韓国で「脱北美女」タレントとして活動していたイム・ジヒョンさんが突然消息を絶ち、昨年7月に北朝鮮の対外向けプロパガンダメディア「わが民族同士」に登場したことで、韓国社会には波紋が広がった。
彼女がいかにして北朝鮮に戻ったかは、未だミステリーのままだ。脱北して中国に潜伏していた当時、生き伸びるために出演したアダルトビデオチャット映像が流出したことなどを苦に、自主的に帰国したという見方がある一方で、北朝鮮の諜報機関に拉致されたという見方もある。
この件について、李潤傑(イ・ユンゴル)北朝鮮戦略情報センター代表は、韓国のタブロイド紙・日曜新聞への寄稿文で、複数の情報筋の証言から彼女が拉致されたことを確認したと述べている。
李氏が、「拉致の過程についてよく知っている」という北朝鮮国内の関係者から聞いた話によると、イムさんは今年4月、中国遼寧省瀋陽の七宝山ホテルに入った。
このホテルは、表向き北朝鮮の国家保衛省(秘密警察)系列の貿易会社が運営していることになっているが、実際に運営しているのは海外反探局、つまりスパイ担当部署だ。単に外貨稼ぎをするためだけではなく、工作員の秘密会議、党生活総和(総括)、思想教育目的の特別講演会などが行われる拠点である。また、かつてはハッキング部隊の基地が置かれていたとの情報もある。つまり、非公然組織のアジトというわけだ。
彼らは、目的のためには手段を選ばない。
(参考記事:北朝鮮の女子大生が拷問に耐えきれず選んだ道とは…)
イムさんには、在留資格のために偽装結婚した中国人の夫がいたが、保衛省の関係者に抱き込まれた夫は、借金と離婚問題の解決に向けて書類の整理をしようとイムさんを呼び寄せた。そこで拉致が行われたようだ。ただし、イムさんがどういうルートでホテルに向かったのか、部屋には入ったのか、また、夫がなぜ保衛省に抱き込まれたかなどについては、今の時点では明らかになっていない。
この関係者は、保衛省がイムさんを拉致するため驚くべき手法を使ったと証言した。
保衛省の要員たちは麻酔を使ってイムさんの意識を失わせ、全身をギプスで固めて動けないようにした上で、第三者の北朝鮮パスポートを持たせ病人のふりをさせて丹東から北朝鮮に入国させたというものだ。
李氏によれば、北朝鮮国内の別の情報源も、上記のような作戦が行われたことを確認した。また、イムさんにパスポートを渡すために、彼女に外見の似た北朝鮮女性が秘密裏に中国に送り込まれたとも語った。ただ、イムさんが北朝鮮に戻ったのは、丹東からではなく、吉林省長白朝鮮族自治県からだとこの情報源は証言した。
入国地点にズレがあることについて、さらに別の関係者は次のような説明をした。保衛省は不測の事態に備え、丹東と長白のいずれのルートでもイムさんを北朝鮮に拉致できるようにしておいたというのだ。結局、当初の予定通りの丹東ルートを使ったとのことだ。
それにしても、北朝鮮はなぜイムさんを拉致したのだろうか。それには2つの理由がある。
ひとつは、昨年4月8日に起きた北朝鮮レストラン従業員13人の集団脱北事件だ。浙江省寧波市の「柳京食堂」で働いていた女性従業員12人と男性支配人が飛行機に乗って合法的に中国から出国し、わずか2日後の4月7日に韓国に到着したというのが事件のあらましだ。
北朝鮮当局は「かいらい一味(韓国政府)の集団的誘引・拉致蛮行」(2017年2月9日朝鮮中央通信)だとして、家族をメディアに出演させるなどして、執拗に女性従業員の送還を求めているが、韓国政府は黙殺している。
(参考記事:美貌の北朝鮮ウェイトレス、ネットで人気爆発)
イムさんの拉致は、これに対する報復だというのだ。
もうひとつの理由は、韓国社会に恐怖心を植え付けるたまだ。そのため、タレント活動でそこそこ知名度のあったイムさんをターゲットにした。実際、イムさんの帰国を受けて韓国国内の脱北者の間には恐怖が広がり、北朝鮮は目的を遂げた形となった。
ちなみに拉致対象者にギプスをするのは、北朝鮮がよく使う方法のようだ。
コンゴ駐在の北朝鮮大使館で一等書記官として勤務していた1991年5月に脱北し、現在は韓国の国家安保戦略研究院で副院長を務める高英煥(コ・ヨンファン)氏は、韓国のケーブルテレビ・チャンネルAに出演し、ギプスを使うのは保衛省の常套手段だとして、次のような目撃談を語った。
1989年、エチオピアに派遣されていた北朝鮮の園芸技術者が、逃亡を図ったが捕らえられた。当局は、彼に注射をして意識を朦朧とさせた上で、顔以外の全身にギプスをして交通事故で怪我をしたとの言い訳を並び立てて、モスクワ経由で北朝鮮に無理やり連れ帰った。
高氏は、ギプスで全身を固められ、秘密警察の要員に連行される男性を平壌の順安飛行場で見かけた。一緒にいた金永南(キム・ヨンナム)外相(当時)に「あれは誰か」と尋ねたところ、「園芸技術者だ」との答えが返ってきた。誰かがアフリカで脱北を図ったとの話は知っていたが、金氏の答えを聞き、その人物の運命を悟ったという。
(参考記事:中国で「アダルトビデオチャット」を強いられる脱北女性たち)