念のために言うと以下の記事を書いたのはカトリーヌ・ドヌーヴではなく、ドヌーヴは記事に署名した100人の女性のうちの一人です。
いまさらとは思いましたが、原文には「権利」(droit)という言葉は一回も使われていなかったのが興味深かったので、全訳。
なお、「女性を口説く権利」として紹介された言葉は liberté d'importuner だと思われます。liberté は「自由」ですね。
importunerはうるさがらせるという意味の動詞ですが、しつこい口説きを表現する際に使われるので、「口説く」という訳になったのでしょう。
ただ、この動詞の主語は男性と限定されていません。また、口説く自由どころか、反対に口説きを断るための自由としても出てきます。
以上の理由で訳者は「ウザがられる自由」という訳語を採用しています。
性暴力は重大犯罪だ。ナンパはしつこかったり不器用だったりしても犯罪ではないが、そのことがマッチョの侵害行為を保証することにはならない。
ワインスタインの事件の結果、女性たちへの性的暴力が正しく意識されるようになった。特に自分の権力を濫用しようとする男性たちがいるプロフェッショナルのせかいにおける性暴力だ。 これは必要なことだった。しかしこの(被害を語る)言葉の解放が、今では反対方向に裏返ってしまった。われわれはしかるべき話し方を押し付けられ、怒らせるようなことについては口をつぐむよう命じられ、こうした命令に従うことを拒むような女性たちは裏切り者とか共犯者として見られるのだ!
かつての魔女狩りの古き良き時代のように、いわゆる普遍の名の下で、女性たちを永遠の被害者の地位や男尊女卑のデーモンに支配された可哀想でちっぽけな品物の地位へと上手く誘導するために、女性たちの保護と解放を論拠として利用すること。それがこのピューリタニズムの本質だ。
実際、報道メディアやソーシャルネット上で、#metooが巻き起こしたのは密告と、個人個人に抗弁の余地や弁護の余地を与えることなく、性暴力の加害者と同じ俎上で糾弾することだった。
このスピード審理は被害者を生んでいる。膝に触ったり、軽いキスをしようとしたり、仕事の打ち合わせの夕食の場で「私的」なことに触れたり、相手からは好かれていないのに性的なほのめかしをするメッセージを送ったりといった、それだけのあやまちで、職場で懲戒処分を受けたり、辞職を強いられたりなどした男性たちだ。
「豚野郎」たちを屠殺場へ送り込むこの熱狂だが、女性が自立することを手助けるには程遠かった。 実際には性の自由の敵、宗教的過激主義、最悪の反動主義者に利益をもたらすことになってしまった。この反動主義者は、実質的にはヴィクトリア朝のモラルのもとで、女性を「別扱いな」存在とみなし、女性を保護することを求めながら大人の顔をした子供とみなすのだ。
それに対して男性たちは、徹底的に意識を過去に遡って、10年、20年、30年前に犯したかもしれない「場違いな振る舞い」を洗い出し、反省の気持ちを示すように命じられているのだ。
公開の場での自己批判、プライベートな領域へと検察官の役割を自認する人々が乱入してくること、それが全体主義のような空気を作り出している。
粛清の波は限度を知らないように見える。 あちらではエゴンシーレのポスターの裸を取り締まる。こちらではモチーフが小児性愛を賞賛するものだとしてバルテュスの絵を美術館から引っ込めるように求める。 人と作品を取り違え、映画館でロマン・ポランスキーの回顧上映の禁止を求め、ジャン=クロード・ブリソー監督作品については延期になった。ある大学教員は、ミケランジェロ・アントニオーニの映画『欲望』を「女性差別」で「受け入れがたいもの」だと判定した。 こうした修正主義に晒されれば、ジョン・フォード(『捜索者』)やニコラ・プッサン(『サビニの女たちの略奪』)でさえ怯えていなければならない。
すでに我々の何人かに男性の登場人物をあまり「セクシスト」でなく書くように編集者たちから 求められているし、セクシャリティと愛について語るときは慎ましくするように、「女性として振舞うことのトラウマに苦しんでいる」ことをもっとはっきりさせるように(!)と求められているのだ。
馬鹿馬鹿しさの行き着く先は、スイスで提出されている法案だ。これは性的関係を持とうとするもの全員に明確な同意の通知を強制するものなのだ!さらにご苦労なことがある。二人の成人が一緒に寝たいと思ったら、携帯のアプリを使って、あらかじめ正式なリストのチェック欄を見て、やりりたいこととやりたくないことに印をつけなければならないというのだ!
哲学者Ruwen Ogienは、アーティスティックな創造に必要な中指を立てる自由を擁護した。 同様に私たちも、性の自由に必要不可欠なウザがられる自由を擁護する。 今日の私たちは、性的衝動が攻撃的で野蛮な本能に由来することを認めるのに十分な知識を持っている。しかし不器用なナンパと性的な侵害行為を混同しない十分な判断力も持っている。
特に、人間の人格というものが一枚岩ではないことは自覚している。一人の女性は同じ日に、職場のリーダーであることもできるし、「ビッチ」にも父権主義の卑しい共犯者ともならずに一人の男の性の対象になることを楽しむこともできる。
彼女は給与が男性と平等に支払われるように注意しているべきだ。しかし、地下鉄で痴漢にあっても、それが犯罪だからといって、トラウマを植え付けられたと感じる必要はない。そんな奴は性的なみじめさを表現しただけなのだとみなしていいのだし、評判だおれだったとさえ考えてもいい。
女性としての私たちは、自分たちが、力の乱用を超えて、男性たちとセクシャリティへの憎しみという顔をもったフェミニストになることを認めない。
性的な誘いを受けた時に「ノン」という自由は、ウザがられる自由無しでは上手く働かないと私たち考える。
そして私たちは、このウザがられる自由にどう応えていくかを知らなければならない。性的な獲物の役割に閉じこもる以外のやり方でだ。
子供を持つことを選んだ人々のために、私たちは、娘たちが気後れさせられたり罪の意識を感じさせられたりすることなどなく、自分の人生を精一杯生きるために十分教育されて自覚を持つことが適切だと考えている。
たとえそれが辛く、生涯残る傷を残すものだったとしても、身体を傷つけられる事故にあった女性は尊厳を傷つけられないし、傷つけられるべきでもない。 なぜなら私たちは身体だけの存在ではないからだ。私たちの内側にある自由は侵されることのないものだ。そして私たちが深く愛するこの自由は、危険に晒されることや責任感を持つことと切り離せないのだ。
執筆者: Sarah Chiche (作家、臨床精神科医、精神分析医), Catherine Millet (美術批評家、作家), Catherine Robbe-Grillet (コメディアン、作家 ), Peggy Sastre (作家、ジャーナリスト、翻訳家), Abnousse Shalmani (作家、ジャーナリスト).