日本に「市民社会」は存在しないのか?

シノドス国際社会動向研究所(シノドス・ラボ)ではシリーズ「来たるべき市民社会のための研究紹介」にて、社会調査分析、市民社会の歴史と理論、政治動向分析、市民運動分析、地方自治の動向、高校生向け主権者教育、などの各領域において、「新しい市民社会」を築くためのヒントを提供してくれる研究を紹介していきます。

 

今回は『市民社会とは何か』の著者、植村邦彦氏に、「市民社会」という言葉と思想についてお聞きました。(聞き手・構成 / 芹沢一也)

 

 

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〈civil society〉という言葉の系譜

 

――本日は「市民社会」という言葉と概念、あるいは思想についてお聞きしたいと思います。この言葉の原語である〈civil society〉について、まずは教えてください。

 

英語で〈civil society〉という言葉が初めて使われたのは、日本で言えば安土桃山時代にあたる16世紀末のことでした。『オクスフォード英語辞典』(OED)は、英単語の語源や初出を具体的な文例で示していることで有名ですが、それによると、1594年に出版された英国教会派の神学者リチャード・フッカーの著書『教会統治法』に、この言葉が出てきます。

 

ところが、『教会統治法』を実際に読んでみると、この言葉が出てくるのは、じつは古代ギリシアの哲学者アリストテレスの『政治学』からの翻訳語としてなのです。その際にフッカーが使用したと思われる『政治学』のテクストは、1438年にフィレンツェの人文学者レオナルド・ブルーニが出版し、その後ヨーロッパ各地で普及していたラテン語訳でした。

 

 

――〈civil society〉という言葉自体が翻訳語だったんですね。

 

そうです。〈civil society〉という英語は、じつは〈societas civilis〉というラテン語の直訳語であり、このラテン語はさらに、〈politike koinonia〉というギリシア語の訳語だったのです。このギリシア語は、牛田徳子訳のアリストテレス『政治学』では「国家共同体」と訳されています。〈politike koinonia〉はよく知られているように、奴隷に対する自由人の支配関係と、女性に対する男性の支配関係を前提とした政治体制です。ですので、「市民社会」という日本語のニュアンスとは相当に異なるものです。

 

〈civil society〉のこのようなアリストテレス的用語法は、英語圏では、17世紀の社会契約論にまで引き継がれます。その代表者であるトマス・ホッブスは、1640年の著書『法の原理』で〈civil society〉という言葉を使っていますが、それは人々の「信約」によって成立する「政治体body politic」の同義語としてです。

 

しかし、1651年の主著『リヴァイアサン』では、ホッブスはこの言葉の代わりに〈commonwealth〉という言葉を使っていて、水田洋訳の『リヴァイアサン』では「コモンウェルス」とカタカナ表記されています。現代では大英連邦やロシア連邦などの「連邦」の意味で使われる言葉ですが、17世紀の用法では「国家」と訳すのが一番素直だと思います。

 

 

――なるほど、〈civil society〉という言葉は、当初は「国家」を意味していたのですね。

 

はい。もう一人の代表的な社会契約論者のジョン・ロックも、1690年の著書『統治二論』で〈civil society〉を使っています。ただし、彼はその同義語として、むしろ〈political society〉や〈commonwealth〉の方を多用しています。〈political, or civil society〉という言い方もしているので、ロックの場合は「政治社会」という訳語が適切だと思います。

 

フランス語圏では、18世紀を代表する思想家の一人ジャン=ジャック・ルソーが〈société civile〉という言葉を使っています。このフランス語表現も1568年のアリストテレス『政治学』のフランス語訳で、「国家共同体」の訳語として使われるようになった言葉でした。

 

ルソーは1755年の『人間不平等起源論』で、次のように述べています。「ある土地に囲いをして『これは俺のものだ』と宣言することを思い付き、それをそのまま信じるほどおめでたい人々を見付けた最初の者が、〈la société civile〉の真の創立者であった」。本田喜代治・平岡昇訳の岩波文庫版はこの言葉を「政治社会」と訳しています。

 

 

――国家や政治共同体とは別の領域を指すようになるのは、どのような経緯によってなのですか?

 

アリストテレス的用語法とは異なる「市民社会」概念の系譜は、18世紀末にドイツ語圏で始まります。ドイツ語の〈die bürgerliche Gesellschaft〉です。クリスチャン・ガルヴェが訳したアダム・スミス『国富論』(1794~96年)に、この言葉が頻出します。

 

ガルヴェはスミスの原文中の「社会society」をすべて〈die bürgerliche Gesellschaft〉と訳しました。この結果、スミスが描いた分業と商品交換に基づく「文明的商業社会」が、「市民社会」だと理解されることになったのです。ヘーゲルが『法の哲学』(1820年)でこの用語法を取り入れて、経済社会としての「市民社会」と「国家」を区別し、それをマルクスが引き継ぎました。

 

このように、アリストテレス的な「国家共同体」としての〈civil society〉と、ヘーゲル=マルクス的な「経済社会」としての〈die bürgerliche Gesellschaft〉が、どちらも現代の英和辞典や独和辞典に従えば「市民社会」と訳すことのできる言葉でした。このことが、日本における「市民社会」概念の混乱を生んだと私は考えています。

 

 

――なるほど、「市民社会」の原語には国家と経済社会といった、まったく異なるふたつの意味があったのですね。ただ、いまだ日本語の「市民社会」がもつ意味、あるいはニュアンスとは、だいぶ開きがあります。

 

 

「市民社会」をめぐる誤解

 

――最新の広辞苑の定義によると、「市民社会」は「(civil society)特権や身分的支配・隷属関係を廃し、自由・平等な個人によって構成される近代社会。啓蒙思想から生まれた概念」とあります。ご著書では、この定義には「大きな誤解」があると指摘していますね。

 

最大の誤解は、これが「近代社会」を指す言葉で、しかも「啓蒙思想から生まれた概念」だとされていることです。〈civil society〉という英語表現は、先ほど説明したように、そもそもアリストテレス以来の「国家共同体」を指す言葉です。それはいつの時代にも存在する政治的支配のシステムであって、「自由・平等な個人によって構成される近代社会」ではありません。

 

 

――「市民社会」というと近代性を担保するもの、というイメージがあるので、最初読んだときには広辞苑の定義に違和感を持ちませんでした。

 

じつは『広辞苑』での「市民社会」の定義は、時代によって変化しています。それ自体が、日本の戦後史の動きを反映した興味深いものなのです。

 

1955年に出版された初版ではこうでした。「【市民社会】(bürgerliche Gesellscahft)自由経済にもとづく法治組織の共同社会をいう。近代国家の基礎とされ、必ずしも都市住民の結合にのみ限らない。その道徳理念は自由・平等・博愛」。

 

ここでは原語がドイツ語で、しかも「国家の基礎」だとされています。これは、「国家」と「市民社会」を区別するヘーゲル=マルクス的系譜に基づいた理解です。

 

ところが、1969年の第2版で大きな変化が起きます。「【市民社会】(civil society)自由・平等な個人の理性的結合によって成るべき社会。17~18世紀頃ロック・ルソーらが提唱」。

 

 

――言われてみると、間違っていますね…。

 

そうです。先に説明したように、ロックやルソーの場合、この言葉は「政治社会」ないし「国家」を指すものです。しかも、どちらの場合にも、この「国家」は、土地所有者が自分たちの所有権を守るために作り上げた政治秩序を意味します。

 

ロックはそれを「多数者の合意」を根拠に正当化していますが、ルソーはそれを富者による支配だと批判しています。いずれにしても、彼らにとって〈civil society〉は、けっして「自由・平等な個人の理性的結合によって成るべき社会」ではありません。

 

その後、『広辞苑』の第3版(1983年)と第4版(1991年)では、前半部分が「特権や身分的支配・隷属関係を廃し、自由・平等な個人によって構成される近代社会」と変更され、第5版(1998年)と第6版(2008年)では、後半部が「啓蒙思想から生まれた概念」と変更されました。

 

2018年1月には『広辞苑』第7版が発売されるそうですが、「市民社会」の項目がどうなっているか、今から楽しみにしています。

 

 

――お話を伺っていると、現在にまでいたる「市民社会」の定義を決定づけたのは第2版ですね。

 

そうです。現行第6版までの定義の基本線は、第2版が敷設したものです。このような「誤解」がなぜ生じたのかを理解するためには、第2版のこの項目の著者が誰なのかが問題です。私も岩波書店の元社員に聞いてみたことがあるのですが、もうわからないということでした。

 

ただ私は、この項目の著者は、松下圭一だったのではないかと推測しています。丸山眞男門下の政治学者で、「市民社会論」の提唱者の一人です。彼は1959年の『市民政治理論の形成』で、ロックの『統治二論』の〈civil society〉を「市民社会」と訳したうえで、それを「自由・平等な個人の私的所有を基体とする原子論的機械論的関係」と説明しているからです。

 

松下は、1987年の『ロック「市民政府論」を読む』でも、「ロックにとって市民社会とは自由・平等・独立の個人による人民主権型社会だった」と繰り返しています。

 

 

――誤読と言ってもよいくらの「意訳」ですね。

 

『広辞苑』第2版の前年に、ロックの『統治二論』の第2編が、鵜飼信成訳『市民政府論』という題名で出版されています。この文庫版は、〈civil society〉を「市民社会」と訳しただけでなく、第2編の題名にある〈civil government〉を「市民政府」と訳しました。ここにも、戦後民主主義の系譜につながる「市民」運動を背景にした、ロック思想の現代的読み込み、つまりは歴史的文脈の無視を見ることができます。

 

ちなみに、この〈civil government〉は、その後の加藤節訳『完訳 統治二論』では「政治的統治」と訳されています。訳者の加藤は「解説」で、鵜飼信成訳『市民政府論』の訳語が「『統治二論』に関する誤解を拡げる面がなかったとは言えない」と批判しています。

 

 

講座派マルクス主義の影響

 

――日本における「civil society」の受容について、さらに詳しくお伺いしていきたいのですが、この言葉の受容にあたっては、戦前の講座派マルクス主義が重要な役割を果たしていますね。

 

日本では1922年に、非合法組織として日本共産党が創立され、1930年代に共産党系マルクス主義者が総結集して『日本資本主義発達史講座』(岩波書店、1932~33年)が刊行されました。講座派というのは、この『講座』に寄稿したマルクス主義者たちのことです。

 

彼らに共通しているのは、コミンテルン(共産主義インターナショナル)が1927年に決定した「日本問題に関するテーゼ」に従って、日本は半封建的な国家であって成熟した近代国家ではなく、したがって、日本革命の目標は絶対君主制である天皇制の廃止とブルジョア民主革命の達成だ、と考えたことでした。

 

 

――社会主義革命にいたる前に、日本ではブルジョア民主主義革命、つまり近代社会の確立が必要だということですね。

 

はい。講座派を代表する学問的成果の一つである山田盛太郎の『日本資本主義分析』(1934年)は、「英国資本主義」を資本主義の「古典的構成」と見なしました。そのうえで、さらにフランス・ドイツ・ロシア・アメリカの資本主義と対比させた「日本資本主義の軍事的半農奴制的型制」を「日本型」と規定し、「半農奴制的零細農耕をもつ特殊的、顛倒的、日本資本主義の、世界史的低位に基く特質」を分析したものでした。

 

また、歴史家の羽仁五郎は『講座』に寄稿した1932年の論文の中で、日本の歴史を貫いて存在する「アジア的性格」を強調し、「古代にまでその淵源を辿ることができるこのアジア的専制」が、天皇制という形態で現在まで存続していることを示唆しています。

 

 

――要するに、先進的で近代的なヨーロッパに比べると、日本は封建的で遅れた社会だと認識されていた。

 

そうなります。「進歩的」で「自由」なヨーロッパと比べて、「停滞的」で「専制的」な社会の状態を典型的に指し示す形容詞として、「アジア的」という言葉を使ったのは、モンテスキューの『法の精神』(1748年)やヘーゲルの『歴史哲学講義』(1822~31年)でした。

 

そのようなヨーロッパ中心主義が、19世紀にはヨーロッパの「文明」意識の中心に定着します。そして、日本でそのようなヨーロッパ中心主義を、「文明開化」の必然性という形で受容して反復したのが、福沢諭吉の『文明論之概略』(1875年)でした。

 

1930年代の講座派マルクス主義は、「アジア的」な後進性の自己批判と克服という問題意識において、福沢の文明開化論と重なり合うことになります。そのかぎりでは、講座派マルクス主義者にとっての「マルクス主義」とは、いわば「文明開化」のもう一つの道を指し示す最新版の「西洋化」思想だった、ということもできます。

 

 

――日本も近代ヨーロッパのように文明化しなければならない、そのような発想を持つ講座派マルクス主義の強い影響下で、「市民社会」という言葉と概念が成立するわけですね。

 

日本語で「市民的社会」という言葉がはじめて使われたのは1923年、佐野学によるマルクス『経済学批判』の翻訳においてでした。訳者の佐野は創立されたばかりの日本共産党の幹部です。「的」の付かない「市民社会」という表記がはじめて現れるのは1925年ですが、これもマルクスの「フォイエルバッハ・テーゼ」の翻訳でした。

 

翻訳ではない著作の中で「市民社会」という言葉を最初に使ったのも、マルクス主義者です。講座派マルクス主義者の一人、平野義太郎の1934年の著作『日本資本主義社会の機構』です。平野はそこで、「最も徹底したブルジョア民主主義変革」であるフランス革命によって成立した近代的社会を「市民社会」と呼んでいます。

 

平野は、「市民社会」は「旧封建体制に対するブルジョア的自由・平等の勝利」の結果成立したものであり、その構成員は「独立的個人」だと述べています。それに対して、日本は「未だ曾て『自由・平等』の思想を知らない専治主義的封建制」だった、とされます。

 

 

――進んだヨーロッパと遅れた日本という対比がきわめて明確ですね。

 

はい。ここで前提されているのは、やはり「先進的ヨーロッパ」対「後進的アジア」という認識枠組みです。

 

ヨーロッパの資本主義の発展が「自由・平等・独立的個人」をもった「市民社会」を生み出したのに対して、「日本のブルジョア自由民権運動」は「自由主義の不徹底な一変種」にすぎず、その結果、日本には特殊日本的な「資本主義社会」は存在するにもかかわらず、ヨーロッパ的な「市民社会」はまだ存在しない、という現状認識です。

 

したがって、日本が当面する変革の課題は、「ブルジョア民主主義革命」によって「市民社会」を実現することだ、ということになります。それが講座派の共通認識でした。

 

 

「日本にはまだ市民社会がない」

 

――原語では国家や経済社会を意味していた「市民社会」が、講座派的な発想のもとで、実現されるべき理想に変質したのがよく理解できます。戦後、日本ではGHQによって民主化が進みますが、そうしたなかで「市民社会」はどのような経緯をたどるのでしょうか?

 

敗戦後の日本では、連合国軍の占領下、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の指導と圧力のもとに、急速な「民主化」が進められました。憲法の改正をはじめとして、戦争協力者の公職追放、財閥解体、農地改革などを含む広範な「戦後改革」が行われたわけです。とくに農地改革は、講座派が「半封建的」と見なした農村の小作農を、ほぼすべて独立自営農に転換させ、日本資本主義の特殊性を大幅に解消しました。

 

そのような状況の中で、「市民社会」という言葉も、ヘーゲルやマルクスが批判対象とした資本主義的経済社会の同義語としてではなく、むしろスミスが描いた近代的な文明的商業社会を表現する概念として、広く受け入れられていくことになります。

 

そのような理解を推進したのが、スミス研究者の高島善哉でした。彼は1947年に出版した『アダム・スミスの市民社会体系』の「序」で、「民主主義革命途上にある我が国」では「市民社会」論の研究が「日本の啓蒙化の理論」になる、と述べています。

 

 

――講座派と同じ発想ですね。

 

はい。このような問題意識は、かつての講座派の主張の反復です。自由主義的市場経済論者であるスミスの研究が「民主主義革命」につながる、という理解は、今から見ると奇妙に思われますが、1980年のインタビューで、高島は当時を振り返ってこう述べています。

 

「日本にはまだ市民社会がないんだ、これをつくり出さなければ戦後は日本はまともに動かない……。日本では前近代に対する闘いはこれからやっと始まるんだから、市民社会ということをもっと強調しなければいけないという考えだったと思います」。

 

このように「市民社会」を資本主義的な経済社会とは区別される変革の理念と見なしたうえで、日本におけるその実現を主張したのが、「市民社会論」と呼ばれることになる言説でした。それが「前近代に対する闘い」を想定していたことからわかるように、「市民社会論」というのは、一種の近代化論でもあったわけです。

 

「日本にはまだ市民社会がない」と考えた「市民社会論」(高島善哉やその門下の平田清明)は、「典型的な西欧社会」を理想化して、西欧なみの市民社会をつくりだすことを日本の課題としました。そうするかぎりで、ヨーロッパ中心主義を内面化した「文明開化」論の末裔だったと言うことができると思います。【次ページにつづく】

 

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