こんばんは。
みなさんは自分を肯定して生きてますか。
肯定までせずとも認めて生きたいものですよね。
でも、これができない人のかくも多き事かと最近は強く感じます。
ま、自分も人のことを言えた義理ではないんですけどね。30代も半ばを過ぎて安や怒りを手放しつつある今、ようやっと手にしているような「自己肯定感」とやらについて語ってみたくなりました。
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自己肯定感
言葉の定義をネットなんかでヒョイと引用するのは簡単なんですけどね。
ここはあえて、自分の頭で描く「自己肯定感」を語りたい。
ま、語るっつってもややこしい言葉で構成された言葉ではないんでね。自己を肯定する感覚でしょ。そのまんま。
「自分はこれでいい」というのはちょっと違う気がする。自分はこれで良い、と考えるとそのあとの伸びしろが無くなってしまうので、変化のチャンスを逃してしまう。
うーん、自己肯定感。改めて考えるとむつかしいねぇ。
そうだな。外部からの刺激や要因に対しての自己の反応で、相対的に自己肯定感の高低はあるていど測れると思うんですよ。
例えばそうですね、日常で嫌なことがあったとして、それを何かに転嫁してしまう気持ち。「あいつが悪い」「これがあるから駄目」とか。そういうの。これは自己肯定感が低いと想起しやすいんじゃないかな。他者への攻撃性に転じてしまう。
自責に転じるパターンもある。何があっても「ごめんなさい、私が悪いんです」ってやつね。これも自己肯定感が低いが故に考えてしまうこと。
じゃ、自己肯定感の高い人はこういう感情をどう処理してんの?というと1つのパターンとして「キニシナイ」ってのがある。ほんと、キニシナイの。これは強い。一瞬は嫌だと感じても、瞬時にその感情を消してしまう。マインドフルネスを日常的に行っている内観力のある人はこういうの得意そう。
もしくは「ああ、こういう気持ちがおこったのは、自分がこう考えているからなんだな。じゃあ見方を変えて前向きになってみようか」という認知のシフトができる。これも強い。ありとあらゆることを前向きに転じることができる、心の合気道の達人みたいな。
自己肯定感の高低もピンキリだと思うんだけど、生きづらいレベルに落ち込んでいる人は結局、何かの問題にぶち当たった時に外部の影響を消しきれない人だろうね。高い方に分類される人は、キニシナイあるいは前向きにそれを捉えてまた笑顔で生きていける。でも、低い人は結論として「あいつが悪い」「これがあるから駄目」「自分が悪いんだ」という、幸福から遠ざかる結論を下してしまう。
自己肯定感の低い人を見ていて思うこと
自分の意思決定を誰かに委ねている場合。これは自己肯定感が低いという意味では極限状態に達している。何故なら自分の人生の舵を他人に預けてしまっているから。相当に危険。というのも、明日にどうなるのか自分でも見通しが立たないのです。ただでさえ未来なんぞわからんのに、それがさらにモヤに包まれるとか、そりゃ不安も募るし生きてる心地はせんわ。
「あの人がどう思っているかわからない」「次の連絡が来ないからどうしようもない」などなど、悲しい言葉が列挙されるのを過去に何度も何度も聞いてきたけれど、そのたびに思うのは「いやいやそんなことよりアンタはどうしたいのよ?」ってこと。これを問うと大抵の場合は答えに窮する。何故ならば自分というものを持っていないから。自分がどうしたいのかすら定まっていない。自分以外の他人の挙動にすべての裁量を預けてしまったが故の将棋でいうところの「詰み」、チェスでいうところの「チェックメイト」ってやつ。ここから脱出しない限りは未来永劫闇の中でのた打ち回ることになります。きつい言い方をすれば来世に期待するしかありません。 しかし、詰みやチェックメイトから脱出する方法はゲームのルールに則ると方法がないんですよね、だからこそ難しい問題なんです。ここを脱出することを至上命題としても大げさな目標ではないでしょう。
あとはまぁいっつも怒っていたり自己愛に浸っていたりと色々なパターンを見るけれど、だいたいの場合はなんとか世間と折り合いつけて壊れない程度に生活している人が多い。これらは自己肯定感は低いけれど病的ではない、あるいは周囲の優しい人々に支えられながらそれを意識せずに偶然の幸運で命を繋いでいる感じですね。こういう人は良いんですよ。まだ病まずに生きていけるから。幸せには程遠いけれどもね。
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自己肯定感を高める唯一の方法
主題ですけれど。
とある本を引用しますと
歪んだ自己愛を直す方法は、たった1つしかありません。
それは、自分への思いやり、慈しみの気持ちを養うことです。つまり「自尊心」が自信の根底にあるのです。
文脈(本全体の構成)をすっ飛ばしているので、ここだけ見りゃ何が何だかわからんかもしれませんが、要するに「自己肯定感を持つには、まず自分を大切にしなけりゃ駄目よ」ってことです。当たり前ですよね、自分を肯定するということは自分の存在を認めるってことですから、自ずと自分を大切にするようになりますよね。意図的に自分を傷つけたり、消耗させたりなんか、する気が起きるはずありませんよね、自分を大切にする人は。
この答えは僕的にはピシャリときたんですよ。まさにその通りで、自己肯定感というのは自分を大切にしなければ高まらない。けだし当然のことなんですよ。いつもどこかで無理をしていて、納得いかないのに自分をかんなで削るような生活をしていて、それで自分を肯定できるわけないじゃないですか。
あれですよ、自分を大切にしなきゃダメ。「自分なんてどうなったって良い」というのはまやかしであって、何の美しさもないんです。むしろ欺瞞的で押しつけがましいんです。「私はここまで無理をしているのに、あなたは何も返してくれない!」って言ってるのと同じです。どうですか、こういうの、傍から見てて美しいですか?醜悪でしょう。押しつけの善意ほど食わされて嫌な気持ちになるものはない。しかも、無下に断ることもできにくいというモラハラのメインウェポンにもなり得る凶器です。
僕が自分を大切にする方法
自分の性格を知ること
周りに気を遣いすぎてどうにも疲れる、って人はHSPを疑ってみてはいかがでしょうか。自己診断してみて見事に当てはまれば、カテゴライズされるけれど、すっごく楽になりますよ。もし僕が「HSP」というものを知らなければ、もしかすると未だに気遣い疲れの中で生きていたかもしれません。これを知ることによって生きることが大変軽やかになった。大げさじゃなくマジです。
HSPだけじゃなくて、まずは自分の性格をよく知ることです。内観です。自分と良く話し合って見つめてください。鏡を見るとかそういう物理的なことじゃなくて、心を見るんです。「自分とはどういう人間なんだろう、どうしてこんなに苦しいんだろう」と日頃から見つめていれば、自ずと像が見えてくるはずです。自分との対話を欠かさないでください。いつも群れの中にいないで、時には静寂の中に身を置いてください。
こうして性格を知れば、無理をすることがなくなります。自分が今までしてきたことで「苦しい」と感じる部分は、実はこういう「気質」が関与していたんだな、と知ることができれば無理は生じなくなります。あとはそれを避けるかまたはお付き合いをしていくか。知らないでわけもわからず苦しむよりは数倍マシ。ちなみに僕の場合は人に気を遣うことは気質なのだなと諦めて今では気遣いの鬼と化しています。もうとことんやったるわ、という心境です。
自分が心地よいと思う環境へ身を投じること
ずばり一人でいることです。
一人で居るのがめっちゃ好きです。
気の置けない友人だろうが親だろうが子供だろうが、僕の「一人の聖域」を侵すものはすべて侵略者とみなして排除します。
もちろん、パーティ会場がめっちゃ好き、って人はパーティ会場に身を投じたらどうですか。パーフェクトヒューマンのPVみたいな場所が心地よいと感じる人も少なからずいるはずですから。ただ、この場合は内観というセクションを取りにくいので、別途どこかで一人になる時間を設けることを推奨しますけどね。群れの中で安心できる人って、そもそも内観なんぞできるんかいな?という疑問があります。
嫌なものを遠ざけるまたは遠ざかる
イライラする物、人、場所は持たない、接しない、近づかない。これですね。運気が極端に下がるので駄目です。社会生活を送る上で表面上は付き合わなくてはいけない場合は、その場で話を合わせたり当たり障りなく接することは必要でしょう。しかし、それ以外で(余暇など)嫌なものに接していると、自分を著しく毀損してしまうことになります。これでは自分を大切にすることはできない。
ミニマリストの断捨離とかシンプルライフとか、 自己肯定感を上げるためにやってる一面もあるんじゃないですかね。僕ん家は余計なものがほとんどなくて、いつも整然としてます。やっぱり物も必要最低限で良い。人間関係もそう、付き合ってて心が穏やかになったり不安にならないような人と繋がってます。直感的に嫌だなーと感じる場所にもいかない。逆に好きなところ(何となく雰囲気が良いなーとか)は何度も足を運んでコースに組み込まれりルーチン化することもある。
「自分を大切にしろ」の難しさと、闇から脱出するための勇気
そんなこと言ったって、どうすりゃ良いのよ?
という人が大半だと思います。そうでしょうね、そうでしょうとも。自分を大切にできない、ということを「努力不足」と切って捨てるのは簡単に見えて最悪の選択だと思います。それぞれが生まれも育ちも違うわけで。気質も人間の数だけあるでしょ。どんなに気質がプラス思考でも、劣悪な両親または環境に影響されれば闇に落ちるだろうし、もともと荒ぶる気質でも人間性の優れたご両親や環境に育まれれば人格者へとステップを踏めることもある。つまり運もあるっちゅうことです。ただ、運だけが全てじゃなくて、劣悪な環境に身を置かれた人にも救いの手が差し伸べられるようなシステム(福祉)が整備される社会制度あるいは市井の人たちの意識の変革が求められるべきは言うまでもないんですけど。
回りくどくなったけど「自分を大切にする」っていうのはとっても難しいってことです。きちんとした両親に育てられて、これといって不自由なく育ち今では仏教感や禅の思想に触れて利他へと舵を切りつつある自分が想像するにはあまりにも力不足な闇の世界ではあるんです。けどね、色んな人の人生相談とか乗ってると「こういう自己肯定感が育まれなかった人は、いかにして自己肯定感を持ってもらうべきか?」の回答がいまだに出ないし、見つからない。書籍で「自分を大切にすることが唯一のソリューションだ」って書いてあっても、じゃあ自己肯定感低くて闇落ちしている人に「自分を大切にしろってよ!」って言い放ってそれで事が円満解決するかといえば、そんなことはないんだわ。もうね、目下模索中。時折、無力感すらある。闇の中にいて、誰かに依存して、しかも自分も世間様に公言できないような咎と見られるものを背負ってる人とか、いったいどのようにして道筋を示していいのか皆目見当もつかないんですわ。誰か教えてくれよ。
今のところ考えているのは、「それは良くない、自己責任だ、お前は破滅しろ!」っていう極端な糾弾をしてはいけないってこと。んで、時間はかかっても相談者となってそういう人たちの重荷を少しでも下ろしてもらい、そんで今より多少は上向きなベクトルで人生を進んでもらって幸せを獲得してもらうしかないかなーなんて。ま、要するに時間がかかるってことですな。自己肯定感が低いが故に闇にはまり込んだ人を救う手段というのは、即効性のある薬などはない、ということです。
あ、でも、これだけは言っとく。
今の闇の中から脱出するには、必ず勇気が必要になる。
後ろ向きな言い方をすれば「犠牲」です。
安全な場所で軟着陸して事なきを得る、なんていうことはまず無理だと思ってください。
依存して苦しんでどうしようもなくて、それでも自分の惰弱な欲望に身をゆだねている人は、もし真に平穏な日々を送りたいと思うならば、既存の世界が全て崩れてしまうかもしれない、くらいの覚悟を持ってください。自分可愛さで一歩を踏み出せずに彷徨して、それで悩みに悩んでグルグルしているようなら、それは永遠に続きますからね。それこそ、来世に期待するしかない。厳しいようだけど、 これが現実。もうあなたはそこまで来てしまったっちゅうことです。(恋愛の闇にハマっているケースだと、駄目男、駄目女と離れられないうちは絶対に幸せにはなれません。断言します)
とりあえず、マインドフルネス始めてみたらどうでしょ?
個人でできることでは、今のところこれくらいしかお勧めできんわ。
この本は読みやすくて良いよ。