この街を去れない僕等は アーシュラ・K・ル・グィン『オメラスから歩み去る人々』

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 本作は短編集『風の十二方位』に収録されている。自分は先日感想を書いたマイケル・サンデル『これからの「正義」の話をしよう』の中でこの作品が引用されていた事から興味を持ち、この短編集を手にした。
 『オメラスから歩み去る人々』は数ページの掌編だが、その鋭さは読者の心に突き刺さる。

 此処ではない何処か遠い場所に、オメラスと呼ばれる美しい都がある。
 オメラスは幸福と祝祭の街であり、ある種の理想郷を体現している。そこには君主制も奴隷制もなく、僧侶も軍人もいない。人々は精神的にも物質的にも豊かな暮らしを享受している。祝祭の鐘の音が喜ばしげに響き渡る中、誰もが「心やましさ」のない勝利感を胸に満たす。子供達はみな人々の慈しみを受けて育ち、大人になって行く。

 素晴らしい街。人の思い描く理想郷。しかし、そのオメラスの平和と繁栄の為に差し出されている犠牲を知る時、現実を生きる自分達は気付くのだ。この遥か遠き理想郷は、今自分が立っているこの場所の事なのだと。
 オメラスが求めた犠牲。それはこんな姿をしている。

“オメラスの美しいある公共建造物の地下室に、でなければおそらくだれかの宏壮な邸宅の穴蔵に、一つの部屋がある。部屋には錠のおりた扉が一つ、窓はない。わずかな光が、壁板のすきまから埃っぽくさしこんでいるが、これは穴蔵のどこかむこうにある蜘蛛の巣の張った窓からのお裾分けにすぎない。”

“その部屋の中に一人の子どもが坐っている。男の子とも女の子とも見分けがつかない。年は六つぐらいに見えるが、実際にはもうすぐ十になる。その子は精薄児だ。”

“その子はもとからずっとこの物置に住んでいたわけではなく、日光と母親の声を思いだすことができるので、ときどきこう訴えかける。「おとなしくするから、出してちょうだい。おとなしくするから!」彼らは決してそれに答えない。その子も前にはよく夜中に助けをもとめて叫んだり、しょっちゅう泣いたりしたものだが、いまでは、「えーはあ、えーはあ」といった鼻声を出すだけで、だんだん口もきかなくなっている。その子は脚のふくらはぎもないほど痩せ細り、腹だけがふくらんでいる。食べ物は一日に鉢半分のトウモロコシ粉と獣脂だけである。その子はすっ裸だ。”

“その子がそこにいなければならないことは、みんなが知っている。そのわけを理解している者、いない者、それはまちまちだが、とにかく、彼らの幸福、この都の美しさ、彼らの友情の優しさ、彼らの子どもたちの健康、学者たちの知恵、職人たちの技術、そして豊作と温和な気候までが、すべてこの一人の子どものおぞましい不幸に負ぶさっていることだけは、みんなが知っているのだ。”

 「酷い話だ」と思うだろうか。自分もそう思う。彼、或いは彼女の不幸が、何故オメラスの繁栄の為に必要とされるのか。多くの読者がその理不尽さに憤るかもしれない。その嘆きは、怒りは、きっと正しい。けれど、オメラスがたった一人の犠牲の上に成り立っている事を思う時、現実を生きる自分達の住むこの国が、より多くの犠牲を他者に求めている事実が重くのしかかる。

 日本が豊かである為に、顔も知らない誰かが貧しさに耐えている。日本人が平和に生きる為に、誰かが血を流している。日本人が当たり前の様に手に入れている食料、資源、薬品、教育。そういったものは、当たり前の事だが全ての国の人々が同じ様に手に出来るものではない。そして自分達はオメラスの人々がそうであるように、その誰かの犠牲がある事を知っている。その犠牲が自分達にとって必要な犠牲である事に気付いている。そう、誰もが。
 だからといって、自分達がそれを知っているからといって、自分達はこの暮らしを捨てる事が出来るのか。出来はしないだろう。恐らく、ではなく、間違いなく。そしてこの街を去る事が出来ない自分達は、その不実を、いつか埋め合わせる事が出来るのだろうか。

 
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