まりに過ぎません。彼らは戦争が残したものを一生、あるいは数世代にわたって背負って行かなければならないからです」


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文=Nina Strochlic/写真=Sulejman Bijedić/訳=高野夏美

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