きいろいせいかつ

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【闘病史】「痙攣発作3日後の容態」 #1 2018.1.8

「記録」をはじめてみる

 私にとって何が重要で、何が不足されているのかが、さっぱりわかなくなるのは、あの「痙攣発作」が起こった後の「虚無」のさなかでしばしば感じられる。

 このような「痙攣発作」があった後は、通院がうまくできないこともあれば、通院できても、医師に現状を伝えられないことが多い。

 診察後の判断で、運が悪ければ、筋肉に注射を打たれて麻痺を取ったり、精神の安定をはかったりすることもしばしばある。

 このような事態を避けるため、今年はなるたけ「記録」「日記」などというものを書いてみてもおもしろいと思った。

 これまでは、さほど自省するだとか、単に1日を振り返るだとか、そういう発想すらなかったが、「書く」ことは嫌いではない。

 かけるときにだけ。

 かけるだけ。

 内容を読まれてもさしてさしさわりもないので、公表するが、私の生活がどのようなものか読者に知ってもらうことも、“ある意味”では必要とされる可能性がある。

 普段とは違った私の単なる「生活」の「記録」であるため、この先は読者自身の判断で読み進めるべきと考える。

 私はこの「闘病史」に今後何度も目を通し、今後の通院治療に役立てるつもりだ。

 

年末年始の焦燥感と猥雑感

 毎年のことであるが、この「年末年始」という時期は、もうその時期でこそ、危険なフラグが立つと言っても良い。

 TVをつければ「特別番組」、街へ繰り出せば「大混雑」、帰省する者もいれば、新年のあいさつに伺う者もいる。

 そういったごく「あたりまえ」ではあるものの、世間全体が大きく動きだす時期というのは、私の体調も狂いやすい。

 本来は「自制」すべきところを、“少しなら”と手伝ってみたり、伺う者があれば良い顔をして迎えた。

 これらは「あたりまえ」のことであり、自然とやろうとする自分を本来は褒めてやるくらいでもあるが、今の私にとっては、あまり好都合ではないようだ。

 ちょうど年始が終わり、皆が仕事に出かけた頃、「さあ、私も仕事だ!」と意気込んでいたところに、右手のしびれを感じたのである。

 

今回は3日で回復

 痙攣発作自体は、サインの早期発見により、今回は驚くべきほど迅速に対応ができた。

 よって、発作自体も大きくならず、家族に迷惑をかけることもなかったと思われる。

 ただし、発作後の脱力感、特に筋緊張の低下はやはり著しく、うまく立てないので、ベッドから床へストンと落ちたり、少し特殊なリハビリを組み立てたりした。

 食事は運んでもらっていたが、食欲は落ち、胃袋は縮小した。

 しかし、今日で発作後3日目であるが、この場でこのような記述ができるくらいにまで回復した。

 これは、発作のサインを見逃さなかったあの一瞬が大きかったと思われる。

 

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 減らない「トイレ」

 私を年々苦しめ、薬の副作用であるとされている「トイレ」の回数であるが、今年に入っても全くもって減らない。

 一日に平均して15回はトイレに行く。

 これは、身体的には「脱水」を招く可能性もあるし、精神的にも落ち着かず、注意散漫状態で1日が終わる。

 発症して5年ではあるが、この「神経因性膀胱」とも思われる症状は、全く良くなる兆しがない。

 他にも多々、症状はあるが、「ひとり仕事」をしている最大の理由はここにある。

 冬の間でも、夕方くらいになると「脱水」の初期兆候が出始めたりするので、このあたりは今後も注意していきたい。

 

「やりたい」けど「やらせてくれない」

 ただ、もうこういった状況の日々は、「休む」ことに限るのだが、ずっとベッドに臥床状態というわけにもいかない。

 私は部屋にこたつを設置して、なるべく日中はそこで座ってTVや映画を観たりすることにしている。

 まぁ、それはそれで楽しくて、よい時間だったと思うこともあるけれど、なにしろもう1ヶ月(おおげさに言えば5年)はこの状態でずっと過ごしているし、私が最もやりたい「書くこと」、特に「皆に向かって発信すること」がうまくできないことにむしゃくしゃする毎日だ。

「ああ、これおもしろいな」と思えばブログ記事にしたいし、自分の作品(小説やエッセイ)に反映したいなと思うことが多々あるけれど、そこまでどうしても結びつかない。

 しかし、おそらくこれは「自己防衛」で、「できない」のではなく身体が危機を感じ「やらせてくれない」のであろう。

 ここで獅子奮迅して作品作りに没頭すると、私の身体は容易に崩れていく……そんなことを、我が身は自然と学習しているのだと最近は考える。

 

「焦る」ほうが時間の無駄

 毎日トイレに15回も行って、ベッドに横になり、調子がよければ座ってTVを観る……。

 この生活の中に、「自己実現」のための活動はあるのだろうか?

 答えは明らかに「NO」ではあるが、焦って悩み出すことほど無駄な時間はない。

「休む」ことの隙間のなかで、少しでも「書きたい」=「書ける」が合致する瞬間がくれば、私はいくらでも書ける。

 ほら、気がつけばもう2000字も書いている(笑)

 私の主治医はこう言う。

「びびさんは、病気があっても自分で道を切り開いていける人です。私が『こうしなさい』と指示をしても、きっと混乱なさると思います。だから、今は我慢のときです」

「普通」の定義がわからないが、「一般的」「普遍的」といわれる生活に近づくことを目標とはせずとも、私は生きてゆけると信じている。

 私は私の道がある。

 亀の歩みで、明日は通院日。