宗教の訪問勧誘に同行する子供の視点

自宅にいるときに、宗教勧誘の訪問を受けたことはないだろうか?
こぎれいな身なりをした女性が、手袋をして日傘をさして、子供を連れて玄関口に立つ。その様子をドアスコープから覗き見ると、ちょうど『よく宗教勧誘に来る人の家に生まれた子の話』のカバーイラストのような光景になるだろう。

この“宗教勧誘”をする団体は宗教法人「ものみの塔聖書冊子協会」、一般的に「エホバの証人」の名で知られているキリスト教系の新宗教である。英語表記は「Jehovah's Witnesses」で、その頭文字をとって「JW」と略されることも多い。
聖書を使用することから「キリスト教系」と表記したが、その聖書は彼らが独自に翻訳したもの(「新世界訳聖書」)で、また教義解釈の点においてキリスト教主流派の基本信条を否定しているため、カトリック、プロテスタント、正教会などから異端扱いされている。また、昨年ロシアでは最高裁判所がエホバの証人を過激主義団体に指定したことも記憶に新しい。
聖書を独自に研究・解釈し、冊子「ものみの塔」と「目覚めよ!」を頒布するのが、彼らのおもな活動内容だ。

あの子たちは、ちゃんと学校に行っているのだろうか?

昼間に訪問を受けた側としては、誰しもが抱く疑問だろう。
しかし、エホバの証人は一般社会との関係を極力絶っているので、彼らの生活実態はあまり知られていない。
本作『よく宗教勧誘に来る人の家に生まれた子の話』は、かつてエホバの証人の二世信者だった作者の実体験に基づくエッセイ風マンガだ。子供時代に伝道活動に参加させられていた作者の目には、この宗教および活動はどのように映っていたのか?

ツイッターで自主発表したわずか8ページのマンガが2日間で3万RTを超える大反響を呼び、「ヤングマガジンサード」(講談社)にて連載することになった話題作である。

本作が持つ“生っぽさ”

日本におけるエホバの証人の歴史は意外と古く、昭和初年にはすでに本邦に移入されていたという。しかし、その活動が本格化するのは戦後から。
「訪問勧誘」という性質上、その伝道訪問を受けるのは専業主婦だ。
主婦から夫、子、家族へと伝播していった経路は容易に想像がつく。
宗教に熱心にハマる主婦、しぶしぶ付き合う夫、母親に連れまわされる子供。
『よく宗教勧誘に来る人の家に生まれた子の話』のコミックスのオビ文には「神様を信じる、お母さんと 神様を信じない、お父さん の間に生まれたこの子の実録(おはなし)」と記されているが、この主人公家庭の家族構成と信仰状況は、おそらくもっとも一般的な信者家庭の様子であると推測される。

エホバの証人が社会的に広く認知されるようになったのは、やはり信者による輸血拒否事件だろう。この事件は、1985年当時は「大ちゃん事件」と報じられた。
事件のあらましは『説得 エホバの証人と輸血拒否事件』に詳しく、またこの作品を原作として、ビートたけし主演でドラマも作られた。

さて、本作には「その1」から「その12」までの全12話が収録されている。
これら全12話は、内容面から以下のように大別できるだろう。
 ○第1部(その1~4):宗教生活の日常
  訪問勧誘や集会など、エホバの証人ならではの活動内容について語られる。
 ○第2部(その5~8):主人公の自我の目覚め
  目覚め始めた主人公の自我が、体罰や教義によって抑圧される。
 ○第3部(その9~12):脱会への過程
  信仰心への疑問、母への本心の打ち明けを経て宗教生活から脱する。

これまで脱会信者による告白本はいくつか出版されているので、本作で描かれる信者生活のディテールに関してはさほど目新しさはない。では、それら告白本を原作としてノンフィクションのマンガを描いたり、あるいは「ヤングマガジンサード」で連載するにあたって新規に作画担当者をたてた場合、これほど話題になっただろうか?
作者いしいさやの画力は、けっして高くない。しかし、だからこそ脱会者本人が描いているという事実――リアルさが強調される。プロの作家の手を介したノンフィクションならではの“リアリティ”とはまた違った、当事者によるドキュメント性という“生っぽさ”が担保されるからこそ、目新しさはなくとも読者はフレッシュな驚きを感じたのだろう。
主題と手法とスキル水準がマッチした作品、といえる。
解像度の高い画力で雄弁に語ることが必ずしも説得力を生むわけではないところが、エッセイマンガの面白さであり、難しさでもあると、改めて感じさせられた次第である。

浮き彫りになる「描かれていないこと」

この『よく宗教勧誘に来る人の家に生まれた子の話』の大きな特徴は、「主人公の目線で知り得た/体験したこと」しか描かれていないところだ。もっと言えば、本人が踏み込まなかった領域については描かれていない
みずから入信した信者一世の場合、そこにマインドコントロールが介在したにせよ、自分の意思でその宗教を選択したことに負い目がある。そのため告白本では、
 ①その宗教のどこに魅力を感じたのか
 ②入信当時の状況(団体と社会の周辺事情)
 ③教義の実践(建前と本音、内部事情)
 ④教団への疑問や批判(脱洗脳のプロセス)
といった構成となることが多い。
対して二世信者の告白の場合、親によって強制的に入信させられている時点で①や②は本人とは無関係であり、また③に関しても、そもそもその宗教や教義に魅力を感じていないので、トピックとして立てにくい。④の教団批判も、一世信者に比べて苛烈さはない。こうした事情があって、二世告白本は一世告白本に比べて、中立的(であるかのよう)な立場に見える。なお、ここで述べたことは、特定の宗教や団体に限った話ではない点に留意してほしい。
本作の巻末に「特定の団体や個人、信教の自由を否定する意図は全くありません。」との但し書きがあるが、それは二世告白本だからこそのバランス感覚だと理解したい。

それゆえに読者は「(対象宗教に関しては)フラットに描いている」との印象を抱くかもしれない。それは当然だ。以上の理由から、二世告白本は「その宗教について」ではなく、「自分をその環境に置いた人物(=親)」との関係性が主題とならざるをえないからだ。
つまり本作のテーマは、「宗教問題」ではなく「宗教を媒介とした親子問題」と考えるべきだろう。これはヤマギシ会を題材とした『カルト村で生まれました。』『さよなら、カルト村。 思春期から村を出るまで』 にも共通したテーマではないかと思う。

では、親子問題の視点で本作を捉えるとどうか。
現実世界における作者の現在の家庭環境がどのようなものかはさておき、作中における主人公家庭では、家族間の問題が何ひとつ解決されていない
母親は信仰を維持したままだ。
母親が宗教にのめり込んだ原因は明かされない。
そんな母親に対し、父親の無関心は変わらない。
母親が入院した際にも「お母さんが病院行かないのって」「宗教のあれなの?」と聞く程度だし、母親が主人公を虐待する場面においても、父親が仲裁に入るような描写はない。
保護者たちが子供を殴る道具について情報交換するシーンは、はたから見ればあまりに異常な光景だ。この父親は、そうした暴力を見て見ぬふりをしていたか、あるいは家庭内に幼児虐待があることさえ気づかないほど家族に無関心であるかのどちらかであったわけで、それは消極的なかたちで幼児虐待に加担していたことになる。
父親なりの、母親なりの“譲歩”の場面はあるが、それは「家族関係の維持」にしか接続しておらず、子供が負った心の傷に対しては無自覚のままだ。
家族間の問題は解決されず、温存されてしまっている。
本作は「主人公の目線で知り得た/体験したこと」しか描かれていないと前述したが、描かれていない部分――依然として家族の間に横たわり続ける諸問題――にこそ、僕は戦慄したのである。

親に反抗することは、一般社会では普通にあることだ。程度の差こそあれ、思春期には誰もが経験した覚えがあるはずだろう。しかし、ハルマゲドン思想と徹底した二元論(エホバ的/サタン的)を叩き込まれた信者家庭においては、親に逆らうことは、地獄に落ちて永遠の破滅に陥ることを意味する。
罪悪感と恐怖感の支配から逃れるには、さまざまな苦悩があったはずだが、その部分に関しては本作は実にサラッとした描写にとどめている。
その理由を考えるときに、ネグレクト家庭で育ったために親子の情愛が実のところ理解できていないからなのか、あるいはまだ本人の中で未消化で言語化できていないのか、作品からは判然としない。

「宗教を媒介とした親子問題」がテーマなら、フィクションの場合、その物語的な帰結は「家族の再生」だ。しかし本作では、その部分は解決されることがないため、「道半ば」的な印象を抱く。とはいえ、その結末が「現状報告(現時点で、その作者が描けること)」として読者に受容されるのも、エッセイマンガという手法なればこそ、だろう。

昨今、カルト宗教を脱会した元二世信者や、DVやアルコール・薬物中毒を家族に持つ当事者によるエッセイ本などが注目を集めている。それらを読む際、僕たちは「描かれていること」と同時に、「描かれなかったこと」に対しても思いをめぐらせる必要があるのではないだろうか。
あまり急がず、長いスパンで続編を待ちたいところだ。