完璧だからその人を愛するのではない。完璧ではないにも関わらず愛するのだ。
――ジョディ・ピコー「私の中のあなた」
「ファイナルファンタジーXV」は発売当時、いびつで不完全なゲームだった。しかし、本作は1年を通じた豊富なアップデートとDLCで研鑽を積み、誰もがおもしろいといえる美しいゲームになった。しかし、美しいゲームのみが愛されるべきゲームなのだろうか。
当初、本作は壮大なオープンワールドゲームと宣伝されていた。それにもかかわらず、後半になるとリニアになるゲームプレイと満ち足りないシステム、ゲームプレイを犠牲にしたにもかかわわらず描写しきれていないシナリオ、シナリオの変化についていけないキャラクター描写と数々の不満点を抱え、「ファイナルファンタジーXV」は賛否両論という評価に至った。
特に本作のチャプター13は発売当時から特に非難の対象となっていた。その結果、いくつかのアップデートを施して本チャプターの物語は書き換えられることになる。確かにゲームプレイは実際につまらないものだったが、「ファイナルファンタジーXV」という物語を体験するうえでその措置はひとえに良策だったといえるのだろうか。加えて、それぞれのDLCはゲームを語るうえではっきりと重要なものとして機能しているのか。本コラムでは、これらの点について考察することを目的とする。
王の個人的な視点のみで成立する“現実”
はじめに、チャプター13を中心に据えて、本作がどういったことを描きたいゲームだったかということを整理する。本チャプターに対してユーザーがネガティヴだった理由は以下のようなものである。
- パーティから仲間が去り、主人公のノクティス単身での冒険となる
- シナリオ、キャラクター描写が薄い
- 基本的な戦闘システムが奪われ、指輪魔法という単調な戦闘を強要される
端的に言えば、ゲームのおもしろみを削ったひどいチャプターとしか言いようがない。しかし、このチャプターが単純にユーザーを苦しめるために実装されたということは考えられない。
話は飛ぶが、「ファイナルファンタジーXV」はひどく個人的なゲームであった。つまり、本作は主人公ノクティスの視点からのみ物語を切り取ることにこだわっていた。プレイヤーは等しく、ノクティスが目で見て、耳で聴いた情報のみでしかその世界を認識することができない。逆に言えば、プレイヤー=ノクティスであるからこそプレイヤー自身が世界の仕組みをすべて理解することができず、その必要もない。なぜならノクティスはあの世界がどうなっているか、ということ自体には興味がないからだ。
同じ事を試した作品で「ニーア ゲシュタルト/レプリカント」というゲームがある。主人公は「世界がどうなってもよいので妹(娘)を取り戻す」という目的のみで行動をするため、まるで世界の構造自体には興味がない。よって、プレイヤーもその全貌をゲーム内で解き明かすことができなかった。しかし、その采配は優れたものであるといえる。では本作では、ノクティスはどんなことに興味があったのだろう。
前半でほぼ唯一、プレイヤーの視点≠ノクティスの視点となるシーンはチャプター2終了時である。1度だけ帝国側の視点が描かれ、イドラを中心にしてレイヴス、ヴァーサタイル、カリゴ、アラネアの四天王とも言うべき存在がクリスタルを守るべく待ち受けていることが把握できるシーンだ。しかし実際に本編で満足に戦うことができるキャラクターはアラネアのみで、カリゴに関しては逃走、他の2人はカットシーンを除いてまともに登場すらしない。アラネアに関しても戦闘で白黒がつくことはない。今となってはこのシーンはDLCのための広告、目配せのためでしかない不要なシーンだ。実際のところ、帝国はさらに多くの人間の功績と努力によって成り立っているはずで、ノクティス自身には帝国が誰のどういう働きで賄われているかなどわかるはずもない。戦争中に彼がすべての人間と目を合わせて息の根を止めるなどあり得ない。四天王はファンタジーであり、過去の産物なのである。世界の構造は一国の王には計り知れないのだ。
敵を倒して世界を救い、カタルシスを得る“物語”。「ゲーム」という文法がそういった意味を持っていたなら、そうさせたいならこの作品は失敗だったかもしれない。ただこの作品は私が思うに、プレイヤーをノクティスと同化させて仲間とただその行く末を見届ける“現実”であることを臨んでいたのだ。
本作で最も大切にされていたこと、それは「旅の質感」である。写真、料理、レジャーなど様々な手法を通してノクティスに人生最後の旅を楽しんでもらうための趣向が凝らされていた。少なくとも物語前半に関しては戦闘ですら、すべてのコンテンツは「旅の質感」に還元するためのもので、プレイヤーはおそらくどのゲームよりもAIたちとの旅に違和感を抱かなかったはずだ。そして1度は、仲間たちがこの旅路を通して何を考えているだろうかと思考を巡らせたはずだ。あまり使いたくない言葉であるが、本作は「ナラティヴ」な作品だ。男同士で何かを語ることはしないが、旅を通してそれぞれの感覚を共有させる。そういったやり取りを、プレイヤーは本作を通して体験することができた。
ここで再び、チャプター13を含むストーリー後半について振り返ってみよう。オープンな世界と別れを告げてリニアな展開へと切り替わる本作は、仲間を失う物語へと移行する。ヒロインと死別し、イグニスは視力を奪われ、プロンプトは消え、グラディオからは信頼を失った。「KINGSGLAIVE FINAL FANTASY XV」や前半のチャプターで煽られていた復讐に身を投じて、または国を取り戻すという大義によってプレイヤーは大切なものをひとつずつ失っていくという筋書きだ。とうとう手元に何もなくなったチャプター13は文字通り1人きり。都合よく仲間との旅を再開することは許されない。改めて聞こう、このチャプターがおもしろい理由とは? 戦闘が爽快である理由とは? まったくない。ある必要がないのだ。それが多少意図的かつ強制的な仕掛けを含んでいたとしても、このチャプターは寂しく、ひどくつまらないものであるべきだ。アーデンが楽しい仕掛けを用意する必要など何もないのだから。
これは個人的な感想に過ぎないが、レイヴスのキャラクター描写に関してもわからないという意見が多かったが私はそうは思わなかった。
「KINGSGLAIVE FINAL FANTASY XV」で彼がなにをされたかということと、ゲーム中の彼の数枚の手紙を読めば想像はできたはずである。実際、彼以上に真っ直ぐでわかりやすいキャラクターは本作にはいなかったと思っていることを主張したい。しかし、待ってほしい。これも私の想像によるものだ。仲間が、敵が何を考えているかが手に取るようにわかるなんてことは現実では起こり得ない。事実は存在せず、ノクトというインタフェースを通したインタラクティブな解釈のみによって本作の物語は創られる。
独りよがりな王から、全知全能の神へ
アップデートにより、「ファイナルファンタジーXV」はお利口になった。レイヴスの描写はよりわかりやすいものとなり、チャプター13にはグラディオ視点というものも追加され、グラディオが見て、聴いて、感じたものを直接体験できるようになった。大作が大作である体裁を整えることに成功した。さらに言えば、今では戦闘中に任意のタイミングでキャラクターを切り替えることができる。本作はノクトの独りよがりなゲームではなく、プレイヤーが全員を操作して体験するものへと生まれ変わった。DLCに関しても同様である。各章によって物語は着実に補完されていき、「エピソード イグニス」の配信をもってこのゲームは1度完成を迎えた。2018年のアップデートやDLCは予定されているとは言え、初期のロードマップは満たし、三人の仲間のDLCはすべて実装されることとなった。
実際に、「エピソード イグニス」で描かれたドラマは素晴らしいものだ。これを認めないユーザーは多くないだろう。しかし私は敢えて言いたい、この1年間の数多のユーザーの、ノクティスのイグニスへの想いは、解釈は否定されてしまうのだろうか。答え合わせをすることが必ずしも正しいといえるのだろうか。イグニスはノクトに自分の身に何があったかを伝えなかったはずだ。その想いを改めて解釈する力は私には失われてしまった。
1年を経て、本作は多くのDLCとアップデートを経て美しくなった。より多くのゲーマーに受け入れてもらうために。
それは恵みをもたらすエデンの果実
批判的な文章になってしまったが、一方で本作のアップデートやDLCが素晴らしいことは間違いない。未成熟なゲームシステムは1年間の開発を経て確実に進化した。「エピソード グラディオラス」ではコル将軍と合流し、初代の「王の盾」となる剣聖ギルガメッシュを討つ。ここではよりアクションゲーム然とした高度なゲームプレイを要求しつつ、コンボシステムという今後のDLCのバトルの基盤となる概念を構築した。加えて、本作のα版「エピソード ダスカ」のようにプレイキャラクターがアビリティを任意に発動させることができるようになった。ストーリーこそ大きなものではなく、バトルコンテンツとして扱われてしまったグラディオだが、王を導くものとしてそれ以降のFFXVの行く末を決定づけたという点でよいアップデートであるといえるだろう。
「エピソード プロンプト」では一風変わったTPSライクなバトルシステムに加えて、中規模なマップを用意。ストーリーこそリニアな作りでもあるものの、中間地点でブレイクポイントを設けることで、遊びの幅を広げることに成功した。ストーリーをみても、ヴァーサタイルという四天王の1人や帝国の裏側が掘り下げられるというメリットもある。
そして本作は「エピソード イグニス」をもって初期に予定されていたアップデートロードマップを1度完了することになる。なにより本DLCでは、映画「KINGSGLAIVE FINAL FANTASY XV」の時点からユーザーが夢を見続けていたシフト移動が完成する。設定上、イグニスが扱うのはシフト移動ではなく帝国軍のフックショットであるが、技術的にはシフト移動そのもの。オルティシエという中規模なマップ内のみに限定はされるものの、縦横無尽にシフトできる感動と快感は何物にも代えがたい。開発陣がユーザーにロマンを与えるために注力したということが伝わる作品である。各DLCで培った新しい技術も存分に活かされており、総決算にふさわしい出来であると言える。
これだけは言いたい。「ファイナルファンタジーXV」は1年間のアップデートとDLCを経て、とても遊びやすくよいゲームとなった。間違いなく全体的な評価は上がり、誰もが楽しめる、遊ぶべきエンターテインメント作品である。
しかし、これだけは言いたい。かつての無垢な可愛さは、そこにはもう存在しないのだ。
デジタルな魔法によって、手元で物語が書き換わる。それがよいことかは、まだ私にはわからない。
余談だが、この記事は私が商業サイトで書く初めての記事となる。至らぬ点は多くあると思うが、アップデートが済むうちはそこを含めて愛していただけるとありがたい。