こんにちは、はっちゅと名乗っている者です。
今回の更新が、「自力で元気になるブログ」の100記事目になります。
というわけで、ずっと話をお聞きしたかったレジーさん(@regista13)にお話を伺いたい。
そう思いオファーをしたところ快諾頂きました。
今回メール上で昨年12月に発売になったばかりの著書「夏フェス革命 -音楽が変わる、社会が変わる-」のこと、そして「ロック」のこと、「音楽リスナー」のことなど、いろいろ聞いてきました。ぜひ本を片手に、よろしくお願いします。
- ①フェスの変遷
- ②オリコンとロック、オリコンとリスナー
- ③「音楽好き」と「場を楽しみたい人」
- ④「バンドが好き」「邦ロック」好きなリスナー論
- ⑤音楽ライター レジーさんの仕事
- ⑥今後のフェスとの向き合い方
- あとがき
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①フェスの変遷
はっちゅ「『夏フェス革命』 を出版なさったこのタイミングでお話を伺えるということで、 非常にうれしく思います。自分自身、音楽について考えたことを文にする、 ブログを書くという行為をするきっかけが「レジーのブログ」を読んでいたことでした。
『 夏フェス革命』を読んでいる中で、『協奏』 というワードがとても印象に残っています。また、「フェスを運営・提供する事業者」としての話題や、ファッション誌や漫画・ドラマなどからのフェス論考など、「フェス」 というものをより多角的に考えるきっかけになりました。
さて、まずは以前から「レジーのブログ」 でも発信していた、フェスの変遷についてお聞きしたいことがあります。
僕のフェス経験として、初めてのフェスは2010年のJOIN ALIVE(北海道・岩見沢)、ROCK IN JAPANの初参加は2011年でした。
『夏フェス革命』 P162の図表にあるように、「モテキ」の連載が2008年にはじまり、「フェス×ファッション(≒フェス×モテ)」 の構図が顕在化し、 TwitterやmixiといったSNSが浸透した後になります。つまり、 夏フェスがコアな音楽ファン向けの物から「組み替えられた」後のフェスしか体感していないわけです。
そこで、組変わる前のフェスについてお聞きしたいと思っています 。ミッシェルガンエレファントやDragon Ashをボロボロになりながら見た、 あのころのような強烈な印象は今のフェスにも存在するか、 そして、今改めてゼロ年代のフェスの雰囲気を振り返ってお話しいただければと思っています。」
レジー「はっちゅさん、こんにちは。『夏フェス革命 -音楽が変わる、社会が変わる-』読んでいただきありがとうございました。
音楽に関して何かを言いたい人、特に自分とは想定する「フェス像」が違う若い方(つまりはっちゅさんのような方)にはぜひ読んでいただきたいと思っていたので、こういう機会をいただき非常に嬉しく思っております。いろいろ脱線すると思いますが、お答えさせていただきます。
「フェスの変遷、昔のフェス」、これについて、今と昔、たとえばゼロ年代の真ん中くらいまでで決定的に違うのは「スマホもない、SNSもない」ことですね。
たとえば昔のロックインジャパンでは、会場内に1箇所(だったと思います)あるインターネットができるブースまで行って公式サイトに上がるクイックレポートを読まない限り、「自分の見たステージがどう語られているか」や「自分の見なかったステージでどんなことが行われたか」を知ることができませんでした。
また、2001年にフジロックに一人で行った際、その様子を誰かにツイートするでもなく、ただただ朝から翌朝までひたすら「目の前にあるもの」を楽しんでいました。そもそも携帯の電波すらつながりづらい場所があったと思います。
何だか「携帯電話のない時代に人はどうやって待ち合わせをしていたのか?」みたいな大昔の話のようにも感じますし、スマホがない時代に一人で一日中どうやって楽しんでいたんだろ?というのがすでに謎なのですが、とにかく「フェスに行く=一時的であれ、世の中から隔絶される(ひたちなかであっても!)」というような実感が自分の中にはありました。
それゆえ、そこでのライブ、そういう空気を演者・参加者それぞれが感じて行われるライブには独特の雰囲気が生まれていたのかなと思います。」
はっちゅ「クイックレポートが読めるブースの話、全くと言っていいほど自分の中に思い出がありません(苦笑)。
もうすでに自分の携帯・スマホをもって確認できる、とはいえ会場内では通信が遅く実用性がない、そしてそもそも生で見たライブの文章をすぐには見ようとは思わない、というのはあるかもしれません。」
レジー「そういったものが自分のフェスの原体験なので、個人的には誰かの演奏中にMCやセットリストをつぶさにツイートするような人は苦手です。何しに行ってるんだろ?そんなにネットとつながっていたいか?RTといいねが欲しいか?みたいな…(マイルールとして、ちゃんと見たいアクトを見ている時にツイートするのはできるだけ避けています。最近は100%完遂できているか少し怪しいのですが)。
SNSがない時代というのはすなわち「自分のしたことの評価が数値化されることのない時代」です。もちろん自分自身にも「高校生でフジロックに行っている自分」みたいな自意識はありましたが、それが数字で可視化される仕組みがなかった(あくまでも自己満足の範囲で何でも留めておけた)のは個人的には良かったなと思っています。
余談ですが、「ひたちなかでのすごいステージ、強烈に感動したステージ」を思い出そうとしたとき、2010年のYUKI以降でぱっと出てくるものがないんですよね。その都度感動しているはずなんですが(2013年のPerfumeとか)、ちゃんと心の中に残っているステージが2011年より後だと著しく少ない。
この辺は、前述したような「世の中から隔絶されるがゆえに生まれる独特な空気」みたいなものが徐々に失われているのを自分で感じているからなのかもしれません(ここについては自分が本に書いた「フェス史観」に引っ張られて過去を歪曲してる可能性もあるので、話半分に聞いてください!)。」
②オリコンとロック、オリコンとリスナー
はっちゅ「フェスが“世の中から隔絶された空間"でなくなる、ということについて、「ロックバンド」と「世の中」の関係性もSNSきっかけで変わった部分が多いのではないかと思いました。
06~08年、自分は小6~中2でした。僕が当時住んでいた田舎では地上波のゴールデンの音楽番組とテレビのタイアップが付いた曲が聴ける音楽のすべて、オリコンチャートのランキング=自分と周りが聴いている音楽のすべてだった、そういうように思います。例を挙げれば、このころ能動的に聴けたロックバンドは、テレビによく出るミスチルやスピッツ、あるいはタイアップがついていたアジカン、バンプあたりが関の山だったと思います。
そういう意味でSNSの存在により「音楽の情報源が増えた」そして「その音楽を聴いているクラスタが一定数可視化されている」というのはとても大きな変化だったのではないかと思います。例えば07年初頭くらいの時期に僕はBase Ball BearやPerfumeを聴き始めたのですが、学校では誰も知らない、でもライブ映像を見るに明らかに一定数の支持を集めている、そういう状態に違和感と「俺もしかしたらセンスいいかも」という感触を覚えていたのを覚えています。広く「邦ロック」と拡大解釈をすると、当時を思い返せばオリコンチャート的な音楽と、それの”オルタナティブ”でかなり断絶があるという感触がありました。
それがここ最近、サカナクション以後特に感じることですが、そのロック界隈とオリコンチャートとの距離がぐっと近づいてるように思いました。そしてそれが、ロックフェスとほぼ同時期にポピュラーになってきた女性アイドルやボーカロイド、あるいは近年のEDMやクラブの文脈もそうかもしれませんが、そういった他の”タコつぼ”との比較によってよりはっきり「邦ロック」というわけが意識されている(そして実際に参加している現実のフェスやそこにいる「パリピ」みたいなものと違いを感じる)のかな、ということを自分は考えています。
レジーさんには「いわゆるオリコンチャートに食い込むような音楽」と「そのオルタナティブとしてのロック」のような感覚がご自身の音楽遍歴の中でどれくらいあったかお聞きしたいです。」
レジー「オリコン的なものと「オルタナティブ」の捉え方というのは、「音楽ファン」という人種である以上避けて通れない問題のように思います。時代ごとに「オルタナティブ」に該当する音楽は違うと思うんですが(ここ数年はアイドルの音楽がここに代入されやすかったのははっちゅさんもよくご存じかと)、ご質問いただいてるのは「そのオルタナティブとしての“ロック”」ということですので、まずはそちらに思いを馳せながら質問にお答えしたいと思います。
「オリコンとロック」この話題で僕が最初に思い出したのは、97年~98年にメジャーデビューした一連のバンド群ですね。具体的にはドラゴンアッシュ、グレイプバイン、トライセラトップス、スーパーカー、くるり、ナンバーガールなどなど。
「この辺が出てきて日本の音楽は変わった!」みたいな歴史が最近ではだいぶ固定化されてきている感じはありますが(そしてそれは一定の意味、クオリティ的な側面では真実だと思うのですが)、そうは言ってもこの時点でここに名前を挙げたようなバンドを聴いているのはまだまだ世間的には少数派だったというのが個人的な実感です。ちなみに、98年のオリコンの年間チャートを見ると、、シングル上位がGLAY→SMAP→ SPEEDでアルバムがB'z→B'z→ELTです。
98年は音楽パッケージの売上が史上最高を記録したタイミングなので「市場の総パイが大きかったので、超メジャーなもの以外にも相応のボリュームがあった」というのがいわゆる97世代/98世代の爆発の背景だったんじゃないかなと認識しています。
で、そういうものに僕自身は思いっきりはまったのですが、それによって自分の自意識がどう満たされていったのかは実は正直そこまで覚えてないんです。当時僕は高校生だったのですが、学校内に何となくあった音楽好きのコミュニティの中で徐々にこの辺のバンドの名前が誰からともなく挙がるようになり(さっき書いたバンドの前にミッシェルやサニーデイの波があったりするんですが)、気がついたらそちら側が聴く音楽の中心的なものになっていったという感じでした。まだインターネットがそこまでポピュラーでない時代なので、主な情報源は雑誌、あとはライブハウスの様子を伝えてくれるような地方局のテレビ番組とかだったと思います。」
はっちゅ「いわゆる97年組については、実はレジーさんにずっと聞いて見たかったことの1つでした。
僕が特別に大好きなロックバンドとしてBase Ball BearとNICO Touches the Wallsがいるんですが、どちらも97年組からの影響(ナンバーガールやスーパーカー、GRAPEVINEなど)を明言しており、自分にとってもその2バンドが97年組を遡って聞くきっかけになったことを覚えています。なので、そのあたりの音楽をリアルタイムで実感している方々が、少し羨ましいところではありました。」
レジー「97世代/98世代のバンドが出てくるタイミングで高校生だったのはラッキーだったなと思います。ただ、当事はご存知の通りYouTubeなどという便利なものもなかったので、僕自身は彼らの周辺に広がっていた豊穣な音楽文化(「ルーツ」的な話も含めて)にそこまで踏み込めていたかというと実はそんなこともないんですよね。今になって「あ、あれはあのときあの人が言ってたやつか」という感じで聴くものも結構ありますよ。
この話から派生して2つほど。1つは、海外のシーンとの関係です。名前を出したようなバンドに流れていった友人の多くは、もともと洋楽にも関与があったように思います。「オリコン的なものではない音楽を聴く自分」という構図は、もしかしたら海外の音楽を聴いている時の方が満たされていたかもしれませんね。僕は渋谷系の終わりかけのところからスウェディッシュポップに流れていくという経緯を中学2年生くらいから辿っているんですけど(当時カーディガンズがとても流行っていました)、そういうバンドに触れたり、カーディガンズの来日公演に中学3年生のときに一人でブリッツに行ったり、そんな行動の中で「あー俺音楽カルチャーに触れてるじゃん」みたいな気持ちになっていたように思います。
アナログレコードに触れたのもこの頃です。「レコードマップ」という電話帳のようなCD屋・レコード屋の一覧を見ながら、渋谷や西新宿の雑居ビル内にあるようなお店に行ったり、「ジャケ買い」的なことをやるようになったり(大概ハズレでしたが)、今となっては貴重な体験でした。これは中学からそのあたりにある学校に通っていたので定期券を持っていたり(新宿も渋谷も初乗り料金で行けました)、高校受験がない分中3の夏にいろいろ時間を使えたりしたのも大きかったです。
もう1つが、さっき挙げたバンドと「お茶の間」の距離感なんですけど、たとえばバインは結構早々にMステに出たり、ドラゴンアッシュもブレイク時に歌番組いろいろ出てたので(口パクと当てぶりを暴露した、みたいな話は今でも有名ですね)、そこまで「遠いもの」という認識は意外となかったかもなと思います。「Let yourself go,Let myself go」が売れた後に、あの曲のMVがスマスマでコントになったなんてのもありました。もっとも、ドラゴンアッシュは他のバンドとは売れ方が全く違ったので、同じように評価するのはフェアではないかもですが。
ただ、「自分が見つけたと思ったものでも一瞬にしてスターダムにのし上がることがある」という体験をしたのは、自分の今の考え方などに影響を与えているかもしれません。
宣伝を挟ませていただくと、この辺の話は「レジーが見た90年代プロジェクト 部屋とYシャツと90年代」でもっと細かく語ってますのでご興味のある方はぜひ!」
③「音楽好き」と「場を楽しみたい人」
はっちゅ「ほとんどのフェスやライブではいまだに一人で行動するので、たしかに「みんなでワイワイ!」っていう感じの人たちとは距離が開いているように感じます。とはいえ、そういう自分もSNSによってつながりが出来た人も多いですし、フェス参加中SNSを全く触らないかというとそうでもありませんが…
ただ、本でも言述されている「SNSによって消費行動が変わった」「 参加者一人一人が主役となった」ことがモテ・ おしゃれという概念と結びつき、 そのことがここ数年のフェスにとって多大な影響を与えている、というのは体感として合致している部分ではあります。
この部分、「モテキ」 の幸世のモノローグやSHISHAMO「 君と夏フェス」への反感にも近いと思いますが、一方で僕はここ最近ずっと「結局音楽はBGM」なのではないかって思いも同時にありまして。
4章の「ソーシャルキャピタル格差」の部分を引用すれば、僕は正直「リア充」 からも「音楽オタク」からも二重に疎外感を覚えていて、 そういう意味で、意見のちょっとした違いを感じました。」
レジー「本の論旨にのっとると、フェスの雰囲気がSNSを起点に変わり始めたのが2006年~2008年ごろ、そのあたりから上記の通り「フェスが“世の中から隔絶された空間"でなくなる」という流れがあり、スマホの浸透を経てそれが完成したのが2013年ごろということになります。2006年、2007年頃にこの変化を感じたとき、最初は「なんだこれは!俺の知ってるフェスじゃないぞ!」と憤ったのですが(ブログに書いたのは2012年ですね)、最近は「まあそんなもんよね」と思うようになりました。
この流れで言えば、この本は「フェスと共に“音楽”を楽しんできた自分」に主眼が置かれて書かれているので、「音楽好き」と「そうでもないけど場を楽しみたい人」というわかりやすい二項対立を導入したうえで、前者側に肩入れしているような記述になっている箇所が4章には多いと思います。なので、そもそもその分け方自体に乗れない、という人がいるのはよくわかります。」
はっちゅ「本書にあった電話番号の交換をしなかった人たちのような「その場でしか会えない、一期一会の関係」というのはSNSが発達した今あまり求められていないだろうなと思います。
特に音楽メディアではない場所においてフェスについて語られるときが顕著だと思うんですが、「恋人探し」「友人探し」に関する機能性がやけに強調されているなと感じます。そういう風潮が、音楽を生業としている人・音楽に重きを置いている人からすると、「「恋人」や「友人」は確かに大事だけどフェスの場でそういうものを前面に出すなよ」という感じで受け入れがたいんだろうな、と僕は解釈しています。ただ、僕からすると、「音楽以外はいらない」みたいなスタンスをとるよりも、「恋人や友人も見つかって音楽も聴けるなんて楽しくていいよね」みたいに思っている人の方が、正直健全なんじゃないかなとも思っています。」
レジー「はっちゅさんの書かれた「音楽は結局BGM」という話ですが、究極的にはその通りだと思います。本の中で最後に『聴衆の誕生』(18世紀の音楽会の参加者はそんなに音楽を聴いていなかった、という話)に触れているのはそのあたりを意識してのことです。
また、先日の佐々木俊尚さんとのイベントでもそんな話をしたのですが、スマートスピーカーとプレイリスト文化(「明るい曲をかけて」みたいなざくっとしたオーダー→それにあったプレイリストが流れる、そこには知らない曲が含まれているけどそれが何なのかは特に気に留めない、というような行動)によって、この流れはたぶんさらに進むと思います。
それに対してアーティストがいい顔をしないのは当然ですし、当面はそういう軋轢が各所で生まれるはずです。で、おそらくフェスはその問題を先取りしていました(何といっても、フジロックを作った日高さんの理想は「客が誰もステージを見なかったフェス」ですから)。
この「音楽は結局BGM」問題は、もう不可逆の流れかもしれないですね。固有のアーティスト性、スター性みたいなものがワークしたこの30年くらい?がもしかしたら特別な時代だったのかもしれません。ここについては継続して考えていく必要があるのかなと(個人的にはいわゆるBGM的プレイリストは好きじゃないのですが、一方で音楽好きにとって意外な出会いを演出する可能性もあります。また、僕自身はいまだにアルバム主体のリスニングスタイルから逃れられていないですし、こういう時代の流れについていけているわけでもありません。アーティスト固有の価値を尊重しつつ、文化の変容も踏まえたメディアのあり方が求められるのかもしれないですね)。
フェスの雰囲気に関する話でいうと、ひたちなかで感じるような「一体感」が前面に出ていないライブというのはもちろんたくさんありますが、トライブごとに共通の行動様式はいろいろありますよね。Tシャツ×タオルというような目に見える一体感のようなものはなくても、「演者も聞き手もみんな知り合い?」的な圧迫感を覚える場所もあります。とかく趣味の近い人を見つけて心地よい空間を作りやすくなっている世の中なので、どこかに馴染める人は楽しいし、そうじゃない人はリスナーとして生きづらい、みたいな話はあるのかもしれません。
ただ、その「馴染めない」人がその「馴染めなさ」を共通項に集まって、結局何かしらの空気を作るようになり、そこに「馴染めない」人が…というメタでループな感じの話になるのがこの辺のリスナー論の難しいところですね。「人それぞれ」「聴きたいもの聴いてて何が悪い」で片付けたくなる人の気持ちもわかります。」
④「バンドが好き」「邦ロック」好きなリスナー論
はっちゅ「「バンドが好き」「邦ロック」好き、みたいな人への現段階の見解をお聞きしたいです。
というのも、僕がレジーさんのブログをしっかり認識したのが、13年1月更新の『「ロック」を崇拝し「アイドル」を侮蔑する人々』だったことを思い出しまして、今現在ここから更新された部分があればお伺いしたいです」
レジー「件のブログエントリーは、さっきも触れたような「フェスおよびそこに来る人への違和感」が払しょくされていないタイミングでアイドル周りの扱いが雑だった鹿野さんと柴さんの対談記事を読んでなんか違うんだよなー…となって書いたので、あれから何かが更新されているかと言われるとなかなか厳しいんですが・・・笑
なんでしょう、今自分の中にあるものとすれば、素朴な疑問ですかね。はっちゅさんの言う「オルタナティブ」なものとしていろんなジャンルが存在するはずの今の時代において、「邦ロック」的な領域に拘泥する理由というか。「人と違いを出したいけど1人にはなりたくない」みたいな感じなんでしょうか。
まあそもそも、「オルタナティブ」という感覚自体なくなってるのかもしれないですね。別に誰もがAKBとLDH聴いてるというわけでもないでしょうし、メジャーのものに対する…という構造が崩れている気はします。それゆえ、オリコンの中でバンド群も「いろいろあるサブジャンルのうちの一つ」として浮上してくることが増えているというか。「意識的に音楽を聴く」こと自体がすでにマイナーな趣味では?という懸念もありますしね。そのあたりは肌感覚ないので何とも言えませんが。」
はっちゅ「その懸念については、個人的に今意識してブログを書いているトピックの1つです。これはシーンへの問題意識というより、単に「えっ、なんでみんな好きなバンドのルーツとか気になんないの!?」みたいな軽いカルチャーショックみたいなものなんですけども、こういった部分を考えたり音楽について文を書くのも自分としては楽しさを感じる部分でもあります。」
⑤音楽ライター レジーさんの仕事
はっちゅ「今レジーさんはブログに自分自身で音楽について文を書き、またインタビューも行なって、さらに雑誌やネットなど各種メディアに寄稿していて、そして今回書籍を出版したわけですが、それぞれに考え方や使い分けの違いはありますか?とても抽象的な言い方ですが「チャンネルの切り替え」みたいなものはあるんでしょうか。」
レジー「難しいですね、ないといえばないしあるといえばある、という感じなんですが…
仮に自分の文章を「文体(どういう語り口で書くか)」「テーマ(どんな企画に取り組むか)」「スタンス(そもそもどういう心づもりで書くか)」みたいにわけると、
- 文体→媒体のトーンで調整はしているけど、だいぶ媒体カラーに飲まれなくなってきた
- テーマ→わりと書き分けている
- スタンス→常に変わらない
という感じですね。
もう少し詳しく書くと、
・文体
これは「ブログ=対談」「それ以外=普通の文」というのがまず大前提であり、対談形式はやり始めてしまった手前このまま続けたいなと思っているところです。で、「それ以外=普通の文」について、もちろんMステ連載は少し砕けて、リアルサウンドはかっちりめ、など多少の調整をしてはいますが、そういう語尾の違いとかを除けばだいぶ自分らしいトンマナのものが固まってきているような気もします。一番わかりやすいのはMUSICAで、今はたぶんMステ連載とリアルサウンドの間くらいを作品との距離感に応じて使い分けながら書いてる感触があるのですが、やり始めた当時(もう4年も前です)は「いかにもなロキノン文体」になってしまっていたように思います。音楽雑誌のレビューはこういうものだろう、的な感じだったというか。そういう呪縛からは解放されたと思います。
・テーマ
依頼されるものはそれに応じて、というのが基本ではありますが、ここについては自分なりに考えて書き分けています。僕が本来好きなのは「音楽“リスナー論”」とか「音楽“ビジネス論”」、あと「音楽批評”の批評”」だったりするんですけど、こういう話が直接的に求められることは「音楽メディア」からは少ないので、「音楽○○論」ではなく「音楽の話」に寄せるようには意識しているつもりです。逆にブログは自分の好きに書けるので、依頼は来ないような話をやりつつ(子連れフジロックみたいな体験談とか、Perfumeの長尺往復書簡企画とか)、最初に書いたようなテーマに入っていくこともあります。もっとも、「音楽批評批評」については自分も「中の人」になりつつあるので思い切ってやれない部分があるのが正直なところですが。書籍についてはできるだけいろんな遠慮を取っ払って書きたいと思っていたので、「音楽“リスナー論”」「音楽“ビジネス論”」「 音楽批評”の批評” 」みたいなこともたくさん書いています。今後そういう類の依頼も来るといいなあと思っています。
・スタンス
ここはどこに書こうが常に変わらなくて、基本は「自分が読みたいものになっているかどうか」を大事にしています。もちろん読み手のことを考えていないわけではないのですが、書き手が面白いと思うことを伝達するというのが読み手に対しての誠実な姿勢なんじゃないかなと。この辺はブログで培われたものかもしれないです。」
⑥今後のフェスとの向き合い方
はっちゅ「今回のお話全体を総括して。
みんながなんとなく感じる今のフェスの雰囲気、レジーさんがお書きになった部分からもまとめると、どうしたってフェスというものが音楽シーン、特に邦楽ロックシーンに無視できないくらいの規模感になってきて、「フェスで受ける音楽」が出てきている、音楽というより'“レジャー”としての文脈でフェスが取り上げられてきている。ざっくりここまでは共通見解だと思います(読み違えていたらすみません!)
「夏フェス革命」の第4章の中でも、今後のフェスについて展望が書かれています。
僕は今回、フェスに出ない=シーンの「圏外」とされてしまう、それをプラットフォーム側が作為的に追いやることができるという部分がとても恐ろしいなと感じました。
今現在のフェスのステージ割りの序列を明示することで、入場規制の緩和とかフェスとしていい部分も多いんですが、「バンドの世代交代」を性急にやりすぎてしまう、言葉を選ばずにいえば「バンドのオワコン化」のサイクルがあまりに早く起こりすぎているのではないかと思うことがあります。
バンドの世代という部分だけ切り取っても、例えばACIDMANやストレイテナーは「SAI」に出た同年代のメンバーと比べても極端に勢いや作品が落ちたとはとても思えないんですが、既にフェスでのステージはセカンドステージ以下に出演するようになってきている。今年のロッキンに関しては特別ビックネームが集ったということもあって9mmなどもLAKEに出たわけですが。
ここは、僕がまだファンとして甘い部分だと思うし、ファンだったバンドの扱いが若いバンドよりおざなりになる、というのは多分レジーさんは乗り越えたりしてるのかな、とも思うんですけれども。
本に載っている、KING BROTHERSみたいな例が出てくれば、あるいは知名度問わずSOUND OF FORESTが似合うなら固める、ステージごとの色が明確にでると面白い、とは思うのですが、リスナーサイドからの"抵抗"って難しいんでしょうかね。」
レジー「「ファンだったバンドの扱いが若いバンドよりおざなりになる、というのは多分レジーさんは乗り越えたりしてるのかな、とも思うんですけれども。」という部分ですが、それこそバインとトライセラの扱いにむかついていた時期も何年か前まではありました。ただ、その先にバインが傑作アルバムを連発したり、和田唱がクリスマスの約束に全面フィーチャーされたりする日が来るとは全く想像していなかったわけです。長い目で見れば「実力のあるバンドはどこかで報われる」時代が来ているのかなと思います(もちろん残念ながら例外もあると思いますが)。
個人的な印象として、フェスのあり方というのは当面は変わらないように思います。フェス中心の音楽シーンのあり方というものもだいぶ固まってきましたし、アーティストサイドもその流れにくさびを打つために自分たちでフェスを開催する、というような感じになっていますよね。
で、そこに対して「どうにか参加者側のアクションで、この流れに抗うことって出来ないものですかね?」という話ですが、おそらくこれに対する回答はシンプルで、「フェスのことを気にしない」ということではないでしょうか。ステージ割りやタイムテーブルは、本来はどこまでいっても「どのステージでやるか」「何時に出演するか」以上の意味はないはずなんです。いろんなものが絡み合った結果として今は「タイムテーブル=ヒットチャート」的な位置づけになってしまっていますが、まずはここから多くの人が脱却することこそ「流れに抗う」ことになるのかなと。フェスのステージが小さくなろうがいい作品はいいですし、フェスに出ていない素晴らしいアーティストはたくさんありますし、今の時代は世界中のあらゆる音楽にアクセスできる時代です。どれだけの人がフェス以外の場で能動的に音楽を聴くか・探すか、ということに尽きるんじゃないかと思います。
ただ、当然これをするには手間と労力がかかりますし、日々生活していくうえで音楽に「手間と労力」をかけられる人、かけたいと思う人って残念ながら限られているわけで、どこまで実現性があるかは正直分かりません…「フェスのラインナップで流行を追う」みたいなスタイルは手っ取り早いと言えば手っ取り早いので、この便利さに勝てるものが何かということの具体案は今残念ながらないです。一度ついてしまった勢いはなかなか止められないので難しいところですね。」
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あとがき
自分の発見としては、「昨今のフェスシーンは「恋人探し」「友人探し」に関する機能性がとても強調されすぎている」のではないかという部分に集約(したつもり)なのですが、もっと言えば「結局音楽はBGM」ってのはあながち間違いではないんじゃないかという、思いがあります。
これについては、 つたないながら自分のブログでも過去に書いているところです。
「NFパンチ×MUSICA 音楽のススメ」のススメ ヒットチャート編 - 自力で元気になるブログ
その意味で、「フェスに来るたいして音楽好きでもない連中」「それに憤る音楽好き」みたいな僕はフェス論によくある対立構造において、自分はすごい「所在の無さ」を感じていたんですね。
で、その感情はNFパンチでサカナクション山口さんや鹿野さんとの議論を経ても、さらにレジーさんの本を読んでもなおそれがなかなかまとまんなかったんですね。
短期連載「NFパンチの収録でサカナ一郎さんと鹿野さんとみんなで議論してきた」エピソード1 - 自力で元気になるブログ
という、微妙な心情をレジーさんにぶつけることができたし、レジーさんも真剣に打ち返していただきまして、本当にありがとうございます、としか言いようがありません。
97年組の話は聞いてみたかったんですよ。そうか、バインとかMステ出てましたね。
いわゆる「ロックはテレビに出ない」みたいなのは、GLAYが紅白出なくなった00年とか、あるいはバンプやアジカンくらいからと言えるのかなって改めて思う一方、最近だと「視界に入らない=いないのと同じ」というのも事実じゃないかって不安もありまして。
「プラットフォームとしてのフェス」論はかなり進むと恐ろしいなあって思います。ロックに限らず、TIFに出てないアイドルの存在感ってどれくらいなのか、とか。
もう一つ。
うっすらバレてるかと思いますが、僕は音楽が大好きだし、完全に「音楽に関して何か言いたくて仕方がない人」です。
でも僕は音楽を生み出せないですし、こういった音楽評論も下手の横好きレベルでして、微妙に「文を書きたい」「でも何を書けば良いかわからない」という気持ちは常にあったんですね。
僕の好きなお笑いの業界では、ある時期評論家とかファンの分析とかに対して「文句あるならお前がやってみろ」的な言動を繰り返す芸人さんたちが一定数いたんですね。当時賞レースがきちんと整備されて分析しやすい・語りやすい、ってのもあったとは思うんですけどその印象ってどうしてもあって。
一方で、ファンのすごい熱量が周りをどんどん巻き込んで渦を大きくしていく、というのは近年のアイドル界隈でよく見る光景だったりします。
自分がそんな部分を担えるなんて思ってない、と言ったら嘘になりますね。リリスクの話とかcallmeの話なんか特に。
このブログは「個人の忘備録」として使うことも多かったんですが、これからは「評論」とか「分析」もちょっとずつ増やしていきたいなとも思います。
それを通じて、「このバンドかっこいいぞ!」「このアイドルかわいいぞ!」みたいなことがどっかの誰かに伝わればいいなと、それが今自分ができる「音楽の向き合い方」かなと。そう思いました。
今年も、これからも僕とこのブログをよろしくお願いします。
最後に。
冒頭でも話しましたが、僕がブログを書くきっかけとして「レジーのブログ」の存在はとても大きいです。
以前からレジーさんとTwitter上でお話する機会はありましたが、こうやってオファーを受けていただき、真剣に議論させていただきまして、本当にありがとうございました。
(追伸)
今回お話を伺ったレジーさんの著書『夏フェス革命』、改めてブックレビューを投稿します。そちらもよろしくお願いします。