「では、始動っ!」

「おおおおおおおおっ!」

歓声が、あがる。そしてその歓声をかき消すように、けたたましい音が響きわたった。

 ──ずごきっ! ぎりぎりぎりごきん! ぶしゅーっ……

そのような騒音である。キリランシェロは遠い目をして、その音を耳から締め出そうとしていた──そして、おおむねそれに成功していた。なにも聞こえない。というか聞こえないと思いこむことができる。だがその代わり、頭の中に、ずらずらと擬音の文字が浮かんできた。それを読み上げる自分を自制することができない。

(……結局、聞こえるんだよな……)

しぶしぶと、彼は認めた。音が復活し、彼もちゃんと耳でその音を聞いた。

グラウンドには野次馬が、無責任な野次やら歓声やらをあげながら、彼を取り巻いている。彼と──そして、彼と対峙している、騒音の主と。

野次馬は刻々と増えつつあった。あとから遅れてやってきた仲間と合流し、なにやら嬉しげに話し合っているのが聞こえてくる。

「おお、遅いじゃないか!」

「悪い悪い。ノルマがきつくってさ。でも、これからなんだろ?」

「ラッキーだったな。なにしろ週に一度はこれがないと、次の週まで待つのが辛くてよ」

「うるさぁぁいっ!」

最後の怒鳴り声は、キリランシェロである──野次馬に向けて放ったものだ。

が、野次馬たちはそれすらもおかしかったのか、どっと笑うだけだった。

「くっそー……」

キリランシェロは毒づくと、赤面しながら再び騒音の主へと向き直った。前方十メートルほど。それが、そびえている……

一言で表すならば、それは機械だった。それ以上のことをなにかひとつでも語ろうとすれば、一言では不可能になる。巨木な木枠の大きさは高さ三メートル、幅五メートルほど。その中に鉄骨やらギアやら滑車やらバネやら、それだけでは不服なのかさらにはスチールのテーブルやらパイプ椅子やらどこから拾ってきたのか流し台やら、そんなものまでが滅茶苦茶に詰め込まれている。これまたどこかからひっぺがしてきたのか、胴体の正面に教室の扉がついていた。

とにかく信じがたいのは、それらすべての部品がすべて連動していることだ──ギアが動けば滑車が滑る。バネが弾ければなぜか流し台から水が出る。

木枠のてっぺんに、水タンクが据え付けられていて、それが頭部のように見えた。さっきから、ぎたんばたんとやかましいのは、木枠の胴体の横から蜘蛛のように突き出した六本の脚である。脚はやはり材木でできていて、関節部分にはパイプ椅子が使われている。胴体内部の動力によって一所懸命に脚を動かしているのだが、そもそも脚には胴体を持ち上げるだけの馬力はないようで、結局地面をひっかいてえぐり出しているだけにとどまっていた。胴体は、無論地面についたままである。

結局〝一心不乱に地面でクロールしている化け物蜘蛛〟以外の何者でもない。

そして、その化け物の横に──これ見よがしに得意げな顔を見せている少年がいた。少年といってもキリランシェロ自身より二歳年上で、十七のはずである。が、背丈はキリランシェロのほうが数センチ上だった。だからというわけではないだろうが、男なのだがなぜか三つ編みを二本お下げにしている。黒のローブの上に白衣を着込むという異様な格好で、手にはよく教師が使うポインターの棒を持っていた。

キリランシェロは、運動着である。彼は喉の奥で陰険なうなり声をあげながら、じっと化け物と、その横に立つ人間とをにらみ付けていた。

「ふっ……」

彼は──つまり、その少年は──誇らしげに腕組みしてみせた。にやりと笑みを浮かべ、きっぱりと宣言する。

「認めるんだな、キリランシェロ! 今日という日が、科学が生命を凌駕する歴史的な記念日となることを!」

「…………」

キリランシェロは無言だった。無言で身構えもせず、ただ相手を見つめていた。冷たい半眼で。

少年は、さらに声高になると、

「我が技術の結晶! 血漿とは違うからしてあしからず! とにかく五十二時間を費やして築き上げられたこの人造人間の雄姿を見よ!」

(……融資とは違うからしてあしからず)

キリランシェロは陰鬱に独りごちた。言われた通りその融資、いや雄姿とやらを見やる。がちょんがちょんと化け物蜘蛛は、いまだ胴体わきの地面を掘り返し続けていた。

そして、いくら見てもそれ以上のことにはならない。

キリランシェロはぽつりと、告げた。

「……で?」

「そーゆうはったりをぶちかましていられるのも今のうちだぞ、キリランシェロ!」

「確かにそんな気もする」

我慢にも限度があった。

彼はゆっくりと、歩き始めた。化け物蜘蛛がいまだがしょがしょと暴れている前へと。

「おおおおおおおっ!」

ひときわ大きい歓声が、グラウンドに広がっていく。

「始まるぜっ!」

「やったぁ! あいつらもしかし、飽きないよな!」

「あれでエリート? うっそお」

「うるさぁぁぁぁぁいっ!」

キリランシェロがさっきと同じように怒鳴りつけると、またもやさっきと同じように、どっと笑いが起きる。

「あー、もー!」

彼は地団駄踏んで、足を速めた。なかば走るようにして、化け物へと近寄っていく──

刹那。

化け物の横で、三つ編みの少年が、にやりと笑みを浮かべるのが見えた。

がしょん。ぎょん……

化け物蜘蛛からも、なにやらさっきまでとは異質の音が聞こえてくる。

「ふっ。我が人造人間二十二号。名付けて『コルチゾン君』の威力に戦慄するがいい。なにしろ──」

びし、とポインターの先をこちらに向けて、

「名前の由来が副腎ホルモンのひとつなんだからな!」

「だからなんじゃぁぁぁぁっ!」

キリランシェロが、声をあげた瞬間──

がちん。

騒音が、そこで止まった。

化け物蜘蛛を見やると、その足の動きが止まっている。胴体の正面にある扉が、ぱかんと開く。

扉の奥にあったのは──ごてごてした部品の中心に据え付けられたクロスボウ。

「─っ⁉」

キリランシェロは声にならない悲鳴をあげると、真横に跳躍した。同時に、クロスボウから一本の矢が弾き出される──

鋭い音をあげて、太い矢はキリランシェロの跳んだあとを貫いていった。ぞっとしながら顔を上げると、

「ふっ……」

三つ編みの少年はこちらを見据えて、不敵な笑みを浮かべていた。

ポインターをたたむと、また腕組みする。風が彼の白衣のすそを、ゆったりとなびかせた。その横で、化け物蜘蛛が再びがちょんがちょんと脚を動かし始める。

冷や汗をぬぐい、キリランシェロは立ち上がった。

「なんっちゅー、危険な……」

化け物蜘蛛の胴体に収まっているクロスボウを見ながら、うめき声をあげる。

「とうとうなりふり構わなくなりやがったな、あいつ」

少年はこちらを見て笑っているだけである。その目が、なにか危険な輝きをたたえていることにキリランシェロは底知れない警戒心を覚えていた。今の一撃はなんとか避けたが、あの化け物蜘蛛は、まだなにか別の武器を内蔵しているかもしれないのだ。迂闊には近寄れない。

「ふっふっふっ……」

風に乗って聞こえてきた少年の笑い声に、キリランシャロはびくりとした。少年は、ただ笑っただけのようで、それ以降はなにも言ってこなかったが。

野次馬は、次第にざわめきを広めていっていた。さすがに殺傷能力のある武器を使うことは、誰も予想していなかったのだろう。キリランシェロもそれだけは考えていなかった。それだけに、腹が立ってくる。

グラウンドを、ひときわ強い風が吹き抜けていった。

《塔》の運動場はかなりの広さがある──へたをすれば街の区画単位の広さだった。屋内にも運動場があるのだが、大規模な魔術を使うような演習となると、屋外で行う。そのためというわけではないが土には灰が混じり、いつも乾燥していた。その風が視界を染め、また薄らいで消えていく。

キリランシェロは起き上がって、化け物蜘蛛に向けて戦闘態勢を取った。右肩を引き、いつでも反射的に魔術の構成が放てるように意識を集中しておく。言うまでもなく、魔術士の行動の根幹となるのが、魔術だった。逆に言えば魔術さえ使えれば、どのような絶望的な状況であろうとなにかしら突破口を開くことができる。魔術士に要求される行動力というものは、つまりそういったことである。

対峙したまま、一分、二分──

相手の動きをなにひとつ見過ごすことなく観察し、キリランシェロは構えていた。今度の攻撃がなんであるのかは分からない。予想しようのないものを予想しても無意味だろう。ならば、どのような攻撃であろうともある程度は防げる可能性のある、一般的な防御を行い、しのいだのちに反撃に出る。彼が考えていたのは、それだった。

再び、一分、二分──

「…………」

キリランシェロのほおを、汗が伝った。

野次馬までもが静まり返る。

やがて、また数分経つ頃には……もう誰もが、気づいていた。

「なあ、コミクロン」

キリランシェロは、いまだに腕組みして笑っている三つ編みの少年に、抑えた口調でゆっくりと聞いた。

「ひょっとして……さっきので全部、攻撃は終わってたのか?」

「ふっ……」

少年、コミクロンは口の端をつり上げた。不敵を不遜なまでに進化させた笑みを見せてくれる。彼はポインターをふっと伸ばすと、それを優雅に動かし、こちらに向け──

「負け惜しみは見苦しいぞ、キリランシェロ!」

「なにがだっ⁉」

弾かれたように叫ぶ。彼はそのまますたすたと化け物蜘蛛へ近寄っていくと、真正面から無造作に、木枠の胴体に蹴りを入れた。

「ああっ! なにをするっ⁉」

驚愕の声をあげるコミクロンに、キリランシェロは凶暴な一瞥を投げると、

「なにもくそも、こんなもん破壊するに決まってるだろ!」

「ああああ! 言いながらもまた蹴った! 俺の最新作に足形が! 落ち着け、落ち着くんだキリランシェロ!」

「ぬわにを落ち着けって言うんだよ! 人をクロスボウで撃っておいて!」

「い、いやだからその! そうだ! これを聞いてくれ!」

コミクロンはわたわたと腕を振ると、なんとかこちらと化け物蜘蛛との間に割り込んできた。背後の化け物蜘蛛をかばうように腕を広げ、続けて言ってくる。

「このドーパミン君の画期的な──」

「副腎ホルモンはどこ行っちゃったんだよ」

「ああ、そうそう。エストロゲン君だった。とにかくこいつの画期的な性能を聞けば、お前とて感動に打ちふるえ、なぜあの時クロスボウに己の身を捧げなかったのか、涙を流して悔やむに違いないぞ」

必死に演説するコミクロンに、キリランシェロはしかし冷淡な眼差しを返しただけだった。

「……もし、感動しなかったら?」

「うむ。そんなことはあり得ないから心配しなくてもいい。科学者は常に百パーセントのみを信ずるものだ」

空を指さし──夕日どころか雲ひとつないただの青空だったが──、無意味に希望的なポーズでコミクロンが断言する。キリランシェロは頭の横で指を回しながら、続きを待った。

こちらがとにかく引き下がったので気をよくしたのか、コミクロンははきはきとポインターで化け物蜘蛛の各所を指し示した。

「さてさて。こいつの主動力は、当初は電力を予定していたが、諸々の事情により──」

「そんな技術がなかったってはっきり言えよ」

「諸々の事情により、水力になった。このAパーツを見てくれ」

と、そろそろ動きを鈍くし始めた化け物蜘蛛の、胴体の上を指す。

キリランシェロは見回したが、野次馬たちも一応コミクロンの解説を聞きたかったのか──あるいは、クロスボウの危険がないと見て、それならば近くに行ったほうが見せ物が盛り上がると思ったのか──段々と輪をせばめてきていた。眼差しをきつくして彼らを多少牽制しつつ、キリランシェロはつぶやいた。

「ああ、そのポリタンクね」

「Aパーツ! ここに水が大量に収められていたわけだが」

コミクロンはポインターを振ると、胴体の左側のほうにそれを向けた。左側には、流し台がむき出しになっている。

「ここの排水ユニットから、その水を放出していたんだ。水流によって段階式動力ギアを動かし、機動デバイスの動力としていた」

「機動デバイスって……意味もなくばたばたしてたあの脚のことか?」

これはキリランシェロが言ったのではない。野次馬のひとりである。

だがコミクロンは、明らかにそのような非建設的な意見には耳を貸すべきではないと判断したようだった。完全に無視すると、もうそろそろ動きを止めようとしている(もちろん、Aパーツに水がなくなってきたからだ)機動デバイスに手を触れた。

そこで立ち止まり、目を閉じると──その肩を震わせる。と、彼は、にやりと目を開き、こちらを見つめてきた。

「だが……これだけではないんだ。この俺の究極の発明、人造人間二十二号には、恐るべき秘密が隠されている」

「え? ああ、ふうん」

キリランシェロは野次馬のひとりと明日の天気について世間話をしていたところになにか言われ、なんだかよくは分からなかったが、相づちだけは打っておいた。コミクロンは、またふっふっと笑うと、

「動力に用いられた水力! だがそれは、この発明の神髄とも言えるファイヤーコントロールも兼ねていたのさ」

「ファイヤー?」

よく分からない単語が出てきたので、キリランシェロは聞き返した。コミクロンもそれは予想していたようで、そもそも聞き返されるのを待って説明のあとに一拍入れていたふしすらあった。

「火器管制さ。本来なら銃火器を装備する予定だったが、諸般の事情により──」

「そんな技術……」

「諸般の事情により、それは次回に見送ることと相成った。まあそれはそれとして、Aパーツの中には実は、上蓋から紐につるした浮きが内蔵されていたんだよ」

「それって、内蔵ってほどのものなの?」

「内蔵は内蔵だ。嘘なんかついてないぞ。とにかく浮きは、水よりは軽いが空気よりは重い。当然だけどな。で、水かさが減ればどうなるか……」

「紐が引っ張られる」

あまりにも当たり前のことなので、かえって躊躇しながらキリランシェロは答えた。が、コミクロンは、あっさりとうなずいたようだ。

「そうだ。つまり重力を活用したわけだな。紐はそのまま、内蔵火器のトリガーに連動しており──」

と、彼は顔を上げた。びしと親指を立てて、会心のガッツポーズを取る。

「始動後しばらくして、火器が発射されるという寸法さ!」

…………

彼の得意げな解説の後には──

無慈悲な沈黙が待っていただけだった。キリランシェロもその沈黙に包まれて、ただコミクロンのガッツポーズを見るしかない。その運命を呪いながら、彼はゆっくりと頭を抱えた。

「ふっ……」

さわやかな風に身を任せ、コミクロンが前髮をかき上げる。

「どうやら、分かってくれたようだな。しかし今もって疑問なのは、これだけ斬新な発明をお前が理解してくれなかったこと以上に、そもそもこれと闘ってお前が生きていることなんだが」

「……コミクロン」

キリランシェロはなんとか声を出すと、彼の肩をぽんとたたいた。

「いいアイデアがあるんだ」

「ほう? まあアイデアを出すことに知能は必要ないからな。お前のアイデアでも聞く価値はあるだろう。優れた知能の持ち主は、それをなんとか使えるレベルに持っていくことが仕事さ。俺のことだけど。まあ、自分の知能が劣っていることを気にすることはないぞ、キリランシェロ──人格の重さと知能に明らかな格差があることを個性と呼ぶならば、お前はとっても個性的さ。で?」

「うん。そのネジを取り外して──」

「ああ」

あっさり同意して、コミクロンが手早くネジを取り外す。それを見ながら、キリランシェロは続けた。

「そこを蹴飛ばすといいよ」

「なるほど。ああっ⁉ 機動デバイス(a)がもげた⁉」

簡単に壊れて地面に落ちた化け物蜘蛛の脚を見下ろして、コミクロンが悲鳴をあげる。

「キリランシェロ! 俺を騙して利用したな!」

「うるさいっ!」

キリランシェロは一声怒鳴ると、コミクロンをはたき倒した。

「どおおっ⁉」

倒れたコミクロンに向かって、指を突きつける。キリランシェロは歯の間からきしるような声音で告げた。

「さっきから長々とっ! よーするに、この馬鹿でかい機械は、えらい手間暇をかけたあげくに、ただクロスボウの引き金を引くだけのものなんじゃないかっ!」

「そ、それは誤解だキリランシェロ⁉」

殴られた鼻を手で押さえて、コミクロンが抗弁してくる。

「いいか、この人造人間二十二号、ミルクカゼイン君は、なんとアタッチメント方式なんだ!」

「……アタッチメント?」

「そう。つまりパーツを付け替えることで、クロスボウだけじゃなくパチンコや紙飛行機も飛ばせる──」

彼の声は、キリランシェロがたたきつけたブーツの底によって途切れた。完全に気絶したコミクロンを後目に、機械に向かって腕を振り上げる。

「我は放つ──」

彼が編み上げた魔術の規模を見て、それまでのほほんとしていた野次馬たちの間に緊張が走った。わあっと悲鳴をあげながら、みな一目散にその場を逃げ出す。散らばっていった野次馬たちに取り残されて──

「光の白刃!」

キリランシェロの放った光熱波が、化け物蜘蛛を木っ葉微塵に爆裂させた。

「まったく……なにかが狂ってるぞ」

ぶつぶつとひとり毒づきながら、キリランシェロは廊下を歩いていた。

「誰がなにをしようと自由。なにを研究しようと、どういう方法で研究しようと自由。まあ、そいつが悪いとは言わないけどさ。そうなれば、もちろん暴走する輩も出現するわけじゃないか」

後ろ手に、なにかを引きずっている。

引きずられているのは包帯まみれの人間で、キリランシェロはその襟首をつかんでいた。完全にぐるぐる巻きにされた白い布の隙間から、三つ編みだけがのぞいている。引きずられたまま、腕組みして指先をあごに当てていた。

「ふっ……」

どうやら笑みを浮かべているらしい。

「確かに俺も、そういう輩には辟易さ。だって暴走してるもんな」

「あんたのことだ! あんたのっ!」

「なにっ⁉……しかしそれにしては、ほめていなかったように聞こえたんだが……」

「ああああっ! なにか後腐れのない決着方法さえあればぁぁぁっ!」

キリランシェロの絶叫には涙すら混じっていた。ちょうど廊下を通りかかったほかの教室の生徒が、びくりと恐怖の表情を浮かべて別の廊下へと逃げていくのが見えたが、もうこの際どうでもいい。

彼はぼとりと包帯(というかコミクロン)を床に落とすと、目を閉じて真剣な物思いにふけった。裏山に埋めるという案は真っ先にボツにした。このまま野犬の群れかなにかの真ん中に放り込んで、自分の手を汚さずにハッピーエンドというのも安直過ぎる。壁に塗り込むのは、左官屋の買収方法が思いつかなかったのであきらめた。高度一万メートルの高さから落とせば人間など破片も残らずに粉々に吹っ飛ぶかもしれないが、あいにく知り合いに羽根の生えた生物はいない。

「そうか……」

キリランシェロはなかば覚悟を決めて、目を開いた。コミクロン(というか包帯)が、床に落ちたまま、いまだに腕組みのポーズを崩していないのが見える……

「獲物を骨まで食べ尽くす動物を図鑑から二、三種ピックアップしてみよう。ひょっとしたらこの近くに生息してるかも」

「キリランシェロ、人生の先達として言っておきたいのだが、その冗談はあまりおもしろくないぞ」

「……そうだね」

キリランシェロは認めると、再びコミクロンの襟首をつかんだ。彼を引きずって、のろのろと廊下を歩き出す。

と、ここまでは──

ただの日常に過ぎなかったわけだが。

彼の知らない場所で、また別の事態が動いていた。


◆◇◆◇◆


「……風紀の乱れ、ですか?」

「そういうことだ」

チャイルドマン・パウダーフィールド教師の返事は、いつもの通りに簡単だった。ごく簡単に彼の口から出てきたし、ごく簡単に彼女の耳に入ってきた。その内容も意味も、それ以上に簡単なものなどない。

彼はうなずいただけである。レティシャは手渡された黒いファイルを怪訝な思いで見下ろしながら、彼の次の説明を待った。が、チャイルドマンは愛用の椅子に座ったまま、こつこつとその机を指で弾いている。それだけである。

この教師控え室にはろくな飾りもなく、視線をごまかすこともできない。彼女はじっと教師を見つめて──彼が口を開くつもりがないと悟り、自分から質問の声をあげた。

「わたしがなにか?」

「君は極めて品行方正だ。その君の目から見て──正直に言ってくれよ」

と、彼は苦笑するように鼻息を吹いた。

「この学内に、秩序を著しく害する要素があるとすれば、まずなにを挙げる?」

レティシャは即座に思いついた。それをそのまま素直に告げる。

「面倒事を生徒に押しつける無責任な教師とか、ですか?」

「最高執行部で最近、議題に上ることが多いらしくてな」

「……無責任な教師のことがですか?」

「それは忘れてくれ。そのファイルのことだ」

チャイルドマンは肩をすくめて、彼女の持つファイルを指さした。

まだ二十代の半ばと、《塔》の教師の平均年齢をその半分という極端さで下回るこの男は、最高執行部のことをあまりに簡単に話題にするため、レティシャにしてみれば半信半疑になることがある。

だが、この男が──言ってしまえば若者と言ってしまえるこの男が、最高執行部に対して影響力を持っていることも確たる事実だった。そして、だからこそ、レティシャ自身を含む強大な魔術士たちを何人も前にして「教師」をやっていられる。

(パウダーフィールド──火薬の庭? いつか、名前の由来を知ることもあるのかもしれないけれど……)

今は、ファイルのほうに興味があった。彼女はちらりと彼のほうを上目遣いにうかがってから──止めようとする気配がないので、ファイルの表紙を開いてみた。クリップに何枚かの書類がはさまった薄っぺらいもので、その一ページ目にはタイトルが記されている。通常の書式である。

彼女は眉根を寄せて、読み上げた。

「綱紀粛正部隊編成の……実施要項?」

「話の出所は倫理審査委員会だ。建前を抜きに簡単に言えば、要は委員会が常から鬱陶しいと眉を顰めている連中を、効果的にこづき回すための機動隊を作りたいのだそうだ」

「……建前もつけて話してくれませんか?」

「どうしても後手に回らざるを得ない倫理審査委員会の機能上の欠陥を補うための、実働部隊の設立。いわば見回り組だ。気に入らないのは──」

と、チャイルドマンは皮肉げに眉を上げた。椅子の背に背中を預け、背もたれを留める金具に小さい悲鳴をあげさせる。

彼は一呼吸してから、あとを続けた。

「気に入らないのは、書類の提出から計画の実施まで、極端に日数が少ないということだ。倫理審査委員会が強硬な姿勢を見せた時には警戒せざるを得ないな。うちの教室は……問題児がそろい過ぎている。件の委員会が顔と名前を一致させていないのは、君とフォルテくらいなものだろう」

それについては同感だったので、レティシャはうなずいた。ついでにつぶやく。

「最悪の場合は……」

「そう。あまり考えたくはないが、最高執行部自体のテコ入れがあった可能性も否定できない。執行部がわたしを目の敵にしていることは秘密でもなんでもないしな。かといってわたしを追い出す準備は」

──ここでまた苦笑──

「まだ彼らにはできていない。彼らの切り札でもある〝サクセサー・オブ・レザー・エッジ〟があの調子ではな。彼らにはせいぜいやきもきさせてやろうと、わたしもあまり意地悪くなり過ぎたようだ。結局、彼らにできるのは、わたしを失脚させない程度に権威を落とすことくらいか。風紀上のもめ事をつついて、わたしの教え子をいじめるのは、くだらないが、まあ悪くない手段だ」

「校内を巡回する機動隊を作るとなると、警備部が強く反発すると思うんですが……」

レティシャはぱらぱらとファイルをめくりながら、当然のことを聞いてみた。ファイルされている書類はすべて形式上のもので、いまだ実効性を認めるための長老たちのサインもされていない。本書類が執行部に提出されていれば、そちらにはもうサインがなされたかもしれないが。

彼は軽く肩をすくめただけだった。

「警備部は、もとから校内巡視の人員不足を上申していた手前、形の上では渡りに船になるはずの今回の件にはうるさいことも言えないだろう──少なくとも、執行部はそう考えている。彼らがそう考えているということは、自ずと誰もがそう考えざるを得なくなるということだ」

「なるほど」

レティシャは小さく嘆息すると、ぱたんとファイルを閉じた。それを抱え直し、教師に向き直る。

机の奥の教師は、固そうな手を組み合わせてこちらを見ていた。

「……それで、先生はわたしになにをさせたいんですか?」

「まずはファイルを返してくれ。表に出るとまずい」

言われるままチャイルドマンにファイルを返すと、彼はそれを部屋の隅のゴミ箱に放り込んだ。ただのゴミ箱ではない。陶製の、極めて強固なゴミ箱である。そこにファイルを投げ込んでからすかさず、チャイルドマンは一言囁いた。ゴミ箱に向けて。

「消えろ」

瞬間──ぼっ、と火の粉が弾け、ゴミ箱の中のファイルが塵と化す。

彼はそれからこちらを向いた。落ち着いた黒い瞳をこちらに向け、静かに告げてくる。

「わたしが彼らを監視しているように、執行部もまたわたしを監視している。わたしは表だっては動けない。だが、件の見回り組──通称、〝風紀委員〟とやらが活動を開始するのは時間の問題だ。人員の選定も終わりつつあるらしいからな」

チャイルドマンはそこまで言うと、唐突ににやつき始めた。普段ならペンチでつねろうが変形しない鉄面皮が、なにかとてつもなくおもしろいものを発見したというように、嬉しげに歪められている。

「君なりの方法でいい……この事態から、君の後輩たちを守ってやってほしい」

「わたしがですか?」

「アザリー向きの仕事ではないだろう──それに君の妹には、別のことをしてもらっている。まあ内容は聞かないほうがいい。君らの姉妹喧嘩は、このところ月一回の平均ペースを逸脱しつつあるからな」

「最高執行部に探りを入れさせているんですね?」

「聞かないほうがいいと言ったぞ」

「分かりました」

レティシャはそれだけ言うと、なんとなく敬礼の仕草をしてみた。鼻から息を吹きだし、しみじみとつぶやく。

「……意外と大変なんですね、先生も」

「無責任では務まらんよ」

さっきのことを少し根に持っていたのか──彼は、そんなことを言ってきた。

とはいえ、どうしたものか──

教師控え室を退出してから、廊下の真ん中で思わず、彼女は考え込んでいた。事態はおおむね呑み込めた。が、それをどうしろというのだろう。しかも彼女なりにという注文つきで。

(まあ、フォルテもコルゴンも《塔》の外だし、わたししかいないわけだけど……)

レティシャは長い黒髮を我知らず撫でつけながら、天井を見上げた。考える時の癖で、あごが前にでる。

と、刹那……

どううん、とグラウンドのほうから、地鳴りのような音が響いてきた。思考を中断されて、顔をしかめながらも窓に寄る。

広いグラウンドの、それもかなり遠くのほうで──なにやら得体の知れないがらくたの集まり(彼女にはそれが太ったゴキブリに見えた)から、黒煙が昇っている。野次馬らしき群集がそこから逃げ散っているのがよく見えた。

はあ、とため息をついて、彼女は理解した。

「いつものコミクロンの〝実験〟ね。あーゆうのがせめて月に一度くらいになってくれれば、わたしたちの苦労もちょっとは減るのに……せめて、誰か止める人間が──」

つぶやきかけて。

彼女は、言葉を止めた。別に、あれよりさらに深刻な脅威として《塔》内の誰もが認識しているのが彼女とアザリーとの定例姉妹喧嘩だということを思い出した、というわけではない。

「そうか……そうよね」

レティシャはなんとなく、自分のやることを思いついてしまっていた。


◆◇◆◇◆


そして数日が過ぎた。

《塔》のどの教室もそうだが、たいした広さがあるわけではない。大人数のクラスがあまりないため、講義にしか使われない教室はせいぜい十人分の席があれば十分だった。どの教室もだいたい造りは同じで、数枚のボードと生徒の椅子、机、あとはロッカーが人数分常備されている。ただ、生徒らが壁に適当なポスターを貼っていたり、持ち込んだ私物がロッカーから溢れていたりと、教室ごとの雰囲気はそれぞれ違うが。

チャイルドマン教室の場合は、簡素なものだった。教室の奥の隅に積まれている壊れた楽器の山は、どれもアザリーがおもしろ半分で始めて──最終的に必ず床にたたきつけるために──どれもこれもまっぷたつに折れている。例外はひしゃげたハーモニカくらいか。いずれもかなり高価なものらしく、捨てようとすると彼女が怒るため、そのままになっているのだった。ならばせめてと、哀れな楽器たちの残を隠すように置かれている白い女神像は、レティシャが発案して購入したものである。言うまでもないが、全員一致で壊れた楽器よりも目障りと断定されたが、これも捨てようとするとレティシャが怒るためそのままになっている。

姉妹の私物はそれだけではなく、扉に張り付けてある姿見は「せめて外に出る時には襟くらいは正すべし」と、(主にコミクロンのために)ふたりが強引に全員のカンパで購入したものである。あとは平凡で、汚れた調理器具、竹馬、マネキン人形の上半身は、誰が持ち込んだものか定かではない。これらはすべて、あまり目立たないように──目立たないわけがないが──、慎ましく教室の隅に押しやられている。

おおむね、標準的な光景だった。

そのなんの変哲もない教室に、今は三人の生徒がいる。

「うわああああああああん……」

一番前の席で、机に突っ伏して泣き声をあげている赤毛の少年は、ハーティアである。彼はよそ行きの格好のまま、袖を汚すのも気にしていないように涙を流していた。ひとりでずっとなにかを愚痴っている。誰も聞いてなどいないことには気づいていないようだったが。

「ひどすぎるぅぅ。あんまりだ。ぼくがなにをしたって言うんだ」

「ふっふっふっ……」

それを背に、机の上に仁王立ちになって、白衣の少年──コミクロンが含み笑いを漏らしていた。こちらに向かって指を突き出すと、威勢良くあとを続ける。

「さあ! 今回はすごいぞキリランシェロ! 毎週毎週グラウンドででっかい発明品を組み立ててると用務員さんに嫌われちゃうため、俺はついに戦闘用機動兵器のコンパクト化に着手した! まさに必要は発明の母! 今回の作品タイトルは──」

「てい」

キリランシェロは無造作に金属バットで、彼の持ち込んできた人型の模型を叩きつぶした。コミクロンが、目を見開いて凍り付く──

そのまましばらく、時が流れた。ハーティアの嗚咽だけが教室をぐるぐると回る。

「あんまりだぁ。なにがひどいって、その仕打ちなんだ。彼女、待ち合わせ場所に来たときには上機嫌だったんだ。それは良かったんだけど──」

なんとなく続きが気にはなったが、その声を、コミクロンの悲鳴がかき消した。

「な、なにをするキリランシェロ⁉」

「ぼくもあんたを見習って発明してみたんだ」

言いながら、机の上にどすんとバットを置く。それを指さして、

「名付けて駄作破壊装置『グッバイ・アーチ』──なかなかいい出来でしょ」

「ふざけるなっ⁉ 俺は認めないぞ! そのよーな単なるスポーツ用品を『装置』だなんてっ! 歯車様の罰が当たるからなっ!」

コミクロンの警告は耳をふさいで聞き過ごし、キリランシェロは目を閉じて涼しく笑うと、

「そーだなー。次の課題は軽量化かなー」

「ああっ! しかも俺の真似をっ⁉」

「彼女、なんかやったら嬉しそうに、ぼくに聞くんだ。『なんかわたし、今日は違うでしょ』って。可愛いと思うだろ? ぼくもそう思ったよ、うん」

向こうから聞こえてくるハーティアの泣き言からは、いつの間にか泣き声が消えていた──つまりただの愚痴になっていた。もしくはのろけか。

と目の前ではコミクロンが地団駄を踏んでいる。

「お前がそーゆう奴だとは思わなかった! 見損なったぞ! 人造人間兵器を始めとする、人造生命の創造という崇高な理想を掲げたこの俺に、真っ向から立ち向かおうと言うのだな! なかなかやるじゃないか!」

よほど追いつめられているのかあわてているのか、言っていることが前半と後半で正反対になっている。キリランシェロは半眼で冷たく告げた。

「そーだよ」

答えてきたのは──

「そうか。そう思うかキリランシェロ。ぼくもそう思ってたんだ。彼女はくすくす笑いながらぼくの答えを待ってたよ。でも残念だけどキリランシェロ、ぼくには彼女は昨日とまったく変わらないように見えたんだ」

ハーティアである。キリランシェロは、うるさいなと思いつつ彼のほうを見やったが、視線だけではその意思は伝わらなかったらしかった。赤毛の少年は突っ伏したまま、続けてくる。

「ぼくは、分からないって言ったんだ。でも、普通そのくらいで怒るか? 彼女は怒りだして──」

「ふっふっ。お前の宣戦布告、俺は聞いたぞ。だが俺には既に、次なる発明のアイデアがあるのだ……」

コミクロンは机から飛び降りると、ふふんと笑ってみせた。こちらより背丈がないせいで、鼻を上に向けて斜めに笑ってみせても、なんだかガキ大将が虚勢を張っているように見えてしまうところが悲しい現実だったが。

「次なる発明?」

聞き返したキリランシェロに、ふっと近寄ってくると、彼は隠すように声のトーンを落とした。

「そうだ」

「そうなんだ。彼女は怒りだしたんだ。ぼくは謝ったよ。あれだけ一心に謝ったのは、ティッシの口紅を、隠れ親衛隊とかいう連中に売ったのがばれた時以来だ。それって先週のことだろって? まあいいじゃないか。ぼくは謝ったんだ。なのに……」

「ふっふっふっ……今までは、かろうじてお前に勝利を与えてきたが、こいつの出現によってそのバランスは一気に崩れ去るぞ」

「彼女は許してくんなかったんだ。それでもぼくは謝った。その姿を見たら、お前だってぼくを許してくれたはずだよ。だって考えてみたら、ぼくはなんにも悪いことしてないじゃないか。分からなかっただけだ」

「いいか、キリランシェロ──今度は実に画期的だ。なにしろ中に人間が入っているんだからな」

「人造ってのはどこに行っちゃったんだよ。おい!」

「そうか! お前も怒ってくれるか。いいか、彼女が言うには──」

刹那──

「うるっさぁぁぁぁぁぁぁいっ!」

…………

突然、扉を開いて入ってきたのは、黒ローブ姿のレティシャだった。

教室の中が、ぴたりと静まり返る──ハーティアすらもが、背筋を伸ばして椅子に座り直していた。キリランシェロもコミクロンも、気をつけの姿勢でゆっくりと、彼女のほうに向き直る。

彼女は腰に手を当てて、じっと視線を厳しくしていた。彼女自身は身動きしないが、その長い黒髮がさらりと揺れているのが見える。教室では最年長組の二十歳。掛け値なしの美女というやつだが、実を言うと彼女には怒っている姿が一番似合う──などと思いつつ、キリランシェロは口を開いた。声がうわずって、なかば裏声になっていたが。

「ど……どしたの? ティッシ」

「廊下まで聞こえてたわよ。来週の壁新聞にでも全部載るんじゃないかしら?」

「はっはっ。分かってないなぁ、ティッシは」

彼女が相手の時には、彼の含み笑いは『ふっふっ』ではなく『はっはっ』になる。あまり意味はないが。

コミクロンは舌を鳴らして人差し指を振ると、ウインクしながら彼女に言った。

「先週、用水路爆破の件で既に載ったから、二週間続けて同じ教室の記事は載せないさ」

「だからなんだっていうのよ!」

両手をわななかせて、レティシャが叫ぶ。

「そもそも、いったいなにを騒いでいたってわけ?」

彼女の視線は、どうも壊れたコミクロンの発明品と、机の上の金属バットを気にしているようだった。キリランシェロが、どうごまかそうかと思案している間に、コミクロンとハーティアが同時に声をあげる。

これまた同時に、ふたりはすうっとこちらに指を向けた。

「キリランシェロが……」

「ちょっと待ていっ!」

キリランシェロが制止すると、ふたりはチッと舌打ちして、唾を吐くふりなどしながらあさってのほうを向いた。だがどのみち、制止などしなくともレティシャはすべて知っていた様子ではある──ひょっとすると、廊下まで聞こえていたというのは本当なのかもしれない。

彼女は胸を膨らませてから、本当に長いため息をついてみせた。黒髮がそれにあわせて揺れる。ため息とともに、彼女の弱った声も漏れる。

「まったくあんたらは……つくづくうちの教室の問題児三代表ね」

「なんでぼくまで」

キリランシェロはぽつりと抗弁したが、彼女の耳にはとどかなかったらしい。

と──ふと、気づく。

「ティッシ……それはなに?」

彼は聞きながら、彼女の肩を指さした。腕のところに、紫色の腕章がはめられていたのだ。色の関係で、あまり目立たなかったが。

「ああ、これ?」

彼女はそれをよく見えるように、肩を動かした。彼女も指さして、あっさりと言ってくる──

だが言うよりも先に、文字が読めていた。腕章には『週番』と縫いつけてある。

「わたし、この《塔》の風紀を維持する役に志願したのよ」

レティシャの言葉は、文字以上に唐突な内容だった。

「へ……?」

間の抜けた声で聞き返して、キリランシェロはわずかに後ずさりすると、聞き返した。

「な、なにが?」

「だからぁ」

彼女が辛抱強い口調で、念を押すように言い直してくる。

「今日付けをもって、わたしは《塔》内を見回って、あんたらみたいな問題児の軽挙妄動を取り締まることになったわけ」

「そ、そういうものができるって話は、噂で聞かなかったわけでもないけど……」

あからさまにうろたえた声を出して──ハーティアが、のろのろと立ち上がった。目にありありと困惑の色が浮かんでいる。

「で、でもなんでティッシが? 風紀委員の人選は、倫理審査委員会が、自分らの委員会から選ぶって……」

それを聞いて、レティシャの顔に笑みが浮かんだ。前髮をはね除け、自負心をにじませて彼女が笑う。

「ふっ……優良学生のわたしが頼み込めば、こんなものよ」

「ゆ、有料学生? なんかしらんが金は払うぞ、ティッシ」

「下品な人は逮捕──」

余計なことを口走ったコミクロンに、彼女はあっさりとそう言い渡すと、すたすた教室に入ってきた。懐から警棒のようなものを取り出すと──

ごぎんっ!

あっさりと、コミクロンを打ち倒した。顔面を思い切り打たれ、コミクロンはそのまま床に沈む。

彼女はくるりとこちらに向き直り、あとを続けた。

「──する権限はないけど、こういった体罰を加えることもあるんで、以後気をつけるように」

「……そらまぁ、思い切り気をつけるけど……」

「ちなみにこの教室はわたしの管轄だから、よろしくね」

「そ、そう……よろしく」

キリランシェロは小声でうめいた。へたをすると命に関わることになるかもしれないという、かなり現実感のある恐怖が背筋を伸ばさせる。

だが彼女はこちらの気も知らない様子で、今度はハーティアへと向き直っている。

「そーいえばあなた、今度はなんでふられたわけ?」

「あ。聞いてくれよティッシ。どうしても分からなかったから、彼女に聞いたんだ。なにが違うんだって。そしたら彼女、一言『五百グラム瘦せた』って。ぼくがちょっと派手にコケたって、罪はないだろ? でも彼女、怒っちゃって──」

どうでもいいようなハーティアの話など聞きながら──

とりあえず、悪夢の日々が始まろうとしていることだけは、キリランシェロもはっきりと自覚していた。


◆◇◆◇◆


第一日目。

「廊下を走るのはやめなさぁぁぁいっ!」

怒鳴り声プラス鉄拳制裁により、コミクロンの鼻が折れた。

第二日目。

「えー。委員会からの警告です。今後他の教室の女生徒に近寄ることを禁じます。半径五メートル内に侵入したら、一回につき十分間逆さ吊りにするからね」

「……それって……廊下ですれ違うこともできないんだけど……」

「姿が見えたら引き返しなさい。運悪くはさまれたら、定められた安全地帯に入り込むか、いったん最寄りの教室に入って、ドアで突き飛ばして逃げるのは可」

「なんでそんなスリリングな日常を過ごさなけりゃならないんだよ」

結局、ハーティアはその日のうちに四十分つるされた。

第三日目。

「キリランシェロ、なぁに? それ」

「え? あ、いや……みんなで食べようと思って」

「ふうん? で、なんでブランデーなんて持ってんの?」

「あ、それは──紅茶に入れるだろ? ティッシは」

「へえ。わたしの分もあるのね……まあいいわ。大目に見ておく」

「あ、ありがと。じゃあね」

が──

「ひいきだぁぁぁぁぁっ!」

怒り狂ったコミクロンとハーティアによって、キリランシェロはタコ殴りにあう(あまり関係ないが)。

ちなみに本日のハーティアの逆さ吊り時間は、合計で一時間二十分。間の悪いことにグラウンドでジョギングをしている教室とすれ違ってしまったのである。彼はつるされたまま気絶し、そのまま医務室送りとなった。

そして、第四日目……


◆◇◆◇◆


レティシャは上機嫌だった。

鼻歌など口ずさみながら、教室へと向かう。資料室から借り出した数冊のファイルを抱えるその腕には、今日も腕章がつけられていた。

(まっ、なかなかいいアイデアだったわよね)

自画自賛しつつ、最後の曲がり角を曲がる。機嫌がいいと足取りも軽く、彼女はふわふわと進んでいった。ただし廊下は走らない。すれ違おうとしていた知らない生徒がこちらの腕章を見て、敬意を表してのことか廊下の脇に寄るのに気づいていたので──びくりと顔を歪めて廊下の脇に隠れたようにも見えたが──、にっこりと笑って手を振っておく。

(委員会にちょっかい出されたくなければ、こっちでやっちゃえばいいわけよ。内輪だけで片づけておけば、まー問題にはならないしね。最初は正直、こんな憎まれ役をやるのはちょっと引っかかったけど、最近はキリランシェロたちも理解を示しておとなしくしてくれているようだし……)

万事うまく行っている。

物思いにふけりながら歩けば、距離が短い。彼女はいつの間にか自分の教室を通り過ぎそうになっていることに気づいて、あわてて足を止めた。引き返して、舌を出す。

「いけないいけない。ま、今頃はむしろ、みんなもわたしに感謝して──」

思わず声に出してつぶやきながら、彼女はドアノブに手をかけた。刹那。

「……というわけで異存はないな?」

ドアの向こうから、声が聞こえてきた。

彼女に向けられた声ではない──教室の中で噂話でもしているのだろう。声の主は、間違いない、コミクロンである。それに答えたのは、キリランシェロとハーティアだった。まあ、フォルテとコルゴンはいまだ《塔》外研修、あとはアザリーを除けば、その三人しかいないだろうが。

「異議なし!」

ハーティアのあとに続けて、キリランシェロがなにかを言った。なにか、ひたすらに不服げに。

「……そうだね。今回ばっかりは、彼女も行き過ぎだよ」

(えっ⁉)

レティシャは胸中で驚きの声をあげると、音を立てずにぴたと扉に張り付いた。通りすがりの人間が見たら訝るかもしれないが、そんなことはどうでもいい。彼女は聞き耳を澄ませた。と──

「だろ? お前が言うんなら、そりゃ誰もが思ってるってことだ。科学的に証明したいね。する必要もないけど。俺に言わせれば──」

コミクロンの声が一拍空けた。ため息をついたらしい。

「ティッシの奴、あのババむさいドライフラワーの趣味を馬鹿にされたのを知っていて、それで仕返しをしてるんだと思うぜ」

嫌われている。

(な──なぜ⁉)

カケラの自覚もなく彼女は、驚愕に身体をわななかせた。抱えていたファイルが、ばさばさと床に落ちる。

教室内の会話は、まだ続いた……


◆◇◆◇◆


「? 今、なんか音がしなかった?」

キリランシェロは顔を上げて、扉のほうを見やった──が、コミクロンは机の上にあごを乗せたままで、憮然と首を左右に振ってみせた。

「気のせいだろ。とにかく、彼女については俺はそう思うのさ」

「そーかなー……にしても先週ティッシが飾ってたあのドライフラワー、勝手に捨てたのコミクロンだったんだ」

言いながら、キリランシェロは腰掛けていた机から飛び降りた。困った顔で苦笑して、

「確かにあれは、いくらなんでもおばさん趣味だよなとは思ったけど──あれ?」

と、再び扉のほうを向く。

「今……なんか、扉をたたく音がしなかった? ごん、って……」

「気のせいだろって言っただろ。だいたいお前、もうちょっとゆっくりしゃべってくれよ。この前のティッシのパンチで、頭蓋骨がずれたような気がするんだ。頭がじんじんしてさ。折れた鼻はもとにもどったけど」

「あれはよく治ったなと思ったよ。コミクロンでなかったら治らなかったろうな。ティッシも見た目は華奢なんだけど、あのパワーはどこから来るんだか」

キリランシェロは、なおも扉をちらりと見やったが、それ以後なにも聞こえないため、くるりと背を向けた。コミクロンはだらんと机に伸びている。実際、ダメージはかなり深かったらしい。ひょっとしたら精神的なものかもしれないが──傷そのものは、魔術で完治しているはずである。こういったことに関しては、コミクロンの魔術は飛び抜けている。彼がこの教室にいるのも、その理由からだった。

丸まった白衣の背中を眺めて、キリランシェロは頭をかいた。

「にしても、なんの話だったんだっけ?」

「決まってるだろ!」

どん、と机をたたいて、ハーティアが叫んだ。

「ティッシの横暴に対抗するため、ぼくらは団結しなければならない! あの暴力的な弾圧をいつまでも黙認していたら、絶対に身がもたんぞ!」

「そーだそーだ。ほんのちょっと髮と足が長いからと調子に乗りやがってあのアマ!」

これはコミクロンである。

「自分のことを女神だとでも思ってるんだろう! 俺は知ってるぞ、この前の休日のことだが、彼女こっそりひとりで芋食ってやがって、部屋でぶーぶー──」

すると。

ぎいいいいいいいい……

なにかをひっかくような音が、扉から響いてきた。

しばし、沈黙。だが今度こそは絶対に空耳ではないと、キリランシェロは確信していた。誰かが──こんなことがあり得るならば──扉に爪を立ててひっかいたのだ。

「ねえ……」

キリランシェロが扉を指さしながら聞くが、コミクロンはにべもない。

「気のせいだって言っただろとも言ったぞ」

「でも──」

と、キリランシェロは扉に近づいた。そして──

扉を開けた。

誰もいない。

廊下に顔を出し、左右を見回しても、どこにも人影はなかった。不思議に思いながら、教室の中にもどる。

「ほれ。俺が気のせいだろって言っただろとも言ったぞと言った通りだったろが」

「う〜ん……」

首を傾げて、キリランシェロはうめいた。

なぜかその日、レティシャはその姿を見せなかった。

翌日、朝から雨が降り続いていた。

出かける用事がなければ、キリランシェロは雨が好きだった。雨粒が地面をたたく音に聞き入ったりもする。彼はいつもの教室で、頬杖をつきながら窓の外を見ていた。分厚い雨雲が、上空を暗く覆っている。雷が鳴る雲ではないように見えたが、それでも丸一日は降り続きそうな様子ではあった。

今日もまた、チャイルドマン教室は休講だった。基本的に、教室長であるフォルテがいない時にはチャイルドマンは講義をしない。頼めば、戦闘訓練などにはつき合ってくれることもあるが、そんなことをわざわざ頼む物好きもいない。明日という二度とない日をわざわざケガで潰してしまうこともあるまい。

そして……

「ふっふっふっ……今日という今日は、決着をつけられそうだな、キリランシェロ……」

背後から聞こえてきた声は、無論コミクロンのものだった。キリランシェロは、ただ遠い眼差しで窓の外を見つめていた。

コミクロンは、一応はこちらの返事を待っていたようだが、一分ほどもすると、勝手に自分であとを続けた。

「ま、まあそのよーに空とぼけるつもりならそれもいいだろう。言っておくが、今回の人造人間第──ええと、多分二十三だか二十四号は、今までの物に輪をかけて凄まじいぞ。大工道具を貸してくれた用務員さんも、なかなかよくできてるって言ってくれたしな。あの気難しいキャシイ爺さんがほめるなんて、滅多にないことだぞ」

「…………」

キリランシェロは無言で、振り返った。ついでに、あらかじめ床に置いておいたものを、そっと持ち上げる。

こちらがようやく反応を見せたのが嬉しかったのか、コミクロンのトーンが一段階上がった。雨は降り続いている。

「今回の特徴は、その機動性だ──軽いから、ひとりでも押して運べる。さらには、毎度のことではあるが、その攻撃性! 前述した特徴、つまり軽量化したことにより、持ち上げて振り回しても、あまり疲れなくなった。これにより、連続攻撃が可能になったわけだ。この革新的な──」

がん!

キリランシェロは無造作に、手にした金属バットで、コミクロンが指さしているかかしのような物体(キャスター付き)を一撃した。物体は呆気なく、ぼっきりと胴体をまっぷたつにされて崩れ落ちる。

バットを掲げ、キリランシェロは冷淡な声で告げた。

「ちなみにこれが駄作破壊装置パート2。今度の銘はイブシギン・タイムリー君。コンパクトな振りがいい感じだね」

「ああああああっ⁉ またもや俺の作品が、あのよーな原始的な凶器によって不条理に破壊されるとはぁぁぁっ!」

「あのねぇ!」

頭を抱えて悲鳴をあげるコミクロンの胸ぐらを、キリランシェロは即座につかみ上げた。手に力を込めて、完全にコミクロンの息を絞り上げる。

キリランシェロは歯をきしらせるように、押し殺した声で告げた。

「昨日言ってたことはなんだったんだよ! ティッシがわけの分からない風紀取り締まりなんてやってる時に、わざわざ騒ぎを起こして、なに考えてるんだ!」

「ふっ。分かっておらんなキリランシェロ。民衆を永遠に沈黙させうる圧政などというものは存在せんのだよ」

「こ・の・お・と・こ・はぁぁぁぁぁっ!」

「あ、ち、ちょっと待てキリランシェロ。いくらなんでもお前、力を入れ過ぎっていうか──お前、実は先輩に対する敬意とか尊敬とか、そーゆうのないだろ!」

「……まあキリランシェロ。そんなことしちゃ駄目じゃない」

と、聞こえてきた声に──

「どあああああああああっ!」

キリランシェロは、悲鳴をあげながら手をはなした。ぱっと、戦闘態勢を取りながら振り返る。入り口に、いつの間にいたのやら、レティシャの姿があった。

無論、腕章をつけている。

「あ、いや、これは、ティッシ、あのその──」

わたわたと腕を振り、とにかく声を出す。キリランシェロの頭の中を、悪霊に操られていたんだというものまで含めれば数十もの言い訳がめぐる。ただいくつもの弁解を押しのけて、最終的に頭に残ったのは単なる防御の魔術だった。つまりは、それが最も有効だろうということだが。

コミクロンも、巻き添えを恐れてか、喉元を押さえて苦しげに息をつきながらも、なんとか声をあげている。

「う、うん、ティッシ、これはつまりこいつの言うとおり、あのそのなんだ──」

「あら、そぅお」

レティシャは──

にっこりと、そう笑っただけだった。きらめくほどに陽気な、穏和な笑みで。

彼女は教室を見回し──当然彼女の視線はコミクロンの作品の残にも触れたが──その笑みを浮かべたまま、言ってきた。

「そうよね。あのそのよね。若い子たちが仲良くじゃれてるところを見ると、わたしもほのぼのとしてくるわ♥」

「…………え?」

きょとんと、キリランシェロは聞き返した。レティシャは機嫌よく、教室の後ろのほうに置かれた、生徒全員の予定を張り出してあるボードへと近寄っていくと、

「やっぱり元気があるっていいわよね。教室に活気が出てくるもの。外の廊下で聞くともなしに話を聞いちゃってて、思わずくすくす笑っちゃったわ。嫌よね。思いだし笑いみたいで」

「…………」

キリランシェロは無言のまま、コミクロンの表情をうかがった。彼もまた──恐らくは、こちらとまったく同じ、あからさまに怪訝そうな顔を見せている。しかめられた眉が、訝しげな瞳が、ただの一言を雄弁に表していた。

 ──〝なにがあった⁉〟──

そんなこちらの表情に、気づいていないはずもないだろうが、レティシャは素知らぬ顔でボードを眺めている。予定表のすべては、昨日と変わらないままだ。テャイルドマン教師──研究。フォルテ──《塔》外研修。アザリー──自由学習。レティシャ──自由学習。

コルゴンも《塔》外研修。コミクロン、ハーティア、キリランシェロの三人も、やはりすべて自由学習となっている。

とんとん指先で、すべての名前をたたいてから、レティシャはその夜色の美しい双眸をこちらに向けてきた。

「ねえ。ハーティアはどこに行ってるの?」

「え?」

キリランシェロは、思い出しながら答えた。

「あ、ああ──さっきみんなで昼食に行ってから、あいつだけちょっとトイレに寄っていくとか言ってたよ。もうじき教室に帰って来るんじゃないかな」

「なるほどね」

彼女はそれだけ言うと、ああそうだと手を打った。

「そうそう。わたし、ちょっと用事があるから。じゃ、またあとでね」

「う、うん」

彼は言葉を濁すようにとりあえずうなずいて、上機嫌で教室を出ていくレティシャの後ろ姿を見送った。やがて彼女の姿を隠すように扉が閉まると、教室にふたり取り残されて、コミクロンと向き合う……

「……なんだったんだろう」

わけが分からず、キリランシェロはつぶやいた。コミクロンも、首を傾げている。

「さあ……」

と──

がたん、と音がして、扉が再び開いた。レティシャがまたもどってきたのかと見るや、そうではない。

ずたぼろになったハーティアが、ごろんと教室の中に倒れ込んできたところだった。

「…………」

海よりも深い静寂が、あたりを包み込む。

ハーティアは完全に気絶して、床に倒れていた。うつ伏せになっているが、身体中につけられた傷が、どう考えても真正面からめちゃくちゃに殴られたものだということはすぐに分かる。キリランシェロは青ざめながら──

さっきレティシャが触っていた予定表ボードを見やった。

そして、ぞっとするほどの戦慄を覚える。

いつの間にか、予定表のハーティアの欄が、自由学習ではなくなっている。

彼の名前の横には、ただ一言、死、と記されてあった。

「そうか……そういうことか……」

キリランシェロは、沈痛な声でつぶやいた。

なにが起こったのか──そしてなにが起ころうとしているのか。なんとなく想像はつく。彼はコミクロンに向き直った。コミクロンは既にこちらを見ている。彼の表情にも、理解の色がはっきりと見えていた。

どちらからともなく、つぶやく。

「生き残ることが……」

「できるか……?」

ふたりは、同時にうなずいた。がっしと、手を握る。

冷たい雨が、グラウンドをいつまでも湿らせていた。不意に、廊下から、声が聞こえてくる。レティシャの声が。呪文が。

嘆息して、キリランシェロは天に祈った。あまりあてになりそうにはないけれど。

「光よ!」

壁を打ち抜いて、教室の中に、塵のごとき汚れをすべて焼き滅ぼす純白の光熱波が流れ込んでくる。キリランシェロは白い輝きに目を焼かれながら、真横に跳躍していた──同時に、編み上げていた構成を解き放つ。

「我抱き留めるじゃじゃ馬の舞!」

教室内に膨れ上がりかけていた猛烈な熱気が、一瞬にして消えた。

同時に──別の方向に跳躍していたコミクロンが、白衣をはためかせて叫ぶのが聞こえた。精密な、精細な構成が、彼の魔力によって術を発動させる。

「コンビネーション2─7─5!」

コミクロンが突き出した両手の先に、小さな光の球が点る。光球は一瞬で消え、目的地へと転移していった──つまり、光熱波が打ち抜いた壁の穴へと。きゅん、と甲高い音を立てると、その場で弾け跳んだ。

刹那の破裂音とともに、閃光を走らせる!

「ふっ──」

光球が消えたあと、決めポーズを取ったコミクロンが静かに口を開いた……

「人を倒すのに、余分な熱と衝撃をまき散らす必要はない……これを分かっていないとは、かの死の絶叫もしょせん凡人だな! 実に泥臭い! 人を倒すには、一瞬電流を流し、神経を麻痺させるだけでも十分なのさ! というわけでキリランシェロ、権力を笠にこの天才を弾圧しようとした悪魔はどうなった⁉」

なにを言ってるんだか……と思いつつ彼を見やると、コミクロンはなぜか目を閉じていた。自分に酔っているらしいが、キリランシェロはただ、冷たく告げるだけだった。

「……ハーティアが死にそうなほど痙攣してるみたいだけど、それだけだよ」

「なにぃ⁉ たったそれだけか⁉」

コミクロンが、はっと顔を上げる。彼もまた壁の穴を──床に倒れたままコミクロンの魔術に巻き込まれたハーティアは無視して──見やる。だがどちらにせよ、こちらと同じものしか見えなかったはずだ。

キリランシェロは全身を緊張させながら、壁の穴からのぞく廊下を見つめていた。レティシャの姿がない。

「うふふふふふふ」

声だけが、聞こえてくる。

「あなたの言ってることって正しいんだけどね、コミクロン。でも──」

キリランシェロはじっとその声を聞きながら──はっと、気づいた。

「彼女はそこにいるんだ、コミクロン!」

「……え?」

理解できなかったのか、不思議そうな声をあげるコミクロン。キリランシェロは舌打ちした。

(間に合わない──!)

「くそっ!」

叫びながら、魔術の構成を編み上げる。

「我は紡ぐ光輪の鎧!」

自分の身体を包み込むように、キリランシェロの魔術が発動した。光で編んだ鎖のような障壁が、一瞬でそそり立つ。

それと同時──あるいは、一瞬早かったか。それまではなにもなかった壁の穴に、レティシャの姿がふっと現れる。彼女は平然と、その手をこちら側に向けていた。

光を完全に透過させてしまう。威力が小さければ、魔術をも。ある意味究極でもある、防御用の魔術である。コミクロンの魔術に紛れて、彼女が構成を編んでいたのが見えていなかったが。

レティシャが一言、鋭い声を発した──

「光よ!」

再び膨大な光が、教室を満たす。

魔術の障壁にたたきつけられた衝撃を、自分の肌で感じるように感じながら、キリランシェロはその破壊が終わるのを待った。机がすべて跳ね上がり、砕けた椅子がすべて吹き飛ばされていく。窓ガラスが熱で溶け、雨粒が線を引く外へと膨張していくのが見えた。やがて、光が力を失う。

キリランシェロも、障壁を消した。見ると、教室が一変している。机という机は粉々になり、床も天井も派手にひびが入り、めくれ上がっている。教室の奥に積み重ねてあったがらくたの類も、砕けるなり、あるいは引火して炭に変じたりと、原型をとどめている物はなにもない。

それらすべてのがれきに埋もれて、コミクロンの足が見えていた。ぴくぴくと痙攣しているその足に向けて、レティシャが告げる。

「でもねコミクロン──余波が大きければ大きいほど、避けにくいと思わない?」

「そ、そーいえばそのような意見も、ちょっとありかな、とは思わないでもないな」

むっくりと、コミクロンが起き上がる。全身どことなく焦げているが、なんとか防御していたのだろう。

「に、しても──」

キリランシェロは、あたりを見回した。教室は派手に壊れ、窓も撃ち抜かれたせいで雨が吹き込んできている。修復は簡単なことではないだろう。

「なに考えてんだよティッシ。こんなに壊して……」

「キリランシェロ。あなたには、分からないかもしれないわね」

ぽつりと、レティシャが言ってくる。キリランシェロはきちんと聞き返した。

「なにがさ?」

「守ってあげようとしていたものに裏切られた、わたしの気持ちよ」

悲劇的な調子で、彼女が言ってくる──両手のひらを上に向け、なにを見上げているのか上目遣いで。

だが、それでもキリランシェロには意味が分からなかった。

「……え?」

かなり怪訝な思いで聞き返す──レティシャはちらりとこちらを見て、やや不快そうに眉をひそめた。水を差されたと思ったらしい。

だがそれもすぐのことで、彼女はもとの悲劇的な眼差しにもどった。緩やかな動作でかぶりを振って、彼女が続ける。

「先生に頼まれて、執行部の陰謀からあなたたちを守ってあげようと……」

「……へえ」

キリランシェロは上の空で答えつつ、とにかく次の手を考えていた。真っ向からぶつかっても倒せそうにない相手には──

(どんな手がある?……今の隙に逃げるか? ハーティアとコミクロンが置き去りになるけど、まあ別にいいし。ええと、ほかに考えられる選択肢は、謝る、泣きつく、媚びる、ごまかす、死んだふりする……)

結局のところ、なにをやっても駄目なのかもしれない。

絶望的な気分で、キリランシェロはレティシャを見やった。彼女はいまだ、独白のようなものを続けている。

「わたしは考えたわ。あなたたちを目の敵にするであろう風紀委員の見回り制度を、どうしたら阻止できるかって。結局のところ、結論はひとつしかなかったわ。そう! わたしがその役目を引き受ければいいのよ!」

ぐっと拳を握り、彼女は断言してきた。

「わたし自身が風紀委員になってあなたたちを監視し、奴らの弾圧から守ってあげればいいと、そう思ったのに!」

「そのあんたが弾圧してどうするんだぁぁぁっ!」

キリランシェロの絶叫も、彼女にはとどかない。レティシャは両耳をふさぎ、いやいやをしながら叫び返してきた。

「そんな言い訳は聞きたくないわっ! とにかくわたしはあなたたちのために、こんな嫌な役をあえて引き受けて──」

「ものすごく楽しげにやってたように見えたけど……」

キリランシェロはつぶやいたが、彼女はきっぱりと無視してくれた。

「──なのにあなたたちは、わたしの真意を誤解して、あることないこと陰口をたたいてるなんて! ひどすぎるわ!」

と──その時、がれきの下から起き上がったコミクロンが、小さくつぶやく。

「い、いや……でも、芋の件は確かに──」

「光よ──!」

即座にレティシャが放った光熱波が、再びコミクロンを吹き飛ばす。

爆音が、遠雷のようにこだまして、そして消えていく。当然ながらさらに破壊の度を深めた教室が、かなり深刻にみしみしと音を立てた。

ぞっとしつつ、キリランシェロは叫んだ。

「ち、ちょっと待てよ、ティッシ!」

光熱波を放った姿勢のまま、ぜいぜいと息をあららげているレティシャは、なにやら凄絶な笑みを浮かべていた。汗がべったりと顔とうなじを濡らし、髮を張り付かせている。

「う……うふふふふふふふふ」

地獄の底から響いてくるような彼女の笑い声には背筋を凍らせながらも、なんとかキリランシェロはあとを続けた。

「あ、あのさティッシ。お、怒ったのは、とにかく分かったから、少し落ち着いてよ。いくらなんでも、こんだけ校舎を壊すのは──ティッシ、風紀委員を引き受けたんだろ? だからつまり──」

あわてているせいで、言葉がうまくまとまらない。かなり焦燥感をつのらせて、キリランシェロはひたすらまくし立てた。が──

「うふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふ」

と、レティシャがこちらに顔を向ける……

「うふふふふ。大丈夫よ、キリランシェロ。だって」

彼女はにっこりと言いながら──左腕から、ぶちりと腕章をもぎ取った。それを肩越しに投げ捨てる。

「わたし、そんなことどうでもいいんだもの」

そして、その声を呪文として、また姿を消す。

「え……?」

キリランシェロは呆気に取られた声を出した。次の瞬間──

起き上がっていたコミクロンの姿も、消える。

「え?」

ただ同じ声を繰り返して、キリランシェロはあたりを見回した。ひとつの構成で、コミクロンの姿までも消してしまったようだが──

その結果ひとりだけ取り残され、キリランシェロはなにもできなくなってしまっていた。ただ無策に周囲を見回しながら、ふらふらと歩き回る。と……

突然、背後から、なにかが抱きついてきた。どさ、と力なく、なにかがもたれ掛かってくる……

「うわああああああっ⁉」

悲鳴をあげて、キリランシェロはそれを振り払った。突き飛ばされて、床に倒れたのは──血塗れのコミクロンである。

「ふっ……」

ずたぼろになりつつも、彼は含み笑いをやめていなかった。

「ティッシは本気だ……お前も死ぬぞ、キリランシェロ……」

と、がっくりと頭を落とす。

「ああああっ! ずるいぞコミクロン! 気絶なんかするな! そんな血だるまになって顔中あざだらけなあげく、おさげが頭の上でちょうちょ結びになんてされてても、ぼくはだまされないからな! 絶対にタヌキ寝入りだろ! こらぁぁぁぁっ!」

白目をむいている彼の頭を思いきり振り回して、キリランシェロは絶叫した。その瞬間──

ぽん、と肩をたたかれる。

「う・わああああああっ!」

キリランシェロは悲鳴をあげて、とにかく背後に向け、全力で魔術を放っていた。床に落としたコミクロンが、ごんと頭をバウンドさせているが、そんなことはどうでもいい。キリランシェロの放った光熱波は、レティシャの魔術が残した破壊跡を、さらに決定的にえぐった。が──手応えは、ない。

「ふ、ふ、ふふふふふ」

息を荒らげ、キリランシェロはあごの下の汗をぬぐった。血走った目を油断なくあたりに這わせて、独りごちる。

「死ぬか……死ぬもんか……」

真っ赤な視界には、誰もいない。ハーティアとコミクロンが倒れているだけである。

雨と風が吹き込む教室で、ひとりキリランシェロは拳を握って絶叫していた。

「ぼくは全然、悪いことしてないじゃないかぁぁぁぁっ!」

だが結局、そんな叫びはなにもならないのだった。雨も降り止まない。

「くそ! ハーティア、コミクロン、起きろ! 絶対お前ら寝たふりしてるだけだろ! 起きろ! 起きろ! 起・き・ろ・ぉぉぉぉっ!」

血塗れの仲間をげしげしと蹴りつけながら、彼の叫び声は雨の中響いた……

◆◇◆◇◆

「……というわけで、執行部のほうはガードが堅くてどうしようもありませんね」

チャイルドマンの教師控え室で、アザリーは肩をすくめながら、そう言った。雨の降り続く外を眺めているチャイルドマンの背中に向けて、さらに続ける。

「ただ、今までの結果を見れば、さほど気にする必要はないように思えますけど……単に、倫理審査委で、誰かがなんとなく発案したものが、誰も反対する理由を思いつけなくて通ってしまったというのが実状だと思います」

「確かに多少、神経質になり過ぎたかもしれんな」

黒いローブに覆われた太い肩が、やはりすくめられるのが見える。彼は窓に指先を軽く触れさせたまま、肩越しに振り向いてきた。

「ただ、最高執行部を甘く見たくはなかったのだよ。彼らは間違いなく、大陸で最高のスタッフだ。王都の宮廷魔術士たちと並んでな。本音を言えば、君らの誰ひとり、執行部にも宮廷にも関わらせたくない」

彼が言うのを聞いて、アザリーは、くすと笑った。

「珍しいですね──先生が言い訳のようなことを言うなんて」

「……これからの被害を考えれば、な」

「は?」

きょとんと、アザリーは聞き返した。瞬間──

どぉん、と大きな振動が、部屋を揺るがした。近くの本棚から、ばさばさと本が落ちる。

振動に転びそうになりながらも踏みとどまって、アザリーは教師を見やった。チャイルドマン教師は、それを予想していたように、平然と突っ立っている。

なにごとが起きたのかは分からなかったが、とりあえず彼があわてていないのなら危険はないだろうと思い、アザリーは落ちた本を拾おうと身体を向けた。が、チャイルドマンの冷静な声が制止してくる。

「……今拾っても、また拾い直すことになるぞ」

「なにが起こってるんです?」

アザリーは聞き返して、足を止めた。チャイルドマンの予言通り、再び轟音とともに激震が部屋を──というより《塔》そのものを──揺らす。本棚からは、またさらに本が落ちた。空っぽの花瓶が、床に落下して砕け散る。

チャイルドマンは、だが答えてこなかった。こめかみのあたりを指先で押さえて、ゆっくりとつぶやく。

「……アザリー」

「はい」

「わたしの教室の生徒が数人、全力で戦闘を行ったとしたら、この《塔》にどのくらい構造上の損害を与えると推測する?」

アザリーは即答した。

「二割が全損。そのくらいで力尽きるでしょう。塔の大方のブロックは、かなり捕強されていますし」

と、ついでに付け加える。

「……じゃあ、今、それが起こってるってことなんですか?」

「そういうことだ。まあ、二割なら、教師クラスの術者が総出でかかれば、半日もかからないで修復できる。ほうっておこう」

淡々と告げながら、椅子に座る。また、振動が建物を襲った。

「…………」

ぱらぱらとほこりの落ちてくる天井を見上げながら──

アザリーは、ぽつりとつぶやいた。

「問題児ばかりで、先生も大変ですね」

「レティシャにもそれを言われた。問題のある奴ほど、そんなことを言うんだ」

チャイルドマンはそんなことを言いながら、身体を伸ばし、椅子の背を軋ませた。

(……まさか、拗ねちゃったのかしら)

そんなことを考えながら、アザリーは、ほこりのかかった肩を軽くはたいた。


◆◇◆◇◆


「ほーほほほ! そっちから順に並びなさい! 運が良ければ身体に穴が開くだけですむわよ!」

「あー畜生、キリランシェロ、お前のせいでもう一回殴られなけりゃならなくなったろうがっ!」

「うるさい! 薄情者!」

「うふふふふふふ。寝たままでもとどめを刺すつもりだったけどねぇ」

「くそ! この偉大な頭脳を危険にさらしたまま、国家はなにをやっている! なぜ騎士団を出動させない⁉ キリランシェロ、おい、向こうに回り込め!」

「オーケイ! 駄作破壊装置パート3改め、対横暴姉用兵器、ポテン・ヒッター! くらえぇぇぇっ!」

結局──

言うまでもないうえ、言うほどのことですらないのだが。

風紀委員になったレティシャの、校舎をも破壊するような暴走により、倫理審査委員会はその責任を負わされ──風紀委員の見回り制度は、即日廃止されることとなった。なお、レティシャの名前が同委員会のブラックリストに赤字で記されたのも、この時からである。

(清く正しく美しく:おわり)


◀「魔術士オーフェンはぐれ旅」シリーズ 特設サイト トップページへ