(cache)「右」に侵食される「左」  安倍政権という「あいまいなリベラル」|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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論潮
2018年1月9日

「右」に侵食される「左」 
安倍政権という「あいまいなリベラル」

数年前、日本会議が話題になったとき、ひとびとは巨大な「右」の組織があることに驚いた。しかし本当に驚くべきだったのは、日本会議が地道な草の根の運動をしていたことだった。地方議会への働きかけ、署名集めといった運動は、かつてならば「左」の運動だった。日本会議はいわば敵の運動から学んだわけだ。

多くのひとは安倍内閣を「右」だと思っているが、そう単純にいいきれない。「右」が「左」の戦略や政策を学び、実践している現状があるからだ。

ブレイディみかこと北田暁大の往復書簡「左派は経世済民を語りうるか」(『中央公論』1月)が示すのは、アメリカや英国の反緊縮がサンダースやコービンといった「左」によって訴えられ支持を集めたのにたいして、日本の反緊縮がアベノミクスだということだ。「左」は経済成長を嫌い、反アベノミクスを唱えるが、いま求められるのは「アベノミクスを超えた包括的な経済思想」(北田)だという。

ならば、昨年の衆議院選挙の自民党の勝利も当然の結果だったのだろうか。たとえば、小熊英二は、今回の選挙で若者の多くが自民党を支持したことについて、「若年層にとって自民党以外の政党は、「ゴチャゴチャしてよくわからない」の一言に尽きるのではないか」と述べている(「「3:2:5」の構図」『世界』1月)。戦後からの投票行動を分析した結論がこれだ。ギリギリ20代の人間として言わせてもらうと、若者もそこまでバカではない。社会視点の「正しさ」ではなく、生活視点の「損得」で若者は投票したと分析する宮台真司のほうが現実的だ(小林良彰×神保哲生×宮台真司「国民はなぜ「現状維持」を選んだ」『サイゾー』12月)。

実際、若者の景気感を左右する大卒者就職率は高い水準を維持している。が、常見陽平はアベノミクスの成果であるか疑問視している(「ポエム化する政権の労働政策」『Journalism』12月)。また非正規の待遇改善をねらった「同一労働同一賃金」、ブラック企業対策の「長時間労働の抑制」などの労働政策がいかに実体をともなっていないか、指摘している。しかし、「左」が主張すべき政策を「ポエム」であれ唱える安倍政権をどう考えるべきか。いまや労組に代わって賃上げまで要求している。

憲法もそうだ。井上達夫は憲法9条と自衛隊の矛盾を黙認する護憲派の欺瞞にたいして「専守防衛、個別的自衛権の枠内で戦力の保有行使を認める九条二項明文改正案を提示すべき」と批判している(井上達夫×苅部直「自称「リベラル」の欺瞞」『中央公論』1月)。憲法9条に自衛隊を明記するという安倍改憲案については「自衛隊を承認したといっても、二項の制約があるわけだから、自衛隊は戦力ではないという現在の欺瞞がそのまま残る」もので、「中途半端で呑気な改憲案」であると述べている。9条削除をかかげるまっとうなリベラリストである井上らしい批判だ。しかし、井上の主張とは裏腹に、護憲派の欺瞞という「中途半端」さをひきずっていることが、安倍改憲案の本当の狙いだろう。国防軍を盛り込む自民党憲法草案とちがって明確に否定できないものとなっている。

ここまでくると安倍政権が本当に「右」なのか怪しくなってくる。2015年に安倍首相が「心からおわびと反省の気持ちを表明」した「日韓慰安婦合意」もそうだ。かつて慰安婦問題を特集したNHKに圧力をかけた安倍の過去からは考えられないことだし、これまで支持してきた多くの極「右」が離れていくきっかけとなった出来事だったが、「左」は先手を打たれたはずだ。

しかも「左」は歴史問題をめぐって混乱している。朴裕河『帝国の慰安婦』については、慰安婦と日本軍兵士に「自発的」な「同士的関係」があったという主張から、韓国や日本で大きな論争があったが、論壇誌ではほぼ取り上げられなかった。朴擁護派の論集『対話のために』も昨年刊行されたが話題にされなかったので、ここで取り上げておく。
『帝国の慰安婦』は、証言や史料の扱い方の杜撰さから歴史書と呼ぶには無理があるが、擁護派がいうには、このような実証主義的な批判はまったくあたらないそうだ。擁護派の上野千鶴子によれば、『帝国の慰安婦』の学問的インパクトは「「語り」と「記憶」の水準」にあり、「実証」の水準で批判することは的外れであるという(「『帝国の慰安婦』のポストコロニアリズム」『対話のために』)。公式的な歴史=「支配的な語り」にたいして、少数者の「対抗的な語り」や「もうひとつの語り」をフェミニズムやポストコロニアリズムはつくりだしてきた。朴もまた、支援団体が聞かなかった証言をあつめ、「もうひとつの語り」を書いたというわけだ。

歴史を単なる事実ではなく語りとみなす視点は「言語論的転回」によってもたらされた。それに依拠して擁護派は「実証主義にすぎない」と批判を一蹴する。たしかに、ヘイドン・ホワイト『メタヒストリー』は歴史叙述の言語的効果を強調したが、実証的な手続きを軽視せよとはいっていない。「言語論的転回」の濫用だろう。

吉見俊哉がトランプとフェイクニュースについて考察している(「トランプのアメリカに住む」『世界』1月)。トランプ政権がメディアから事実的な間違いを指摘されたとき、「嘘」ではなく「オルタナティブな事実なのだ」と抗弁したことを紹介し、「語る内容が事実かどうか気にしない、相手に影響を与えればいいという発想」があると指摘している。朴が描く「和解」の語りを「左」がこぞって絶賛するとき、トランプの発想に限りなく近づいているのではないか。

たしかに歴史の新しい解釈はつねに修正主義的な傾向をもたざるをえない。しかし、上野がいうように「もうひとつの語り」をフェミニズムやポストコロニアリズムなど「左」がおこなってきた事実があったとして、いまや「右」のほうがうまくやっている。「在日特権」といったフェイクニュースで、マジョリティであるはずの日本人が抑圧されるマイノリティとして描かれるのは、「左」の「対抗的な語り」の悪質なパロディーだからだろう。そして、それらの語りがネット上で圧倒的な量とスピードでうまれているのが、事実なのだ。

吉見俊哉はフェイクニュース氾濫の背景に、ユーザーの見たい情報だけを与えるインターネットの構造を指摘しているが、トランプ陣営の参謀だったスティーブ・バノンは自らの右派メディアを運営するだけでなく、データ分析会社と組んで個人のアクセス履歴をたどり、「有権者のそれぞれに対応した「オルタナティブな真実」を提供し、その投票行動を左右することを目論んでいた」という。
「右」によってつぎつぎと対立軸の芽をつぶされた「左」は、もはや天皇に頼るほかないようだ。鈴木洋仁がいうように「「今上天皇の姿勢こそ民主的である」と天皇を礼賛する声がリベラル側から出ていて、かつての構図からすると捻れた状況があ」る(片山杜秀×鈴木洋仁「平成の100人 文化」『中央公論』1月)。同誌の特集「あいまいな日本のリベラル」では、内田樹批判を精力的に展開する北田暁大や天皇制廃止論者である井上達夫が登場しているにもかかわらず、この問題に言及がなかったのは残念だ。

これまで話を明快にするために、リベラルもふくめて「左」と呼んできた。まっとうなリベラルは、安倍政権の経済、労働、憲法について、その不徹底さ、中途半端さばかりを指摘していた。逆にそれは安倍政権こそが「あいまいなリベラル」であることを明らかにしてないか。第一次に比べ第二次安倍内閣がリベラル化したのはもちろん争点潰しのためだが、ならば「左」は「左」そのものに立ち返るべきだろう。たとえば、民主主義の象徴であるパンダが好きになれないという蓮實重彦の不穏な挑発(「パンダと憲法」『群像』1月)を受け止めることからはじめたらどうだろうか。この一年間の時評では「左」の意義について考えていくことになる。

2018年1月5日 新聞掲載(第3221号)
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