カトリーヌ・ドヌーヴなどの女優やジャーナリスト、映画監督が、ルモンド紙で「#Metoo」運動を批判する書簡が話題になっている。#Metoo運動は昨年、ハリウッドの大物プロデューサーであるハーヴェイ・ワインスタインによるセクハラや性暴力をモデルや女優、従業員らが告発したことで再熱した運動だ。
ルモンド紙に掲載された書簡には、行き過ぎた#Metoo運動は「ピューリタニズム(潔癖主義)」であり、女性の自立を支援するものというよりは、男性を抹殺し、性の自由を妨害するものだという主張が書かれている。さらにレイプは犯罪であるが、男性が女性に言い寄ることは犯罪ではなく、女性の膝を触ったりキスをしようとしたことが告発されることで、男性が罰せられ、辞職や失職する事態になっているのはおかしくないか、という批判も述べられていた。
この書簡に対する最も大きな疑問は、「男性は加害者で、女性は被害者」と決めつけている点だ。先日報道があったように、第40代式守伊之助が10代の若手行事にキスをし胸部に触れるといったセクハラを行ったことを日本相撲協会が発表している(小倉智昭のセクハラ軽視と、日本相撲協会の”隠蔽”体質を擁護する姿勢)。これは、加害者も被害者も男性であり、書簡が前提としている「男性は加害者で、女性は被害者」というものではない。男性同士のハラスメント、女性同士のハラスメント、そして女性が男性に行うハラスメントもあり得る。
また書簡には「男性には女性に言い寄る権利がある」という主張もあるのだが、誰かを口説くことと、相手が望んでいないにもかかわらず膝を触ったりキスをするなど身体への接触を行うことや、性的なニュアンスの言葉で相手を貶めることは、そんなに似ていることだろうか。
恋愛とセクハラは混同されがちだが、そこには大きな違いがある。セクハラには権力勾配がある。そしてこの書簡は、セクハラなどハラスメントを考える際に見落としてはいけない権力勾配が考慮されていない。
対等な関係を築いている場合と、取引先と営業担当、上司と部下など権力差のある場合では、同じ行為でも別の意味が生まれてしまうことがある。対等な関係であれば断れるものも、例えば上司から指示された場合、部下は拒絶したらその後なんらかの支障が生じるのではないかと考え断りたくても断れない、という事例は想像するにたやすい。上司がただの恋愛感情のつもりでも、そこに「拒絶させない権力」がある可能性を自覚しなくてはいけない。これを「言い寄る権利」といってしまうと、セクハラが「恋愛関係への発展を目的としたアプローチの中で発生した両者の齟齬」のように捉えられてしまうだろう。
前述の記事(小倉智昭のセクハラ軽視と、日本相撲協会の”隠蔽”体質を擁護する姿勢)にもある通り、セクハラは深刻な問題と受け止められず、「この程度」と軽視されてしまう風潮がある。事実、この書簡を引いて、やはりセクハラを軽視するような主張がSNSでも多数みられる。
先にも述べたが、セクハラなどハラスメントはあらゆる上下関係の中で起こりうるものだ。女性の被害を無効化するために男性の被害を持ち出すのではなく、性別に関係なくハラスメント被害をなくすためにどうするかこそ考えていきたい。2018年は、昨年起きた#metoo運動の議論がそうした方向に進展する一年であってほしい。
(wezzy編集部)